15 王城からの脱出
ソラリスの『特訓』はミューを巻き込み、本当に朝まで続いた。
ひたすら歌って戻って歌って戻ってを繰り返した結果、戻れる時間の長さは飛躍的に向上した。具体的には三分弱から五十八分まで伸びた。どうやら音を二、三音しか外さなければこの長さまでいけるらしい。完璧な音程にはまだ未達である。ソラリスの音痴はなかなかに手強いが、本人は至って前向きだ。
「まぁ一晩にしちゃいい成果だろ。この調子で特訓すれば一生戻ってられるようになるぜ、きっと!」
「その前に一生が終わりそうな気がする……」
ミューのうたた寝中にソラリスが行った実験によると、眠っている間は歌っても入れ替わらないらしい。それ故ミューも二時間ほどの仮眠をしたのみで叩き起こされたのだ。向上心の高さについていけない。
(それにしたって一晩中歌いまくってたのはソルなのに、頑張るなぁ……)
睡眠不足のせいか上調子に笑うソラリスをあくびをしながら見つめる。今日も舞台はあるだろうに、彼はおそらく仮眠すら取っていない。声も掠れているし、目も赤い。大丈夫なのだろうか。
道中で倒れでもしたらと心配になり、朝食は後に回して宿場まで送ることにした。
寄り添って歩く二人の背中を玄関ホールの窓から見つめ、リカルドは考え込む。
「どうしたんですかぁ、リカルド君? めずらしく邪魔しないで」
「あれを見てどう思う、エファル」
リカルドの視線を辿ったエファルは、彼女にしては難しそうに短い眉を寄せる。
「うーん。ミューちゃんは良い子ですし、つまり、仲良きことは美しきかなぁ……?」
「そこで疑問系なのか。……いや、お前ですら疑問を感じることなんだよな。これ以上、情が移る前に手を打たないと——」
「手を打つってなに? 手打ち? 麺でも打つの? お昼ごはん?」
唐突に後ろから聞こえた声に、リカルドの肩は比喩でなく跳ね上がった。
「ソル⁉︎ もう帰って来たのか⁉︎」
「一座の子達がそこまで迎えに来てたから。今日は出番早いんだって」
じゃあ私は寝るから、と階段に足をかけた背を呼び止めて告げる。
「今日の式典はお前が行け。俺にはやることができた」
「えぇー? その用事、明日じゃだめなの? 今日は眠くて」
「何で眠いんだ。混血と遊んでたからか」
「あ、あそぶって……その、ソ……ミューとは、リカルドが思ってるような関係じゃなくて、もっと真面目というか、真剣な間柄であって……だから、私たちは遊んでるわけではない、よ」
しどろもどろ発された言葉は、リカルドの中に残った躊躇いを吹き飛ばした。
「……言いたいことはわかった。俺の用事は延ばせない。エファル、支度させろ」
「えぇ、ちょっと、リカルド君!」
勝手を咎めるエファルの声にも振り向かず、リカルドは奥に去る。
「どうしたんだろう……支度は絶対にリカルドがやってくれたのに、執拗に」
「お腹でも壊したんですかねぇ?」
首を傾げ合いながら、いつもよりくたびれた仕上がりの支度を済ませ、迎えに来たウルクと数日ぶりの会場へ向かう。徹夜を感じさせないソラリスの舞にまずは安堵し、彼が出番を終えた幕間で、ミュー以上に眠そうなウルクにさりげなさを装い尋ねた。
「そういえば、お兄さん帰ってるんだって? 挨拶とかできる?」
「いやぁ。また今回は手酷くやられてますから、しばらく寝込むんじゃないですかねぇ」
「……? 怪我でもしてるの? 大丈夫?」
「まあ、あの人も大概丈夫ですし、慣れてますから大丈夫ですよ。会いたいなら伝えておきますね、あっちも気にしてましたから」
式典後、宿場に寄ってソラリスを誘い、一緒に宮殿へ戻る。いつも門扉で出迎えるリカルドが今日はいない。エファルもどこへ行ったか知らないらしい。昨夜からの静かな様子を思い出し、本当に体調でも悪いのかと心配になる。
「リカルドも居ないし、ご飯は部屋で食べようか」
レムの離宮ではリカルドが炊事をしていたが、宮殿に戻ってからはさすがに調理人に任せているらしく、食事の準備は整っている。部屋に運んでもらおうとエファルに頼んできたほんの僅かな時間で、ソラリスはベッドに腰掛けたまま倒れたような姿勢で寝ていた。
