第8話
それから、僕たちは一時間ほどかけて神社の周囲の商店街を歩き(普段は寂れている商店街だがこの日は様々な屋台が出て賑わっていた)、そのあとで稲垣たちと別れた。僕は二人に今日、遊びに誘ってくれたことへのお礼を言って、家路についた。沢口はにこやかに手を振り、稲垣は僕に何か含みのある視線と笑みを向けて、それから分かれ道の先に去って行った。
ずいぶんと陽が落ちてきていた。空の色はもう夜のそれに近い濃紺色になっていたが、所々、夕暮れの名残りのような、淡い紅色に染まった雲が漂っていた。あたりの影は街の暗さの中でその輪郭を曖昧にぼやけさせていた。闇に消えかけた影は、夜に溶けていこうとしているかのように見えた。
ひとりで夕暮れの道を歩いていると、なにか、自分が迷子になってしまっているような、わずかに心細さを伴った違和感を覚えた。知らない世界に迷いこんでいるような、現実感が遠のいていくような、そんな感覚だった。
歩いているうちにも空の暗さが増してきているようで、薄かった月の光が、次第にはっきりとした強いものに変わっていた。星も少しずつその姿を現わし始めた。
自宅のある通りに出た。
三〇〇メートルほど先まで、まっすぐに伸びている住宅街の道。アスファルトの舗道に沿って電柱が並んでいて、それらに街灯として取り付けられたLED照明が、暗い空の下で白い光を放っている。
綺乃がその通りにいることには、すぐに気がついた。
その姿を見た瞬間、綺乃だと思った。まだ遠くてはっきりとは見えなかったが、その人影が纏っている雰囲気が彼女のものだと、直感的に思った。驚きはしなかった。とても自然に、その姿は僕の視界に三年ぶりに現れた。
その人影は、彼女の家のすぐそばの街灯の下に立っていた。僕たちの距離がゆっくりと近づいていく。だんだんと、その姿がはっきりと見えてくる。高校の制服だろうか、彼女は真新しい紺色のブレザーとスカートという服装をしていて、癖のない黒髪は僕の記憶にあるものよりももっと長くなっていた。
声が届く距離まで来ると、彼女は僕を見た。
「久しぶり」
光のなかで、綺乃は、少しだけ照れくさそうに言った。
再会の瞬間の景色は、別れの日のそれと似ていた。晴れた春の夜の生ぬるい夜気と、はっきりとした光を放っている星と月、歩道の脇に積もった桜の花。街並みの違いはどこにもない。十二歳から十五歳になった僕たち以外は、たぶんあのときのままだ。
☆ ☆ ☆
三年前のその夜にインターフォンの呼び出し音が響いた時、僕は家に一人でいた。引っ越しの二日前だった。引っ越しの準備が進んでいて、いたるところにダンボール箱が置かれており、家にはがらんとした雰囲気が漂っていた。
インターフォンに出ると、モニターに、綺乃の姿が映っていた。まさかそこに、綺乃が映っているとは思っていなかった僕は驚いて、心臓が小さく跳ねた。
どうして綺乃が、と思ったが、たぶん僕に用があるんだろう、とすぐに思い直した。具体的な心当たりがあるわけではなかったが、それ以外に理由は思いつかなかった。僕は緊張を覚えながら、インターフォン越しに返事をした。
薄暗い映像のなかで、綺乃が動揺したのがわかった。向こうも、僕が出るとは思っていなかったのかもしれない。彼女は「池内です」と、硬い声で名乗った。
僕はリビングから出て、自分の靴を履き、玄関のドアを開けた。外に出た瞬間、うっすらと花の香りを含んだ春の空気を感じ、暗い空に浮かんでいる大きな月が見えた。
綺乃は僕の家の門の近くに立っていた。
「……どうしたの」
綺乃の近くまで歩いていって僕が言うと、彼女は小さく息を吸って、
「えっと。あの、これ……」
と、少し上ずった声で言いながら、贈答用に包装された箱を差しだしてきた。
「この間、拓也君のお母さんがうちにご挨拶が来られたときに貰ったもののお返しだって。うちの両親、今日は仕事で来れなかったんだけど、またお引越しの前にご挨拶に伺いますって」
僕は、綺乃がたどたどしく話しながら差しだした箱を受け取った。
「ありがとう……」
そう言うと、綺乃は、また小さく息をついた。それから首を横に振って、にこりと、わずかに気まずそうなニュアンスの混ざった笑みを浮かんだ。
会話が途切れ、沈黙が訪れた。綺乃の後ろを一台の車が通り過ぎ、その走行音が遠ざかって行った。風が吹いて、綺乃の髪の毛の先が少しだけ揺れた。
僕も彼女も、視線を足元に落としていた。けれど、ふとしたときに綺乃が顔を上げて、ねえ、と僕に話しかけてきた。
「拓也君、今、忙しい?」
沈黙のなかで急に出てきた問いに、上手く答えられなかった。
「え?」
問い返すと、綺乃はまた一度僕から視線を逸らし、それから、緊張の滲んだ表情で言った。
「よかったら、少し、話せないかと思って」
最後かもしれないし、と彼女は付け加えた。その言葉を聞いた時、一瞬、僕の胸に痛みが走ったような気がした。
そうか、と僕は思った。本当にこれで、最後になるかもしれないんだ。
「……うん。少し、待ってて」
僕はそう答えていた。
綺乃に家の前で待っていてもらうことにして、僕は二階の自室に戻り、黒色のパーカーを羽織ってすぐに玄関に向かった。
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