第6話

 あたりには、僕たちと帰る方向が同じ同級生がまだたくさん歩いていた。彼らは、何やら興味深そうな視線を向けながら僕たちのそばを通り過ぎていった。僕たちのことを知っている子のなかには、冷やかすような言葉を投げかけてくるものも少なからずいた。


 今思えば、それらの言葉にはそれほど悪意が含まれていたわけではなかったように思う。少なくとも直接的なイジメのようなものには発展するようなことはなかった。けれど、当時の僕はそういう言葉を投げかけられることに慣れておらず、顔が赤くなってくるほどに恥ずかしかった。綺乃の方も、そういうことを言われるたびに俯いてしまっていた。


 僕たちはただ黙ってからかいの言葉をやり過ごした。幸い、その時間は長くは続かなかった。歩く速度が遅い僕たちのまわりからは、すぐに同級生たちの姿はなくなった。


 二人だけになると、綺乃は気を取り直したように、ふたたび彼女のクラスでの出来事や、この日の遠足のことについて話し始めた。


 幼稚園の頃よりもずいぶんとしっかりとした話し方になっていたけれど、その柔らかい声を聞いているのは相変わらず心地よかった。


 いつもなら十五分ほどで着く道程をたっぷりと時間をかけて歩き、あたりの影が長くなってくるころに家に着いた。僕たちがあまり話をしていなかった期間の話題はたくさんあって、綺乃はずっと、楽しそうにそれを僕に話していた。


 家についたあと、綺乃が玄関の鍵を開けるのを待ってから、僕は彼女に荷物を返した。


「ありがとう」と、綺乃は荷物を受け取りながら、笑顔で言った。


「荷物、持ってくれて嬉しかった。たくさんお話出来て帰り道も楽しかったし、なんだか、怪我してよかったな」


「そんなことはないでしょ」と、僕も笑みを浮かべながら言った。


「足、お大事に」


 綺乃が手を振りながら家のなかに入っていくのを見届けたあと、それからすぐ隣の僕の家に帰った。


 朝から一日中歩いていた疲労で、僕は部屋に戻るとすぐにベッドに寝転がった。眠気はすぐにやってきて、うとうとと、瞼が重くなった。ぼんやりと溶けていく意識のなかに、先ほどまでずっと聞いていた綺乃の声が響いていた。なんだかとても懐かしいような、安心するその声に包まれながら、僕は眠りに落ちていった。


 それが幼少期に綺乃と親密な時間を過ごした最後の記憶だった。あの日は、僕と綺乃の距離が離れつつあったさなかにあった、特異な一日だった。


 その頃から僕と綺乃に対する冷やかしはエスカレートしていき、日を追うごとに、綺乃に対する僕の気持ちは単純な親しさだけではなくなっていった。僕は次第に、学校で綺乃を見かけたときに、それまでは感じていなかった重苦しさを感じるようになった。そしてそれは、時間が経つにつれてどんどんと重く、深くなっていった。


 その当時の僕は、その変化していく状況のなかで、綺乃とどう接していけばいいのか、綺乃との関係をどうすればいいのか、全くわからなかった。ただ、僕たちはいつまでもかつてと同じような、二人でひとセットみたいな関係で居ることはできないのだという気持ちばかりが深まっていった。


 ――――――――――


「もう、あの頃とは違うよ」


 僕の言葉に、「え?」と、綺乃が言って、僕の方を見た。


「昔は、そうだったかもしれないけど。でも、今はもう違うんだ」


 思考を頭で組み立てる前に、ただ直接的、直感的な言葉だけが転がり出てきた。


 久しぶりに綺乃と二人きりになったということで、僕の気持ちはなんだかおかしなものになっていた。この二年ほどの間に積み重なった綺乃に対する複雑な感情が渦を巻いて、ろくに何かを考えることが出来なかった。


 僕の言葉に綺乃が怯んだことが、わずかな気配の変化でわかった。沈黙が訪れた。今度のそれは以前のものよりもずっと重苦しく、そして張り詰めていた。


 僕はその時になってはっとした。自分の言葉が招いたその空気に自分で驚き、そして慌てた。この言葉だけでは足りない、と思った。何か綺乃に間違ったメッセージを送ってしまったような気がし、焦りや後悔のような、しかし自分ではうまく分類できない感情が生まれた。


 しかし、その後を続ける言葉は何も出てこなかった。僕は予想外の自分の言葉と感情にただ戸惑っているだけで、時間が過ぎていった。それほど長い時間ではない。せいぜい、一分かそこらだったと思う。けれど、その時間はひどく長く感じた。


「そうだよね」と、やがて、綺乃が下を向いたまま、ぽつりと言った。それから、「ごめん、変なこと言って」と、苦笑いをして謝った。


「いや……」


 僕は上手く言葉を返せなかった。綺乃のその振舞いに比べて、自分の言葉はひどく子供っぽいものだと感じ、ただでさえ僕のぐちゃぐちゃになっていた感情に、恥の感覚が加わった。


 僕はどうして先ほどのような言葉を放ってしまったのかを、もっときちんと話さなければいけないと思った。僕が綺乃に対して抱いている感情とか、僕たちが置かれている状況とか、そういうものについて、僕がどう考えているのかを説明しなければいけないと思った。


 しかし、なに一つ言葉にする前に、「お待たせ」という声が視界の外から響いてきた。声のする方を見ると、稲垣と沢口の二人が近づいているところだった。


「おかえり」と、綺乃が稲垣に言った。


 綺乃の横顔には柔らかい微笑が浮かんでいて、先ほどまでの気まずい雰囲気はもうなくなっていた。霧が晴れるみたいに、僕と綺乃がふたりでいたときの空気は跡形もなく掻き消えた。


 結局、その後すぐに綺乃と稲垣は二人で家に帰っていくことになり、僕たちが言葉を交わすことはもうなかった。


 その日から僕と綺乃の間にはさらに距離が出来たように思えた。綺乃の方からも、それまで以上に僕のことを避けているような雰囲気を感じるようになった。

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