海が沫になる頃

青海夜海

第1話 海を沫に

 暗闇に染まる夜の中、海岸に押し寄せる波が静かに轟かせる。

 僕と君以外に誰もいない。この海に誰もいない。


 夜光虫が月光に晒されて微かに光を放つ。それだけが確かな光となって、互いの顔を映し出す。

 薄くはにかむ君の顔に、どうしようもなく僕は焦がれてしまった。


「あなたはどうしてそんなに辛そうなの?」


 そんなわかりきった単純な問いにさえ、反感を持ってしまう。この気持ちを叫びたい衝動は、さざ波に重なり合う君の声音で削がされる。


「ねえ、そんなに私が恋しい?私のことがまだ好きなの?」

「っ!……別に」


 嘘をつけ。恋しいから忘れたくないから終わらせたくないから、君とこうして夜を過ごしてるんじゃないか。

 君との関係性を終わらせたくない。君とただの他人になるがのが酷く怖い。今までの過去も努力も、この恋心でさえも嘘っぽっちに虚脱してしまいそうだから。

 僕が逸らした視線の先、月が雲に隠れた真っ暗な海は僕の未来を幻想した心の中みたいだった。

 君はそう、と呟いて同じように海を見つめる。君から見える真っ黒な海は何者に見えるのだろうか。


「ねえ、深夜しんや

「・……なに?」

「こんなに暗くて怖いのに、どうしてこんなにも寂しいいのかな?」

「……」

「でもね。どうじにそれがとっても美しいって思うの」

「……僕には、真っ暗に見えるよ」

「……」


 こちらを振り向いた君の表情は暗くてよくわからない。

 微笑んでいる?悲しんでいる?訝しんでいる?

 願うなら不思議そうにしていてほしい。いつものように楽しそうにこちらを見ていてほしい。

 わからない君を一目見てから、そっと海に視線を移し、さざ波に呑まれる感覚に蹲ってしまいたかった。だけど、ただ不変を願ってありうべからず未来を願って、そっと唇を噛みしめた。


「僕には何も取り柄がない。頭もよくないし顔も普通。運動もできないし、人以上にできるものがない。君も知っている通り、僕は無力なんだ」

「……そんなことないよ」

「あるよ。知ってるだろ。僕はいつだって誰かに助けてもらってばっかりだ。君にも友達にも」


 息が詰まりそうだ。真っ暗な海に沈んでいく苦楽が重力よりも重くのしかかる。その度に大切なものが沫となって漏れていく。思い出と感情と志とたくさんの物語と大切が沫となる。

