36.同情なのに期待してしまう

 ヴィクトール様に妻がいないと聞いて、どきどきしてしまう。ひどく自分勝手に思えて自己嫌悪に陥ったのは、執事ベルントが退室してしばらくしてだった。


「どうなさいました? おく……お嬢様」


 奥様と言いそうになって、アンネは慌てて笑顔を作った。誤魔化すのが上手ね。ふふっと笑ってしまった。もしかして、それが目的? 私が青ざめたから心配したんじゃないかしら。


 私には過ぎた侍女ね。勿体無いくらい。そこで気持ちが少しほぐれた。彼女に相談してみようと思う。あの屋敷で前世の記憶の共有を知った日から、一蓮托生だもの。


「話を聞いてもらってもいいかしら」


 頷いてベッドサイドの椅子に座った彼女が、両手で私の指先を包み込む。人の温もりや手の柔らかな感触で、気持ちが軽くなった気がした。


「どうぞ」


 聞く体勢を整えたアンネは、なぜか微笑んでいた。少し嬉しそう。そこで気付いた。過去の私が彼女に相談したことはなかったわ。何か欲しいものをお願いしたことはあるけど、ただ聞いて欲しいなんて相談は初めてよ。彼女に頼り切っていたつもりだけど、物理的な面だけだったみたい。


「私、変なのよ。夫だったレオナルドと離縁できて嬉しい。好きでもないし、前世を思えば怖いだけだもの。だから爵位を取り戻して独立するつもりで……準備してきた。でも気持ちが揺らいでいるわ」


 空いている左手で胸元をぎゅっと握った。この胸が高鳴るの。それをどう説明したらいいかしら。


「大公閣下のご厚意ですか?」


「ええ。あの方は私達を助けてくれたわ。何も利害関係がないのに、あんなに親切で優しい方は初めて。あなたも知ってるでしょう? 私はアウエンミュラーの血を受け継ぐ存在だけど、実家で一度も大切にされたことはなかった」


 苦しくなる。アンネはリヒテンシュタイン公爵家の侍女だった。嫁ぐ前に滞在し始めてからの私しか知らないわ。精々1ヶ月程度。実際は前世もあるから、付き合いはもっと長い。それでも、実家で蔑ろにされた事実を詳しく話すのは迷った。


「令嬢なんて名ばかり、侍女より酷い生活をしてきたわ。食事は残り物だったし、部屋を掃除してもらったこともないの」


「っ、なんてこと……」


 息を呑んだ彼女の顔を見る勇気がなくて、私は俯いた。包まれたままの指先が温かくて、泣きたくなる。


「だから、勘違いしてしまいそうで怖いわ。ヴィクトール様は私に優しくしてくれる。それは同情なのに、私は期待してしまう。私だけに親切なわけではないのに」


 一気に吐き出して、震える喉で息を吸い込んだ。ゆっくりと吐いて気持ちを落ち着けようと心がける。気持ちを誰かに吐露したことはない。親しい友人もいないし、家族と呼べる母が亡くなってから、誰も頼れなかったわ。


「お嬢様は、ヴィクトール様に期待していらっしゃいます。その気持ちをなんと呼ぶかご存じですか?」


「いいえ。あなたは知っているの? 苦しくてどきどきするの。奥様の存在に思い至って心が痛むのに、いないと知ってほっとする。こんな浮き沈みの激しい感情は知らないわ」


 アンネはとても綺麗に笑った。そばかすの跡が残る頬にエクボが浮かんで、すごく可愛いと思う。私の指先だけでなく手をしっかりと握って、アンネは思わぬ解決方法を口にした。


「そのお気持ち、大公閣下に告げてください。きっと喜んでくださいます」


 どうして? 喜んでくれるわけないわ。私は妻でも恋人でもない、ただのお荷物だもの。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る