第2話

 午前中から昼にかけて荷解きと部屋の整理を続け、そして午後一時を過ぎたところで、僕はそれまでしていた作業を中断し、「衣服類」と書かれた段ボールからチノパンツとコートを取り出した。


 二時から友達と会う約束があったのだ。小学生の頃に仲の良かった友達が、戻ってきたら会おうと、引っ越しの数日前にSNSで連絡をくれていた。彼は親伝いに、僕がこの街に戻ってくるという噂を聞いたらしい。


 部屋着から外出用の服装への着がえを済ませると僕は階段を下りて、リビングで荷解きと家具の設置作業をしていた両親に外出することを短く告げ、外に出た。


 空は相変わらず良く晴れていて、雲一つなかった。陽光は暖かく、家々の軒先に飾られたプランターや公園に生えている草木は様々な色あいの花を咲かせていた。


 昨日の夕方にこの街に戻ってきてからまだ一度も外出していなかった僕は、奇妙な感覚を覚えながら、馴染みのある道を歩いていた。


 懐かしい、というのとは少し違う。昨日までの遠い記憶と近い記憶が、短時間のうちに逆転していくような、現実感が混乱してくるような感覚だった。周りに建つ建物、街路樹、商店の看板、電柱や鉄塔、かつて見慣れていたそれらを再び目にしていくたびに、消えかけていた記憶がたちまちのうちに修復されていき、そして、その代わりに昨日まで僕が過ごしていた秋田での記憶が急速に遠ざかって褪せていくような……。


 友達との待ち合わせ場所は、近所の中学校の校門前だった。僕の家から徒歩十五分くらいのその公立の中学校は、三年前に引っ越しをしていなかったら僕が行っていたはずの学校で、そして、今から会う予定の友達にとっては、ついこの間まで毎日のように通っていた母校ということになる。


 待ち合わせ場所が近づいてくると、僕は自分が緊張していることに気がついた。手先がかじかんだように固くなって、少しだけ息苦しさを感じた。


 今から会う二人は、小学生の頃には毎日のように言葉を交わしていた友達だけれど、引っ越してからは直接言葉を交わしたことはない。今回の約束をした連絡も三年ぶりのものだった。


 彼らは、あれからどれだけ変わっただろう、と僕は思った。中学の三年間というのは、男子にとっても女子にとっても、大きく変化する三年間だ。僕にしてみても、身体も、服の趣味も、読む本も、数えきれないくらいのことがあの頃とは変わった。そう考えると、今から会う友人たちと、昔と同じようにコミュニケーションをとることが出来るのだろうかと、不安を覚えた。


 僕が歩いている道は待ち合わせ場所の中学校のグラウンドに沿って続いており、フェンス越しに中の様子を見ることが出来た。そこでは、サッカー部と、それからテニス部の女の子たちが活動していた。ホイッスルの音と大勢の足音、それから軟式ボールを跳ね返す音が、静かな住宅街の空気のなかに響いている。今日の気候は運動するには暑いのか、長袖のジャージを着ている子たちよりも半そで姿の子たちの方が多かった。僕はなんとなくその姿を見ながら、校門前に向かって歩いていった。


 待ち合わせ場所には、すでに二人の人影があった。その二人を遠目に見た瞬間、緊張感が少しだけ増した。


 彼らに近づくと、そのうちの一人が僕を見た。毛先を軽く外に跳ねさせたショートカットの女の子で、膝丈くらいの白いスカートをはき、黒のトップスにデニムジャケットを羽織っている。


 まだ距離はあったけれど、彼女と目が合った。すると、彼女は表情を明るくさせて、「ねぇ、あれじゃない?」と、隣に立っていた男に言った。


 相変わらず声が大きいな、と僕はその声を聞いて、最初に思った。


 稲垣香帆。声は僕の記憶の通りだったが、見た目の印象はやはり大きく変わっていた。髪型も服装も、あの頃よりもずいぶんとあか抜け、大人びた感じになっている。稲垣はとても明るい性格をしていて、男女関わらず友達が多い女の子だった。僕は三年生の頃に彼女と隣の席になったことがあって、それからよく話をするようになった。おせっかいなくらいに人に関わってくるところがあったけれど、それに慣れれば、同性の友達のように気を遣わずに接することができる、とても話しやすい子だった。


 隣に立っている男は背が高かった。稲垣以上に見た目が変化していて、ぱっと見ではそうと思えなかったが、彼女と一緒にいるということは、彼が今回の約束のための連絡を僕にくれた沢口康太なのだろう。小学生のすべての期間で、彼は背の順の列ではいつも前の方にいた。小学六年生の時点でも、彼の身長は一四〇cmくらいだったと思う。しかし今僕の前にいる沢口らしき人は、一八〇cmはありそうだった。


「久しぶり、中村君」と、彼は言った。声変りをしていて、以前の沢口の声ではなかった。しかしその親切そうな表情に、小学生の頃の彼の面影があった。少しだけ緊張した感じの声音にも、慎重で丁寧な彼の性格が滲んでいるように思えた。


 僕は頷いて、答えた。「久しぶり」


 すると、「うわー。本当に中村だ」と、稲垣が、珍しいものを見るように言った。


「本当にって、なに」と僕は言った。


 稲垣は、ふふふ、と悪戯っぽく笑い、「いやー、本当に戻って来たんだなと思って」と、彼女は続けた。


「僕も、まさか三年で戻ってくることになるとは思ってなかった」


「すごく急だったんだっけ?」と、沢口が問いかけてきた。


「決まったのは、秋頃だったけど。でも高校も選び直したりして大変だったし、気持ち的にはあっという間だった感じがするよ」


「そっか。大変だったね」


 僕は頷き、彼の方を見て言った。「沢口は、背、高くなったね」


「うん。なんか、中学に入ってから急に伸び始めてさ。自分でもこんなに伸びるなんて思っていなかったから、未だにヘンな感じだよ」と、彼は少し照れ臭そうに言った。


 その後もしばらく、この三年で出来た彼らとの距離感を測りながら、僕は二人と立ち話をかわした。最初はなんだか初対面の人とタメ口で会話をしているみたいな違和感があったけれど、それは時間が経つにつれて、次第に薄れていった。

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