歳の離れた兄妹の話

蒼生

第1話

私は幼い頃から、母や父に叱られると自分の部屋の押入れに閉じこもる癖がある。初めてそうしたのは、9歳年の離れた兄が中学に入学する前日だった。

私も兄と中学校に行きたいと駄々をこね、母に叱られたので押入れに閉じこもった。夕飯の準備をしていた母はそんな私をほったらかしにした。それでさらに拗ねた私は、母が呼びに来るまで絶対に押入れから出ないつもりだった。3歳の私は、押入れの中で暗くて怖いのと、1人で寂しいのと、兄と学校に行きたいのとで、シクシクと泣いていた。当時はそれが何時間にも感じ、私はお母さんに忘れられてしまったんだ、おにいに嫌わらてしまったんだと思っていた。今考えれば、ほんの十数分だったのだろう。押入れを開けたのは、兄だった。

「みい、もう出ておいで」

幼い頃、私はみんなから「みい」とか「みいちゃん」と呼ばれていた。今は兄だけがそう呼ぶ。

「おにいはもうみいが嫌いなんでしょ」

兄が押入れを開けてくれたのは嬉しかったのに、それでも私は拗ねていた。

「なんで?みいのこと好きだよ」

「じゃあどうしてみいを置いていくの?」

私がそういうと、兄は少し困ったような顔をした。しかし、すぐに笑顔になって、私が入っている押入れに入り込んできた。

「中学には一緒に行けないけど、そのかわり、ここをみいとおにいの秘密基地にしよう」

「ひみつきち?」

「そう、2人だけの秘密基地。そして寝る前に、毎日ここでお話をしようよ。その日一緒にいなかった間のお話」

2人だけの、という言葉に、私はもう泣き止んでいた。そして、その日から、兄は本当に毎晩私と押入れに籠もっては、中学の話をしてくれた。それは、兄も私も成長して、2人で押入れに入れなくなるまで続いた。兄はその頃のことを覚えているのだろうか。

9歳も離れた兄妹だからか、兄は昔から面倒見がよかった。私が幼い頃は、両親に代わって私を寝かしつけていたし、学校が休みの日は、両親が働いている間いつも私と留守番をしていた。友達と遊ぶときに、私も仲間に入れてくれた。おかげで私はすっかり男の子向けのゲームが得意になった。大学に入ってからは、さすがに兄が私に構うことも減った。それでも、私がどこかに行きたいと言えば両親に代わって連れて行ってくれたし、家にいる時はいろんな話をしてくれた。

兄が押入れに入れなくなってからは、私たちの部屋で話をした。兄とは今でもずっと一緒の部屋だ。兄がいれば、ほかに友達はいらなかった。兄といる時が一番楽しかったからだ。兄がいれば、恋人もいらなかった。私の兄が一番かっこいいからだ。兄さえいればよかった。ほかに何もいらなかった。

そんな兄が、今日家を出る。彼女と同棲を始めるという。あんなに一緒にいたのに、あんなにたくさん話をしたのに、兄に彼女がいることを今日まで知らなかった。同棲の挨拶と言って兄が連れてきた女の人は、兄より4つ年下で、私より5つ年上の、かわいらしい人だった。兄に彼女がいたことか、兄が出ていくことか、何がショックなのかはわからないが、私は今16歳になったというのに、拗ねて押入れに閉じこもっている。

「みい」

外から兄の声がした。私は答えなかった。

「みいちゃん」

本当は兄と話したかったが、兄が押入れを開けるまで返事をしないと決めていた。

「みい、おにい明日からいないのに、みいと話せないの悲しいな」

そういうと、兄は押入れをゆっくり開けた。

「……なら、出ていかなければいいじゃん。どうして私を置いていくの?」

私がそういうと、兄はやっぱり少し困ったような顔をした。

「みいも、もうちょっと大きくなったら俺なんかより一緒にいたい人ができるよ。そしたら、その人と一緒に暮らすんだよ」

「おにいより一緒にいたい人なんていない。おにいがいればいいのに」

そんなこと言っても仕方ない、3歳の頃の駄々っ子と変わらないことはわかっている。寂しさと恥ずかしさで涙が出た。

「おにいは私が嫌いになったんだ」

私は、兄をつなぎとめる方法をこれしか知らない。こう言えば、兄は私を好きと言ってくれる。好きと言ってくれるなら、私はここから出て兄を見送ることができる。年下の女の人と暮らす兄を、悲しいけど見送ることが出来る。しかし、兄は私から目をそらした。

「嫌いじゃなくても、離れないといけない時もあるんだ。みゆきも大人になったらわかるよ」

当然、兄が好きと言ってくれると思っていたから、兄の言葉に驚いた。驚きで涙は止まったが、私は何も言えずにただ兄を見ることしかできない。そんな視線に気づいたのか、兄が顔を上げた。

「ごめん。みいはやっぱりわからないままでいてほしいや」

兄はそういうと、私を見つめて微笑んだ。

「俺はもう秘密基地には入れないけど、代わりに俺の荷物入れてもいい?」

「……いいよ」

兄が秘密基地を覚えていてくれて嬉しかった。どうせ兄がいなくなるのなら、兄の物をしまっておけば、2人だけの秘密基地のままにしておける気がした。私は押入れに入ったまま、兄が手渡してきた段ボールを受け取った。

「これだけ?」

「うん。他のものは捨てることにしたんだ」

私は、兄から受け取った小さな段ボールを、自分が座る横に置いた。その様子を見届けると、兄はまた微笑んだ。

「じゃあ、俺行くね」

「……おにい」

立ち上がった兄に、私はもう一度声をかけた。

「うん?」

「閉めて行って」

兄は再びしゃがむと、私が入っている押入れをそっと閉めた。兄の顔は見えなかった。

「みゆき、落ち着いたら遊びにおいで」

外から兄の声がした。少し間があって、遠のいていく足音がした。もう少しすると、両親と兄、兄の彼女の声がした。玄関のドアが開く音がした。兄の声がした。

音がしなくなると、私は兄の荷物が入った段ボールにもたれかかった。……段ボールとガムテープの匂いに混じって、少しだけ兄の匂いがした。

この匂いがなくなる頃には、兄の家に遊びに行くことができるだろうか。

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