春の夜と僕たちの空白

久遠侑

第1話

 いつかは、この街に戻ってくるのだと思っていた。


 でもそれはもっと先のことだと――少なくともあと三年経って高校を卒業してからだろうと――漠然とながら思っていた。


 一時間ほど続けていた整理作業の手を止めて、僕は三年ぶりに戻ってきた部屋の窓際に立ち、外を眺めた。特に開発もされていなかった住宅地の風景が三年でそれほど大きく変わるわけもなく、そこには記憶通りの景色が広がっていた。


 薄く開けていた窓からは、春の生ぬるい風が吹き込んできた。昨日まで僕が住んでいた秋田県の街に吹いていた風よりも、それは少しだけ柔らかいような気がした。ちょうど桜が満開になる頃で、窓の外に見える桜の木も白い花を咲かせていた。風が吹くたびに大量の花びらが散り、宙を舞いながらゆっくりと地面へ落下していった。


 僕の部屋には、引っ越し業者が届けてくれた僕の私物のダンボール箱が雑然と置かれている。ここに到着してから一晩しか経っていないので、まだ最低限の荷解き作業しかしておらず、封を切っていないものも多い。


 三年か、と僕は思った。


 頭では、たった三年、とも思うけれど、十五歳の僕の体感では、それはとても長く感じる時間だった。なにしろ中学生としての時間がまるまるそこに含まれているのだ。小学生だったときのことなんて、もう遠い過去のことのように思える。


 三年前、小学校卒業後の春休みに、僕は東京郊外にあるこの街から秋田県に引っ越していった。引っ越しの理由は本当に平凡かつ身も蓋もないもので、父親の転勤だった。縁もゆかりもない地域への転勤で、しかも、いつまでその職場にいることになるのかはその時点では全くわかっていなかったものの、諸々の待遇はかなり良くなるということらしかったので、父は会社から内々に打診されていたその話を受けた。そして、僕たちは一家で秋田へ引っ越すことになった。


 それでも、僕たちの家族のなかには、この引っ越しは一時的なものだという感覚が漂っていた。両親は、たとえ秋田での生活が長くなったとしても、少なくとも老後はまた東京に住むつもりでいたようなので(維持費用などの問題で散々迷っている様子はあったけれど)、それまで住んでいた家は売らずにいた。


 結果として、その選択は正解だった。引っ越しから二年半が経った昨年の秋に、また突然に、父が次年度から東京の職場に戻ることが決まったのだ。それに伴って、僕も急遽、受験する高校を秋田の高校から都内の高校に変更するはめになった。なにかとドタバタとした半年間で、それから昨日の引っ越しまでは、あっという間に過ぎていってしまったような気がする。


 僕は窓を大きく開いてベランダに出た。金属の手すりにもたれて、ぼんやりと街を見下ろす。天気の良い日で、屋外の空気は生ぬるく、植物の雑多な匂いが混ざりあった青臭さをわずかに感じた。


 その春の空気を一度小さくを吸い、それから道一本を挟んで隣に建っている家に視線を向けた。そこには、この家とほとんど同じ外観の、二階建ての一軒家が建っている。


 身構えてはいたものの、その家を視界に入れた瞬間、胸がちくりと痛んだ。昨日の夕方、この家に到着して三年ぶりに見た瞬間よりも、いくぶんマシにはなっているけれど、それでも、何かが疼くような、そんな感じがする。


 この街に戻ることが決まったときに、最初に僕の頭に浮かんだのは、あの家に住んでいる、なんて呼ぶことが適切なのかわからない関係の女の子のことだった。

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