第2話 海のようなひと
中学校に入学してから早三週間。
変わり移ろった生活に違和感を覚えなくなってきた頃。それでも、五月を目前にした僕はぼっちだった。
もともと特徴が何一つとしてない僕は当然誰かに興味を持たれるわけもなく、ましてやコミュニケーションが苦手で四月初めの頃に話しかけてくれた子たちにうまく返事が返せなかったりと、ぼっち生活にまっしぐらな状況。
小学校から一緒の子もいたりするけど、僕一人がそう思い込んでいただけで、違うクラスで違う友達と僕以上に楽しそうにお喋りしていると思う。
彼にとって僕は友人Zだったんだな、て。
こんな自分ではダメだとわかりながらも、自分に自信が持てない僕は誰かの親切を素直に受け取れない。誰かが僕を無価値だと判断するのが、途轍もなく怖い。
だから、中学校には珍しい購買に一人で並び、そしてやっと僕の順番が来てガラスケースの中で陳列している商品を素早く吟味する。
こういう所で時間を使ってしまうと、後ろの方からの嫌な視線や空気を感じてしまう。だから、とっととパンを二つ選ぼうとして……。
「ありがとうございます」
隣から風に乗って耳朶を揺るがした綺麗な声音に、思わず振り向いてしまった。色素が薄い黒髪は光に当たれば茶色に見えるセミロングに大きくて綺麗な瞳。
僕は彼女に見惚れていた。
「あんたどれにすんの?」
「あっはい。ごめんなさい」
そのおばちゃんの声にはっと我に返って、意味の分からない謝罪と適当にパンを二つ指指す。
お金を払って袋に入れられたパンを受け取ってその場をせっせと逃げるように抜けた。
人が途切れた廊下の端で、ふと振り返ったがそこにももう綺麗な彼女はいなかった。
*
視界を遮るように伸ばした長い髪だけが、自分を他者から守ってくれる。けれど、一か所に集まる視線の数に今すぐ逃げ出したい気持ちになる。
六時間目のホームルームに皆お待ちかねの席替えをすることになった。
僕の名前は
だから僕は席替えに願いを込める。
——どうか壁側の後ろの席に
そう、順番にくじを引くのだけれど、皆の視線を浴びながら引くくじをなんとも恐ろしくて、「してください」と言い切れないままくじを引いた。
元の席に素早く戻って、こっそりとそこに書かれている番号と黒板の席番を照らし合わせる。
「やった……窓側の一番後ろ」
思わず口に出してしまい、隣の席の男子が「マジか!いいなー!」と、騒ぎ立ててきて、何度も首を立てに振ることしかできない。
そして、全員くじを引き終えて、それぞれが新しい環境へと移動する。すぐ斜め後ろの席に移動して、「はぁー」と、今日二度目のため息を吐いた。
まるで世界から切り離された一角のようで、僕を受け入れてくれている気がする。
とっても息が楽になった。
そうしていると、横の席に誰かが座り、そっと眼だけで確認して——
「うん。よろしくね」
そう隣の席の女の子に挨拶していたのは、購買にいた茶色の髪の女の子。
吃驚しすぎて、身体ごと彼女を凝視してしまう。購買で見たときよりもずっと明るく大人びた女の子。背筋の伸びた背中に中学生に上がったばっかりとは思えない落ち着き。
まるで誰とも違った。
僕の凝視に気づいたのか、彼女はぺこりと僕に頭を下げる。
どうしてか途轍もなく恥ずかしくなった僕は、何もできないまま避けるように窓側に振り向いてしまう。
(僕は何を……。こんな失礼なこと……別にどうでもいいか)
動機の激しさに謝罪や弁解する勇気がでなく、諦める。
やっと視線を彼女に向けた時、彼女は既に隣の女の子と楽しそうに談笑していた。
「やっぱり、僕はダメだ」
これが彼女——
*
それから二週間と経ったが、まだ水樹月乃とは一回も会話をしていない。もともと会話が得意じゃない僕はそれも女の子で綺麗な子と会話するなんて、難易度が高すぎる。今だ一人ぼっちの僕に何かと話をようとしてくれる、水樹だけど、みんなから人気者の彼女と関わることが怖くて、どしても一歩が踏み出せない。
英語のペアワークも、僕は不貞寝を続けている。きっと彼女は呆れていることだろう。
それでも、何もできない何も価値のない僕が、キラキラした水樹と関わることはどうしても恐ろしく、激しい動機に苦悩し続けた。
だからその出来事は、恐らく神様の悪戯だったのだと思う。
「霞。この単語を英訳しろ」
不貞寝常習犯の僕を確実に狙った嫌味。仕方がないとは言え、心の中で愚痴っておく。
(わからなって言ってるのに……)
英語が得に苦手で、いつもわかりませんと返答をしているのに毎回当てられる。その度にクラスメイトからの嘲笑が聞こえて、その目が蔑んでいるようで、無言を突き通したくなる。
でも、無言だとみんなの迷惑になって、あとからリンチされるのも嫌だから、僕は劣等な人間なんだって証明する。
でもさすがに嫌気が刺していたので、星座占いが一位の僕は反撃する。
「っ……smile《スミレ》です!」
いつもと全く違う大声に呆気に取られる先生とクラスメイトたち。不安に駆られる僕はキョロキョロと不自然なほどにあちこちと見渡して——
「ふっふふふあははははははは——!」
そんな大きな笑い声に身体を跳ねさせた。皆の視線を集めた笑い声のその人——水樹月乃はお腹を抱えて笑っていた。
「すっすみれって……あーお腹痛い」