 零して取り戻そうとしても掴むことができない。白かった沫が黒く染まり、透けていた淡さが汚れていく。

 空気汚染、環境汚染、精神汚染。

 零れ出していくものを涙だと知ったのは、君のお陰だった。


「本当に苦しくて価値のない自分が嫌で、でも、君と出会って君が「そのままでいい」って言ってくれたから僕は救われた。僕は君に憧れて救われて、好きになった」


 君の淡い瞳が揺れた。その細い指先が宙を彷徨い。黒に混じった赤の唇が貝殻のように僅かに息を吐く。

 夏に似合わない白さが混じっているように、僕の眼に鼓動させる。


「今もずっと好きなんだ。君が認めてくれたからとか、君に救われたからとかじゃない。僕は僕の意思で、これからも付き合いたいと思ってる」


 それは自己満足だと君は嗤うだろうか。そんな浅はかな理由でこれからも付き合えないと、突き放すのだろうか。

 そう想像してみては酷く悲しくなる。そんな結末は嫌だ。この気持ちをなかったことにするなんて、できない。——したくない。


 闇に粒が静かに降り下りる。それは白さを失った雪のようで、心を飽和させた残留の粒子のよう。

 海面に触れて溶けていく粒子は、今は見えない夜光虫と混じり合って冷たく痛く無常に姿を現した。

 君はそっと黒い息を吐く。


「…………ねえ、私たちが初めて出会ったの、いつか覚えてる?」


 そんなとりとめのない言葉に呆気に取られながらも慌てて口にする。


「ちゅ、中学の時だよね」

「あたり。私とあなたは中学生一年生の時に隣の席で出会ったの」


 そう言う君の声音はまるで昔を懐かしんでいるよう。だけど、それはきっと僕も同じで、何でもないような思い出が溢れかえってくる。


「そうだったな。懐かしいな。あの時は僕たちお互い緊張してて中々話さなかったな」

「ね。それで、英語の授業であなたがスマイルをスミレって読んで、あれは面白かったなー」

「僕は恥ずかしかったよ」

「いいでしょ。そのお陰でしゃべるようになったんだから」

「そうなんだけど……」


 そんな結末へと繋がった間違いだとしても、恥ずかしいものは恥ずかしい。僕が視線を外す姿を君は愛おしそうな眼で見つめる。


「でも!君だって僕の後ろ姿間違えて他の人にしゃべりかけてたじゃないか」

「うっ!そ、それは、あれだよ。えーと……」

「他にも授業中に居眠りしててみんなの前では恥かいてたし」

「そ、そんな私だけじゃないから!てか、それならあなただって体育の時間に顔面キャッチしてたの私、知ってるんだから!」

「なんで知ってんの⁉」

「ふふん。私の情報力を嘗めないでね!」

「君だって、何度も告白されたのに「私、今そういうのいいから」とか言って、最期まで誰とも付き合えなかったくせに」

「は?あなたは知らないだろうけど、私高1の時に一度付き合ってるから!残りものなんかじゃないわよ、あなたと違って」

「…………うそ」

「真面目にショック受けないでよ。……も~!調子狂うんだけど!」


 そんな陳腐で間抜けで喧嘩にすら見えない痴話げんか、二人して思わず噴き出してしまう。

 そうだった。あの頃もこんな感じだった。君と僕は何かと言い争っていた。

 そのことを二人して懐かしく思い出していることに、僕は今更ながら背筋が凍っていることを知る。

 それが現実、変えられない過去なんだと、君は暗に知らしめる。


「わかったでしょ。あの頃の私たちじゃないの。……私もあなたも大人になったのよ」


 その現実をどうしてそんなに柔らかな優しい声で言うんだよ。

 どうして過去を客観するんだよ。

 なんで、そこまで隔絶しようとするんだよ。

 なんで————


 胸のうちの叫びは、冷たい海の光のように救われることはなかった。


「私は変わった。だから、ここで別れましょ」


 水面が大きく爆ぜる。


「お互いがお互いに執着するのは、もうやめましょ」


 噴き上がった水粒が呪いの亡霊のように唸り声を飛沫とする。真っ黒な真っ黒な海の慟哭。


「新しい人生を歩むべきよ。私も……あなたも」


 途端、噴き上がっていた飛沫が螺旋を描き大きな竜巻へと変化していく。海の中心部に大きな渦潮をつくり、世界を荒らす暴風が吹き寄せる。

 心を殴り、言葉を攫い、瞳を切り裂き、命を血で染める。

 渦潮はブラックホールさながらに、僕のすべてをズタボロに引き裂いて擦切って稚魚よりも小さな埃に変える。

 まるで、僕の存在そのものを否定拒絶隔絶させるように、かつて認めてくれた君の言葉は、ラフレシアの毒にさえ思えた。


「……どうして?」


 君は暗い海を見つめるばかり。


「……なんで?」


 風が髪を靡き潮の臭いで穢すばかり。


「——なんでっ、そんなこと言うんだよっ!」


 夜光虫が波に漂い、月光の至らぬ夜中で冷酷に歌うばかり。


「ちゃんと理由を言えよ!それじゃないと納得できない!」

「言ったでしょ?執着なんだって。私とあなたはお互い縛り付けているの」


 そんな的外れな侮辱だけを、どうして意地悪に僕の目を見て言うんだと。

 光がないから君の表情がわからない。そのことが惜しまれて鬱陶しくて、睨んでしまう。

 今までの君へ抱いた気持ちが執着心?

