第9話

 外に出ると、綺乃は街灯の白い光を浴びながら、空でも見ているのか、顔を少し上にあげていた。


 穏やかな夜だった。夜気は暖かく、風もほとんどない。黒に近い濃紺の夜空の低いところに、煙のように薄い雲が浮かび、その遥か遠くに、はっきりとした白に輝いている星がいくつか見えた。


 家から三分ほど歩いたところに、小さな公園があった。僕たちはそこに行くことに決めて、二人で歩きだした。


「暖かくてよかった」


 夜の暗さのなか、前を向いて歩いていると、ふと、横から綺乃の声がした。


 僕は頷いて、横目で彼女を見た。


 小学校の高学年になってからも、綺乃と接する機会は全くなかった。隣に住んでいるから登下校の最中にはよく見かけたが、並んで歩くことはなかった。横に立つと、綺乃は、僕が遠くから見ているときよりも、ずっと大きく感じた。当時、一六〇cmくらいだった僕と同じくらいの身長だった。


 公園に着くと、僕たちはその頃新しいものに取り替えられたばかりで、まだほとんど汚れていないベンチに座った。公園の敷地は、バスケットコート一つ分くらいだった。そのなかに、二つの鉄棒と、小さな砂場がある。昼間に小さな子供たちが遊んでいるほかは、ほとんど人がいるのを見たことがない。入口の近くに、これもまた一度も人が使っているところを見たことがない電話ボックスが設置されていて、そのなかの照明が妙に明るい光を放っていた。


 夕食時を少し過ぎたくらいの時間帯だったが、通りを歩いている人はあまりいなく、あたりはとても静かだった。近くに立っている桜の木の梢が風に揺れている音しか聞こえなかった。空気が温かくなってきたからか、近くの家から漂ってきた入浴剤の匂いをやけに甘ったるく感じた。


「行くの、秋田県だったよね」と、綺乃が言った。


「うん」


「遠いね」


 僕は頷いた。車で八時間、新幹線を使えば四時間くらいの距離だということは知識としてはあった。しかし、そういう数字を知っても、いまいちそれが表わしている「遠さ」は実感できなかった。遠いといっても国内だし、生活がそれほど変わることはないだろう。ただ、知らない街で暮らしている自分はまったくイメージできなかった。一カ月後には、僕は知らない人たちに囲まれて、知らない街の中学生になっている。そのほんの少し先の自分の姿を考えたときに、最も僕は今ここにいる自分からの「遠さ」を感じた。


 ふたたび、沈黙が降りた。僕は視線をあげて、やたらと明るく輝いていた月を見ていた。雲が流れてきて月にかかり、わずかに黄色味の混ざった白い光を霞ませていた。


「最後に会えてよかった」


 綺乃はふとそう言って、一つ息を吐き、こう続けた。


「もう会ってくれないんじゃないかって思ってた」


 その声には、どこか安心したような響きが感じられた。


「どうして」と、気がついたら僕は尋ねていた。綺乃はそれまでと変わらない穏やかな声で答えた。


「私は、拓也君に嫌われていたのかと思ってたから。ずっと私のこと避けていたみたいだったし」


 それを聞いて僕は息が詰まった。


 それは、僕が綺乃に対して抱いていた気持ちでもあった。


 瞬時に、これまでに気まずい視線を交わしていたときの綺乃の表情や、さきほど僕の家を訪ねてきたときの、ひどく緊張した様子の彼女の姿が脳裏に浮かんで、胸が痛くなった。どんな気持ちで、彼女は僕に会いに来てくれたのだろう、と思った。


「嫌ってなんか、いなかった」と僕は言った。「避けていたのも、嫌いだったからじゃない」


 このまま別れていいのか? という気持ちが僕のなかに湧きおこっていた。これで最後になるのなら、僕が綺乃のことをどう思っていたのかを彼女に伝えなくてはいけないと思った。


 綺乃は他の女の子とは違った。物心ついてからは、綺乃を見たときに妙に意識してしまって近づくことが出来なかった。周囲にからかわれてしまっていることも気になって、どんどんと態度がぎこちなくなっていってしまった。どうしてそうなってしまうのか、当時の僕にはわからなかったけれど、とにかく、それがあるべき状態ではないということは、心のどこかで感じていた。しかし、それはこれから時間が経って、僕たちが大人に近づいていけば、少しずつ解決されていくのだろうというふうに思っていた。ずっと綺乃が近くにいるのが当たり前で、その当たり前がこんなふうにしてあっけなく無くなってしまうものだなんて、思いもしていなかった。


 そのようなことを、ゆっくりと時間をかけて言葉を選びながら、僕は彼女に話した。その間、綺乃は僕のその言葉を黙って聞いてくれていた。


 どれだけの時間が経っていたのだろうか。やがて言葉が尽きると再び静けさがあたりに満ちた。雲は流れて、大きな月が冴え冴えと輝いていた。


「ごめん」と、僕は最後に謝った。僕の態度は、長い間、綺乃にとって不愉快なものだっただろうから。


 綺乃は、しばらくの間何も言わなかった。僕もずっとうつむいて、地面に散った桜の花びらをじっと見ていた。いつまでも続きそうな沈黙だった。


「こっちにまた、戻ってくることはある?」


 どのくらい時間が経っていただろうか。やがて、綺乃が短くそう言った。意外な問いに、僕は顔を上げて、彼女を見た。綺乃はまっすぐに僕のことを見つめていた。


「わからないけれど、――たぶん」


 僕はそう頷いていた。なにかそういう予感があったわけじゃない。ただ、未だ知らない土地でこの先の一生を過ごすことよりも、いつかまた東京に戻ってきている自分の方がまだ想像しやすかったので、遠い将来、いつかは戻ってくるのだろうという程の気持ちで頷いたに過ぎない。


 しかし僕の曖昧な答えとは裏腹に、彼女は何かを確信したような、はっきりとした声で言った。


「それなら、いつかきっとまた会えるね」


 そして、彼女は立ち上がった。


「じゃあ――元気でね」


 綺乃にそう言われたとき、僕は生まれて初めてと言っていいほどに深い寂しさと驚きを感じていた。そこにあって当然だったものが失われていくことの衝撃を僕はその時初めて感じた。何かが手遅れになったという感覚がして、胸に大きな穴が空いたような気がした。


 咄嗟には言葉が出てこなかった。しかし、絞り出すようにして、「綺乃も元気で」とだけ、声に出した。綺乃は出口に向かいかけていたけれど、その言葉に一度立ち止まり、僕の方を振り返って頷いた。


 その顔には微笑みが浮かんでいた。その笑みを見たとき、胸が締め付けられるような痛みを覚えた。


 それから、彼女は踵を返して、来た時よりも早足で公園から出ていった。公園の出入り口の灯りに照らされて、春の夜闇に浮かびあがった後ろ姿が、幻のように遠ざかって消えていった。


 僕はしばらくその場にいた。家に戻る気がしなかった。なんの根拠もなかったけれど、夜の公園に一人でいたほうが、今の感情に耐えやすいような気がした。僕はずいぶんと長い間、ベンチに座ったまま、ひどく鮮やかに暗闇に映えている桜の花を見つめていた。

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