星座一位の僕はなぜかムッとした。
「そ、そんなに笑わなくてもいいだろ」
「あはは。ごめんごめん。あまりにも珍回答で面白くってね」
「ち、珍回答⁉」
「うんそうだよ。あー先生!スミレじゃなくてスマイルですよね」
「……あ、ああ。水樹正解だ。確かにスペルはスミレと読むが、正しくはスマイル。〝笑顔〟という意味だ」
まさか間違えていたなど心にも思わず、へなへなと机にへたり込む。
「惜しかったね」
そう、話しかけてくる水樹に羞恥心が湧きだって、思わず反論してしまった。
「うるさい。……英語は苦手なんだよ」
「知ってる。ワークも真っ先に答え見てるもんね」
「別にいいだろ。できなくて嫌いなものは、努力してもできないんだから」
「え~なにそれ?」
「なんでもいいだろ。あと、忘れろ」
「それは無理かな?」
そうくすりと笑う彼女にムッとして反撃しようとして、先生から「そこの二人、静かに」と、注意された。
へらりと笑う彼女を見ていると、まるで僕とは正反対。彼女がいるだけで心が強くなるような気がした。
僕に振り向いた彼女は「初めて喋ったね」と、言い残して身体を戻した。
初めて喋った君は、案外に明け透けな人だった。
次の日、教室に入って自分の席に座ろうとすると、読書をしていた水樹が振り返った僕を見た。
「おはよう、霞くん」
そんななんでもないあいさつ。それでも、きっと世界が変わった第一歩。戸惑った挙句、この瞬間が僕を変えるチャンスなんだと思い切り、僕は初めて誰かに踏み込んだ。
「お、おはよう……水樹」
それから君とよく話すようになった。
「いつも購買でお昼買ってるの?」
「う、うん。購買って新鮮だから」
「わかるなー。私も最初は購買だったな」
「霞くんは部活入らないの?」
「ぼ、僕は……誰かと関わるのとか苦手だし、とくにやりたいこともないからいいかな?」
「そうなんだ。私も帰宅部なんだ」
「……あ、どうして?」
「ふふっ。え~とね、家がケーキ屋さんで中学に上がってからはお手伝いする予定なんだ」
「ふーん」
「興味なさそうだね?」
「いや、あの……」
(ケーキ屋さんで働いている姿を想像していたなんて言えないだろ⁉)
「ねぇ、次の授業なんだっけ?」
「……化学。移動教室とか言ってただろ」
「そうだよ!早く行かないと遅れるよ!」
「そ、そんなに慌てなくても……それに僕はひとりで」
「ほら、早く。遅刻したら霞くんのせいだからね」
「あーもう!わかったからっ」
「ふふっ。……それよりも化学室ってどこだっけ?」
「そう言えば、霞くんの誕生日っていつなの?」
「……四月の二十三」
「うそ⁉もう過ぎてる!」
「それがなに?」
「祝えないって話」
「別に要らない。誕生日なんて特別でもないだろ」
「捻くれてるなー。あ、私は十月六日だからね」
そんななんでもない日々が続いた。
でも、特別な変化だらけの日々だった。
六月終わりに差し掛かった夏の初夏を少し感じる今日。
水樹と一回も話すことのなかったなんでもない一日。そのまま帰ろうとする僕を呼び止める声がした。その声音はやっぱり綺麗だ。
「一緒に帰らない」
水樹からの初めての帰宅のお誘い。だけど、周りの目を気にしてしまう僕はやっぱり臆病者で小心者だ。「なんで、僕と?」そう訊くと、彼女は不敵に笑うのだ。「霞くんと行きたいところがあるんだ」と。どこだ、と想像している内に水樹は歩き出す。
小心者の僕は彼女を裏切るなんてできなく、帰り道と違う道をついていった。
辿りついたそこは波がゴーと押し寄せる海。黄昏の夕焼けを情景にした青く鮮やかな海は、神秘的に輝いている。
思わず見とれる僕の横に並んだ彼女は眩しそうに微笑んだ。
「私好きなんだ海」
その横顔は儚く綺麗でまるで別人みたいだった。
「海って青いのに太陽や夜とか、夕焼けでいろんな色に変わる。それでも、海は青い。変わらずに青くて綺麗で深い」
風が攫う髪を抑えて、その瞳で海に憧憬を抱く。
「——私はそんな海みたいになりたい」
恐らく初めて語った彼女の心意だった。
二人で浜辺を歩く中、水樹はくるりを回転してみたり、貝殻を拾ったり、砂を蹴ったり、僕はそんな彼女の隣を歩く。
「私ね。本質が変わらないものが好きなんだ」
「本質?」
「そう、だってそれって自分じゃない」
「……そうなのかな」
「きっとそうなの。私はね。私でいたいの。好きな私で、好きなことをして、自由に生きたい!」
そう大仰に語ってみせた水樹は、くるりと振り返った少し遅れてついてくる僕を
見つめて、足を止めた。
だから、僕も足を止めて彼女を見つめる。
「私と友達になってくれない」
この時、僕は初めて水樹月乃が僕——霞深夜を必要としてくれている事実に、心臓が止まりそうだった。
だって、僕は無力で無価値で無能。一緒にいても楽しくないし、得にもならない。
だから——初めてだった。
誰かに必要とされたことが。
初めてで嬉しくて、涙が出そうで、でもかっこ悪いから必死に引き留めて、変になりそうな顔を頑張って平常に保って、そして——
「ありがとう」
そう、僕は初めて友達ができた。
海が沫になる頃 青海夜海 @syuti
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