第5話
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僕と綺乃は同じ幼稚園に通っていた。毎朝、家の近くにあった送迎バス乗り場から二人でバスに乗り、帰るときも一緒だった。僕たちは周囲の大人たちからまるでセットであるかのように扱われていた。そのことを、幼かったころの僕は不自然なことだとは思わなかった。
綺乃は、僕にとって周りの友達とは違った存在だった。二人とも一人っ子だったということもあったかもしれないが、友達というよりも、どちらかというと兄弟姉妹のような近しさを僕は彼女に感じていた。綺乃もそうだったと思う。彼女は、人見知りするところがある大人しい性格の女の子だったけれど、僕にはよく話をした。家での出来事や通っていたスイミングスクールでの出来事なんかを、二人でいるときに彼女はずっと僕に話していた。彼女がその時点で言葉に出来ることは、かたっぱしから僕に話していたんじゃないかと思うくらいだった。綺乃の声は柔らかで耳に心地よくて、僕は彼女の話を聞いているのが好きだった。
しかし、小学校に入学してからは、だんだんと僕たちの間に距離が出来始めた。入学当初は朝、家の前で待ち合わせをして一緒に登校することも多かったが、次第にそういうこともなくなっていった。クラスも違ったし、仲の良い友達が別に出来ていって、それまでは二人でひとつのようなところがあった僕たちの世界は次第にはっきりと分離していき、それぞれに一つの独立した世界を持ちはじめた。
親密な距離感で彼女と会話をした最後の記憶は、小学三年生の初夏のことだ。僕たちは遠足で、少し離れたところにある動物公園に行った。電車と徒歩で一時間ほどかけて山のなかにあるその公園まで行き、羊や牛を観察し、チーズ作り作業の体験をして帰ってくるというものだった。
その帰りのことだった。地元の駅に着いて、そこで解散になったときに、綺乃のクラスの担任が僕に声をかけてきた。その四十歳くらいの女性の先生は、僕に「池内さんと一緒に帰ってあげて」と言った。
家に向かって歩き出そうとしていた僕は足を止め、「え?」と首を傾げた。どういうことだろう、と思っていると、家に帰っていく同級生たちの流れのなかから、綺乃が、ゆっくりと歩いて来た。ぱっと見でも、彼女が少し足を引きずっているのがわかった。
「帰りの山道で足首を捻っちゃったみたいでね」と、先生は説明した。
「池内さんはひとりでも帰れますって言ってるんだけど、念のために、家が隣の中村君と一緒に帰ってもらえたらと思って」
優しげではあったけれど、有無を言わせないような口調だった。
綺乃の方を向くと、彼女は恥ずかしそうに小さく笑った。転んで怪我をしたのだろうか。彼女の青色のショートパンツと白い靴下には茶色い土汚れがついていて、膝には絆創膏が一枚貼られていた。
「わかりました」と、僕は答えた。
「お願いね」と先生はテキパキとした口調で言った。そしてすぐに、近くの歩道上でふざけ始めていた男の子たちのところに、「こら」と声を上げながら向かっていった。
「平気?」と、僕は綺乃に訊ねた。
綺乃は恥ずかしそうに、うん、と頷いた。
「ひとりでも平気ですって言ったんだけど、先生が拓也君のこと探し始めて……。ごめんね」
「いや、大丈夫」
僕たちは並んで歩き始めた。小学生が帰宅するような時間帯だったから、まだ陽は高くて、夕暮れまでにはたっぷりと時間がある。梅雨入り前の時期だったが、その日の陽射しは夏のように鋭かった。僕はすでに半そでの上に羽織っていた薄手のパーカーを脱いでリュックに詰め込んでおり、綺乃はグレーの長袖のニットを、肘のあたりまでまくっていた。僕たちはすでに結構な量の汗をかいていて、綺乃の髪が頬や首筋に張り付いていた。
綺乃はやはり、片足を引きずっていて、遅い歩調でしか歩けなかった。僕は彼女に合わせて、ゆっくりと歩いた。
「怪我したところ、まだ痛む?」と尋ねると、
「ちょっとだけ」と、綺乃は困ったような口調で答えた。
それから、彼女は怪我をしたときの状況を恥ずかしそうに話し始めた。友達とおしゃべりをしながら下り坂を歩いていたときに、アスファルトの小さな亀裂に爪先を引っかけて派手に転んでしまったらしい。その時に躓いた方の足首を捻ったほか、逆の足の膝も擦りむいてしまったのだけれど、そちらの方は大して血も出ず、持っていた絆創膏を張って、すぐに歩き始めたとのことだった。
捻った足は、最初はそれほど痛まなかったらしいのだが、少しずつ痛みが増してきてきたらしく、電車に乗っているときにそのことを綺乃が友達に言ったら、その友達は近くにいた担任の先生にそれを報告した。それで、担任の先生は綺乃のことを心配し、先ほどのように僕に声をかけることになった、ということらしい。
「転んだときは目立っちゃって恥ずかしかったな」と、綺乃は言った。僕たちのクラスは綺乃のクラスの前を歩いていたから、僕はその騒ぎには全く気がつかなかった。
「仕方ないよ」と僕は言った。綺乃は決して不注意な女の子ではなかった。むしろ注意深い性格で、小さな頃から転んだり何かにぶつかったりすることは滅多になかった。けれど、彼女にだってたまにはそういうこともあるだろう。
横断歩道の信号が赤になって立ち止まったとき、綺乃がリュックを背負い直す仕草が目にとまった。そしてふと、荷物がなくなればもっと歩きやすくなるんじゃないかと思い、「綺乃のリュック、僕が持とうか?」と言った。
「え? いいよ」と彼女は手をぶんぶんと顔の前で振って言った。
綺乃が遠慮することを想定していた僕は、「いいから」と言って、半ば強引にリュックを受け取り、手で持った。小学生の日帰り遠足でそんなにたくさんのものを持っていくわけはないので、二人ぶんでも充分に持って歩けた。
「ありがとう」と綺乃は言った。「重くない?」
うん、と僕は頷いた。
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