14 二人の邂逅
ミューが〈兎〉の里から戻った夜、ソラリスはいつもよりやや遅い時間に宮殿にやってきた。門を開けたリカルドは、いつもの渋面にどこか諦めたような響きを混ぜて言う。
「……懲りない奴だな」
悪びれない微笑で返したソラリスを連れ、二人で居室に入った。ミューは窓際の椅子に、ソラリスは椅子にほど近いベッドに腰かける。彼が王宮に戻ってから共に過ごした時間の中で、そこがこの部屋でのお互いの指定席となっていた。
子供のような仕草で片足を抱えて揺れながら、ソラリスは口を開く。
「兄上に会ったんだよ、昨日。なんでかここの庭に居てさ。腕輪も着けてたし、どうにか探りを入れたいところだなって——おい、ミュー、どうした? 大丈夫か?」
「え? あ、あぁ、うん……大丈夫」
「さっきから元気ないな。もしかして、里で何かあったのか?」
心配そうに眉を寄せるソラリスを見つめ、ミューは心を決めて切り出した。
「私たち、元に戻ろう。私はもうあなたではいられない。里で、それがわかった」
「……そうか。悪かったな、嫌な思いをさせて」
全てを察したように謝ったソラリスに、なぜか僅かな苛立ちを覚える。
それを押し込めるよう、努めて淡々とした声で、ずっと考えていた言葉を口に出した。
「今までのこと、全部話すよ。あなたに秘密にしていたことも、全部。……だから、約束してほしい。元のあなたに戻っても、お兄さんにまた決闘を挑むとか、つまらないことは考えないでいてほしい」
「まあ、たしかに面白いことじゃないけどさ。俺にもそれなりに理由ってもんがあって」
「だから!」
苦笑と共に返された言葉を遮るように、ミューは大声で叫んだ。
「だから、その『理由』を全部捨ててほしいって言ってるんだよ、私は!」
「え⁉︎ な、何で……⁉︎」
ミューの剣幕に怯えたようにびくりと肩を跳ねさせる。
まるでわかっていないような態度に今度こそ腹が立ち、勢いのまま言い募る。
「あなたはもう、『理由』に対する責任は果たしたでしょ? 一族のみんなの期待も責任も全部背負って一人でお兄さんと戦った。それで、私のせいもあるかもしれないけど、結局は負けたんだ。決闘敗者は普通は死罪なんだから、ソルが今ここに居るのは手違いみたいなものでしょ? ならいいじゃないか。もう、いいよ」
不思議そうに瞬くばかりの瞳を、その星を、いっそ睨みつけて続ける。
「もう、王子様なんか止めていい。〈兎〉の王子のソラリスじゃなくて、ただのソルになっていい。ソルになって、私とここから逃げようよ。私は弱くて役立たずだけど、あなたと一緒に逃げることならできる。……私に出来る限りはだけど、守るから。だから」
「……何でミューがそんなこと言い出すんだよ、突然」
驚きか、困惑か、それとも反発なのか。
感情の読めない声音で問われ目を伏せたミューは、知らず汗ばんでいた拳を握る。
「だって——もう充分でしょ? あなたはもう充分『王子様』を頑張った。これ以上頑張ろうとするソルを見るのは嫌なんだよ、私も何でかわからないけど! だから……っ⁉︎」
伸ばされた指が頬に触れる。驚いて顔を上げると、唇に触れるものがある。近過ぎてぼやける琥珀色の瞳が、どういう意味かわからず瞬く。
「……自分の顔じゃ、やっぱりなんか、微妙だな」
困ったように眉尻を下げ、彼にしてはへたくそに笑う。そこでようやく、ミューは今しがたされたことを悟った。
(い、今のはまさか……な、なんで? うるさかったから口封じ⁉︎)
混乱し、口を押さえて黙り込んだミューの顔色を窺うようにソラリスは言った。
「元に戻ったら、もう一度やり直していいか?」
「な、なんで⁉︎ それこそ何で⁉︎」
「嫌?」
「い、嫌、では……ないと思う、けど……なんでなのかなって……?」
「だって、『全てを捨てて私と逃げて』なんて、プロポーズかと思うじゃないか。だから、ほら」
照れたように言った彼は、今度はきちんと嬉しそうに笑った。その頬は僅かに赤い。瞳に満ちた星もいつもより強くきらめいて、だから彼は今とても、喜んでくれているのだと思った。跳ねる鼓動はそのままに、ミューは深く安堵する。
「ここから逃げるなんて考えたこともなかったな。俺は真面目ないい子だから」
「私が悪い子みたいに言わないでよ……」
「悪い子だろ。箱入りの王子様を唆してるじゃないか。いま、まさに」
おかしそうに笑った後で、もう一度顔が近付いた。唇が触れ合う寸前、前触れなく扉が開く。開いたのは予想に違わずリカルドだ。
「…………えっと、その、まつ……まつ毛が」
「……………………」
下手な言い訳を最後まで聞くこともなく、無言のままに扉が閉まった。
足音が静かに遠ざかるのを聞きながら、顔を見合わせ同時に呟く。
「こわ……」
怒鳴り散らすのが普通なだけに、静かに去った心中が読めない。
どうやら戻ってくることはなさそうだったが、お互いに何となく体を離す。
「……ま、何にせよ、元には戻らないとだな」
ベッドに座り直したソラリスは、仕切り直すように言った。
「そうだね。元に戻って、それでカンナがいいって言ったら一緒に一座に帰って……」
「だめとは言わないだろ、そもそもここにはミューを迎えに来たようなもんだし」
「……え? そうなの⁉︎ それじゃあ、もしかしてカンナって——」