徹夜な上に舞台もあったのだ。平気な顔をしてはいたが、かなり疲れていたのだろう。
(頑張りすぎる人だなぁ、ほんと。これからは、無理しないようにしてあげないとな)
布団を体に敷き込んでいるため、膝掛けを持ってきて被せながら今後のことを考える。
元に戻ったら、カンナはソラリスに、今度は男舞でも仕込むだろう。黙っていれば見目麗しい彼だ、きっと看板役者になる。使い倒さないようにお願いしておかなければ。
(楽しみだな。ソルと一座に戻るの)
未来をこんなに素直に楽しみに思うのは、もしかしたら初めてかもしれない。
食事の配膳はとうに済んでいたが、一人で食べる気にもならず、未来に思いを馳せながら小一時間ほど寝顔を見つめていると、細かく震えた瞼がゆっくり開いた。
「……あー、寝ちゃってたか、ごめん」
「疲れてるんだよ。ご飯食べてからちゃんと眠れば?」
寝ぼけたような仕草で頷いた彼だったが、続き部屋の卓につき、茶を飲んだ後にはいつもの調子に戻っていた。冷めたスープを頓着せずに飲みながら尋ねる。
「そういや昨晩、秘密にしてることがあるとか言ってたよな? 何?」
「ああ、色々あって言うの忘れてた。あのね。実はお兄さん、入れ替わりのこと、知ってるんだよね」
「………………え? い、いつから……?」
「目が覚めて、すぐ。私が慌ててばらしちゃって」
瞳を零れそうなほど見開いたソラリスだが、すぐに納得した顔をした。
「……だから俺を処刑しなかったのか。中身がミューじゃ殺せないよな」
「そういうわけじゃないと思う。中身が私って知る前から、ソルのことを処刑しないですむように手を打ってくれてたし」
「俺の知ってるあの人は、自分の役割は忠実に果たす。決闘敗者は死罪っていう掟を曲げてまで、俺を助ける理由がわからないな」
「お兄さんの事情を詳しく話してくれたわけじゃないけど、私にはずっと親切にして、守ってくれた。……だからソルにも全部は言えなくて。ごめんなさい」
「それはまぁ、仕方ないだろ。兄上に対しては物騒だしな、我ながら。……兄上が、ミューを助けてくれてたならよかった。秘密を抱えて一人きりじゃ、きつかったろうしな」
責められると思っていたのに、彼はやけに優しく笑う。それがどうにもこそばゆい。
そこで、階下がにわかに騒がしくなる。階段を上ってくる複数の足音と、金属が擦れる耳障りな音が部屋の前で止まると同時に扉が破られた。とっさに立ち上がったソラリスが窓を背にミューを庇い、廊下にはエファルの悲鳴じみた声が響く。
「リカルド君、どういうこと⁉︎ 兵士を連れて主人の部屋に踏み込むなんて!」
「黙ってろエファル。ソルに危害を加えるわけじゃない。……その混血を外に摘み出せ」
リカルドは引き連れた兵士に端的に命じた。思わぬ事態にミューは混乱する。
「リカルド、なんで……? どうしてそんなこと……!」
「遊ぶだけならともかく、本気なんだろ? 王子が混血と番うなんて認められるか。ただでさえ敵ばかりなのに、そいつにかまけてたら同部族すら敵になるぞ! ……いいか、お前は王子なんだ。全部忘れてもそれは変えられないんだよ、どうしたってな!」
言葉とは裏腹にリカルドは苦しそうだ。その表情に、彼には彼の役割があるのだと悟る。
「大人しく従わないなら、手段は選ばない。混血が一人消えても問題にすらならない。ここはそういう場所だ」
「……どうかしてるよなぁ、やっぱり」
いっそ穏やかに、ソラリスが呟いた。困ったように眉を寄せてリカルドを見る。
「でも、お前にそれが出来るとは思えないけどな。そんな悪役じみたこと向いてないだろ」
「ソルだって、兄殺しなんて薄暗いことにはこれっぽっちも向いてなかった!」
追い詰めているのはリカルドのはずなのに、切羽詰まった声で叫ぶ。
「だから、ソルを守るためになら、俺だって手を汚す」
「お前のそういうとこ、ほんと参るよな」
苦く笑ったソラリスは、そっと息を吸った。今までで一番正しい音程で歌う。
視界がぶれて体が戻ると同時に、後ろから腕を引かれる。バルコニーの窓を蹴り破りながら、ソラリスはミューを抱えて叫んだ。
