ツイートよりながい。

Mun(みゅん)

昆布と月の使者

 満月の夜だった。

 雪に照り返された月光で波頭が輝くほどに明るく、背伸びすれば星に手が届きそうだったことを、目を閉じれば思い出せる。雪国の冬にあるまじき夜だった。変わらず激しい日本海の波音だけが、耳朶を強く叩いていた。

 眠れない夜は、そうして海辺を歩くことにしていた。何があるわけでもない。ひたすらに白い雪の浜、荒れ狂う波。それと……昆布。

 台無しである。あるものはあるので仕方ない。それくらいしか無い浜辺を、どこまでも延々と歩くのだ。そうすれば自ずと決まってくるものだ。己がまだ生きたいか、死にたいか。致死的な北風の前では、哲学的な悩みなんかは何処かへ行ってしまう。そうして毎度、同じ答えにたどり着くのだった。

 寒い。

 バチクソ寒い。

 死にたいとか、どうでもいいから。生きたいとかは元からどうでもいい。とにかくストーブに当たりたい。

 単純に馬鹿だなと今でも思う。だがこれが毎晩手首に刃物を這わせる話だったら、笑い話にもなりはしない。人間の体が単純に、こうしてやれば生きたくなる仕組みだったおかげで、まだ生きている。

 死ぬならここがいいと選んだ場所。陰鬱な灰色の空、長い夜、雪に閉ざされて寂れた海辺の田舎町。

 ある日ふとその気になったなら、雪に身を横たえて眠ろう、波音を聞きながらまどろむように。ぼんやりと曖昧、おまけに極めて甘っちょろい考えで、そう思っていた。大失敗だ。そこはあまりにも死に近すぎて、却って生命のありがたさが身にしみた。歩くたびに拾っていた貝殻や石、取るに足らないガラクタが、ついにダンボール箱をいっぱいにしてしまった。図らずも惰性で生きてきた証が積み上がっては、いよいよもって興ざめである。昆布も拾って帰り、ストーブの鍋に投げ込んで翌朝ダシで朝食を食べるまでが日課と化していた。もはやただの生活だ。

 竜宮城。食うと不死になる人魚。海坊主。そんなものはない。ひたすらに雪、海、昆布。月が眩しいので昆布を見ながら歩く。ここに求めるものはもう、無いだろう。春になったら、ここを出よう。

 ──から。

 しかし今晩は帰りたくならない。もう少し歩こう、そんな気でさえあった。砂浜は明るく、こんなに明るく透明な夜なのに、果てらしい果ても見えない。球ではなく、そこだけが平面に貼り付けてあるような、奇妙な景色だった。死ぬなら今日だな、とぼんやり思った。

 ──から。

 ちりん、と鈴が頭上で鳴った、ような気がして空を見上げた。虹の輪が掛かった月は、息が掛かりそうだ。

 ──から。

 突然に強く何かに激突した。突き飛ばされたような衝撃で、思わず雪溜まりに倒れ込んだ。

 ──

 月の光が結晶した、光ののようなものがぼやける視界に映り込んだ。

 ────のだ。

 何かが差し伸べられる。それが助け起こす手だとわかったので、迷いなく掴む。ぐい、と持ち上げられて、やっとその異様な姿に気がついた。真っ白い長髪。眉も、肌も、唇も、閉じられた目を縁取る睫毛も、も、も白、白、白、白。一切の色がない長身の女は、月の光を受け、屈折し、反射して、内側から淡く光っていた。

 この世のものじゃない。その美しい煌めきから目を離せない。まずいとか恐ろしいとかそういう感情が、浮かんだそばから消えていく。塗りつぶされていく。いつの間にか波も止んで、湖畔のような静寂に包まれている。

 一緒に、やっと、待っていた。意味そのもので、言葉を通さず語りかけられた。

 弟か子でもあやすようにそれがかがみ込んだそれに見つめられた。黄金きんの瞳だった。眼窩にが浮かんでいた。

 ──ましょう

 突然に反抗心が沸騰した。逝くか決めるのは自分だと。そう思った瞬間、肩越しに背後から呼ばれていることに気がついた。はいと言って、認めて、あなたの望みを、だの。見ることはできない。地の底から響くような声だった。

 繋いだ手から、いつの間にか氷を掴んでいるような冷気が食い込んでくる。どこにも逃げられないまま、月の瞳孔を見つめる。奇妙な既視感を覚える。それはじゃあないか。

 くれ。

 そこにおれの視界があるとわかって、顔を寄せる。どんどんと近づいて、唇が触れずにすり抜けて。


 気がつくと、バカみたいに突っ立って空を見上げていた。いつものようにどんより雲が立ち込めて、月なんて見えるはずもなかった。ごう、と吹き抜ける風の中に、いつかまた。と確かに聞こえた。

 それからはもう、死のうとは思わなくなった。散歩に出ることもなく、雪解けを待たずにおれは東京に帰った。がらくたの内いくつかは、生きようと思った証拠として飾っていおいてある。

 あの時手を掴んだ場所は、まだ冷たい。どこかで向こうに繋がっているのだろう、人は死から逃れられないのだから。

 だけど……どこを通って向かうかは、おれが決める。昆布だしの茶漬けをかきこんで、また今日を始めよう。

 精々一杯、生きてやろうと思う。

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