「ああ、入れ替わりのこと、カンナさんだけは知ってる。言ってなかったか?」
「聞いてないよ! だから私が行くと機嫌悪かったのか……!」
正体を明かすでもなく、曖昧な態度のミューには、さぞかし苛々したことだろう。
「カンナさんには目覚めて二分で別人ってバレたからな。王族関連のゴタゴタに巻き込むのは嫌だって、他の連中には秘密だけどさ。……カンナさんが俺を匿ってくれたのも王宮に来たのも全部、ミューを取り戻すためってことだ。本人はそうは言わないけどさ」
「……私、本当に何にもわかってなかったんだね。勝手に拗ねていじけてただけで」
カンナは自分を追い出したいのかとさえ思っていた。今更ながら情けないし申し訳ない。
「帰ったら歌姫を頑張ればいいさ。……あ、そうだ。歌といえば、あれ歌ってくれよ。最初に会った時に歌ってくれたやつ」
「あの歌を? なんで?」
「歌姫になるための練習。どうしても思い出せなくてさ。また聞きたかったんだ」
期待に満ちた目で見られると恥ずかしいが、無下にもできない。仕方なく息を吸い、久しぶりの旋律を歌う。
「――…………♪」
短い歌を終えると、ソラリスは満足そうに目を細める。
自分も小さく息を吸い、ミューの歌をなぞるように——なぞろうとしたのは辛うじてわかるような微妙な音程で、歌った。
「…………ソルってさ、もしかして」
「歌だけはどうしてもな……こうなるんだよな……」
悔しげに肩を落とすソラリスが妙に哀れっぽく、つい笑ってしまう。
「だから歌姫じゃなくて踊り子だったんだね、ソル」
言い終わる前に、ふっと意識が遠のいた。視界が一瞬ぶれて、すぐ戻る。
何だろうと頭を振ると、同じように白い頭を傾げるソラリスが見えた。
(……ん? 白い頭……⁉︎)
思わず立ち上がると、いつもより目線が低い。ぽかんとしたミューを、やはりぽかんとした顔で、星を宿した青い瞳が見ている。さっきまでミューが座っていた窓辺の椅子で。
にわかに落ちた沈黙を破ったのは、ソラリスだった。
「……いやちょっと待て、戻ってないかこれ⁉︎ 触れるし!」
言うが早いか立ち上がったソラリスはミューの脇に手を差し入れ、唐突に抱き上げた。
とっさのことに声も上げられないミューに「ほらな!」と大きく笑う。近い距離で瞬く星と頬に触れる柔らかな髪に、たちまち顔が熱くなる。
しかし、その体勢は長くは続かなかった。かかる重さに腕を震わせた彼は、ミューを下ろそうとして足元のバランスを崩した。横にあったベッドに、ミューを下に倒れ込む。
「ご、ごめん! 大丈夫か、ミュー!」
とっさに腕で囲うようにしてくれたので、ミューに被害は特にない。しかし、ソラリスの腕に閉じ込められたような——直接的に言うなら押し倒されているようなこの体勢にはやや問題がある。なぜならば。
(も……戻ったらもう一度って言ってたよねついさっき⁉︎)
緊張するミューにつられたように、ソラリスも真面目な顔をする。
「ミュー……あのさ。薄々は気付いてたんだけどさ」
「な、ななな、何⁉︎」
「……めちゃくちゃ筋力落ちてるんだけどこの体! 何してたんだこの一年⁉︎」
「え、えぇ? 別に何もしてないよ、ご飯食べて散歩して大人しくしてただけだよ!」
「大人しくするなよ暇なら鍛えとけよせめて! ただでさえ〈兎〉は骨格細いのに筋肉までなくすとモヤシになるだろリカルドになるだろ、着痩せするんですねと褒められるのが目標だったのに!」
「だ、誰に……⁉︎」
そこで視界がぶれた。視点が入れ替わり、琥珀色の瞳を瞬かせるソラリスが下に居る。
「……また入れ替わった……のか? 何だったんだ、今の」
体を起こし、目を伏せて考えたソラリスはぽつりと呟く。
「歌か……? ちょっともう一度歌ってくれ、ミュー」
「え、えっと……はい……?」
促されるまま歌うが、特に何も起こらない。また少し悩んで、今度はソラリスが、さっきよりはややましな音程で歌う。たちまち視界がぶれて、また自分の体に戻る。
隣に並んで座ったソラリスは、口元に手を当てて結論を述べる。
「歌だけじゃないな。『ミューの体で歌う』ことが鍵になって俺たちは元に戻るんだ。……つまり、ミューの『力』で」
力、などと言われても、もちろん訳がわからない。
「ミュー、お前って……何者だ?」
「…………ざ、雑用係……?」
それ以上の答えを持たないミューに、ソラリスは諦めたように肩を落とした。そこでまた視界がぶれる。
ミューの体で、ソラリスは不敵に笑った。
「……まぁ、理由は後で考えよう。とりあえず、歌えば戻れるという事実はわかった。そうとわかれば——特訓だな!」
拳を握って立ち上がったソラリスは妙にはきはきと続ける。
「元に戻れる時間の延長方法とパターンを探るぞ! 今夜は眠れないと思え!」
「何でいきなり軍隊みたいになってるの、しかもちょっと楽しそうなの⁉︎」
「声量って関係あるのかな? まずは大声で試して」
「夜だから! 夜だから————‼︎」
大きく息を吸う彼を必死に止めて、まずは音程からではと説得する。
困ったことに、夜はまだ始まったばかりだった。
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