「しっかり掴まっとけよ、ミュー! 飛び降りるぞ!」
バルコニーを侵食していた木の枝を掴み、ミューがしがみついたのを確かめた彼は、窓際に詰め寄ってきたリカルドに告げる。
「なぁ、リカルド。お前は俺より不器用なんだから、やめたほうがいいぜ、そういうの。どうせ失敗すんだから!」
「……ソル? お前、まさか——」
「エファル!」
「は、はいぃ⁉︎」
呆然としたリカルドを背後から抑えたエファルに命じる。
「暴走癖毛のお守りは頼んだ! 後でアホほどへこむだろうから慰めてやれ、ただし一発殴ってからな!」
「…………っ、はい、ソル君!」
赤い瞳を潤ませたエファルの返事に笑ったソラリスは、ミューを抱えたまま、枝を始点に中庭に飛び降りる。何とか倒れず着地したところで、茂みから声がかけられた。
「あーやっぱ揉めてましたね。あの怖い人が兵士集めてたんで、もしやと思って準備しといて正解でした」
緊迫感のない様子で現れたのはウルクだった。丸い虹彩を庭の奥に向ける。
「とにかく一旦、城から出ましょう。僕が案内しますよ、主人の命令なので」
主人ということは、レムが外に逃げろと言っているのか。迷う間もなく声が届く。
「……おい、待て! 待ってくれ、ソル! おい、あいつらを止め——がっ」
リカルドの懇願めいた叫びは、鈍い声を最後に静かになった。
主命に忠実なエファルに感謝するが、残された兵士が階下へ向かう気配がする。
「こんな状況ですし、説明は後ほど。今は行きましょう。外への隠し通路があります」
促されるまま裏庭へ走り、茂みの陰に隠された鉄作りの扉を見つける。ウルクが解錠し、扉の先にあった獣道のような通路を走り抜けると、街道らしい広い道に出た。そこには二頭立ての幌馬車が待っている。ウルクが呼んでくれたのだろう、一座の馬車だ。
「ったくもう、王宮に連れてけって言ったり逃げるって言ったり忙しいわねあんたも!」
馬車の陰で待ち構えていたカンナに詰め寄られ、習慣的に身が竦む。
「ひいっ! ごめんなさい!」
「いやぁ、面目ない」
悲鳴で謝るミューに対し、ソラリスはへらりと笑って頭をかいた。
対照的な二人の反応に切れ長の目を見開いたカンナは、やがて訝るように眉を寄せた。
「え? ……あんたたちまさか……戻ってるわけ?」
顔を見合わせて頷く。「そうならそうと早く言え」と、二人同時に頭を叩かれた。
ともかく急いで馬車に入る。馬車の中には一座の皆が揃っていた。
御者はウルクが務めることになり、まずは城から離れるために街道を出発する。
入れ替わりのあらましはカンナが事前に説明してくれたらしく、ソラリスが改めて自己紹介し、現状を語った程度で話は済んだ。双子がソラリスの腕にじゃれながら言う。
「でも、僕らもなんか変だと思ってたよね、エリ」
「お城に行ってからは何となく気付いてたわよね、サリ。並んでるとわかるもの」
「そ、そうなのか……なら俺にも教えてくれたって……」
意外に鋭い双子に、拗ねたようにジョンがぼやく。それを無視してカンナは言った。
「で、ミューは、ここに帰ってきたってことでいいの?」
「……うん。私はしょせん私で、戻れてもソルみたいには出来ないだろうけど……でも、やっぱり私の家はここだから」
ごめんね、と続けようとした言葉が声になる前に、サリとエリが抱きついてきた。
「おかえり、ミュー!」
驚いたミューの頭を、ジョンの大きな手がぽんと撫で、「おかえり」と優しく笑った。
和んだ空気に、ため息をついたカンナも口元を緩める。
「……言いたいことはまだまだあるけど、まぁいいわ。まずはおかえ——」
「まとまったところで、おかえりパーティーでもやるか! 飯の途中で腹減ったし」
「黙んなさいよあんたは、男だと余計にやかましいわね!」
ソラリスの頭を叩くカンナの耳はほのかに赤い。めずらしい座長の姿にぽかんとする。
「おかえりって言ったよね、いま」
「言ったね、いま」
「言ったな、いま」
頷き合う三人に、ミューはようやく「ただいま」と言って笑った。
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