 それは本物じゃなくて偽物?

 お互いに縛り付けて盲目になっている?

 もう僕は耐えられなかった。ふざけたことを宣う君にイラついてしょうがなかった。

 だから、醜くても自己満足に過ぎなくても、この限りない青さと白さだけは――『好き』という海に負けない尊さだけは絶対に殺せない。殺させない。君にさえ刻み込ませる。


「ふざけるな」

「……え?」


 君の驚愕は君がまだ知らない僕との樋爪。


「そんな理由で納得なんてできない。この気持ちを執着心だなんて、君にでも言わせない——っ」

「ちょ、ちょっとっ⁉な、なにいって――」

「ねえ、僕の気持ちわかってるでしょ。これが執着なんて愛のないものじゃないって、本当はわかってるでしょ」


 暗闇に淀む顔の変化が、確かに見て取れた。飛沫が浅い雨となって降り注ぐ。


「確かに僕たちは中学生の時とは違う。でも、クラスが離れて話さなくなっても、高校でお互いに友達や性格が変わっても、僕たちは何度でも繋がれた。色々な選択の中でその人を選んだんだ!」

「そんなの欺瞞よ!だって仮にあなたがそうだとしても私は違う!勝手にあなたの理屈を押し付けないでっ」


 ああそうだ。これは利己的な考え方。恣意的な押し付け。それでも事実であることの変わりのない現実であり想い出でもある。

 この言葉は欺瞞などではない。正しく愚かな生き様だ。


「~~っ!きみはァ——っどうしてそんなに僕と離れたいんだよっ⁉執着なんてみんなそうだろ。みんなが誰かを縛って依存して執着して、それを隠して生きてるんじゃないかっ。君は言えるの?自分は誰にも依存も執着も固執もしてないって……言えるのか?」

「そ、それは……」

「それでいいじゃん。別に依存してもいい。執着でも独占でも固執でもなんでもいい。また……君と離れ離れになって、後悔するほうが、ずっと嫌だ」

「————」


 本当にたったそれだけ。好きと酷似しているただそれだけの想いと願い。

 好きだから離れたくない。恋しいから昔のままでいたくない。愛しているから無理矢理にでも振り向かせる。君を否定する。


 青く駆ける——海が駆けていく。


 雲の切れ間から月光が線を描き、青色のパレットを引っ繰り返して彩を付けていく。

 誰も知らない今宵限りの海の絵画。

 掌で砂を敷くように青を広げ、その上から涙を打つように波紋で形をつくる。月光の線が光量によって僅かな幾千のカラフルパレットに仕上げていく。

 魚が飛び跳ねた。飛沫が舞った。波が泳ぎ夜の闇を鮮やかに眼を焦がす。いや、瞳を染める。

 そして一つ、イルカの鳴き声によってその幻想が僕と君を包み込んだ。

 鮮烈に激烈に繊細な異彩。強烈に裂帛な静寂な極彩。幻想的で神秘に等しく心を奪う限りある色彩。


 今宵限りの夜の海。


 言葉は要らなかった。声は邪魔でしかなかった。表現など必要なかった。在るべき姿を眺めるだけで、その全ては満たしていた。

 これは一つ、終わりと始まりの物語。僕が伝え、君が答えるその瞬間を描いたキャンパスだ。

 砂の噛む音がする。君の視線を全身で感じる。

 彩のついた世界で、僕は君の顔を初めて見つけた。


「——私は……あなたをずっと縛り付けていると思っていた」

「それって……」


 君は苦しそうに似合わない顔を浮かべる。


「あなたは自分には何にもないって言うけど、私はそうは思わない。思わないの。

 だって、あなたは努力家で優しくて誰かのことをいつもみている。困っている人がいたら普通に助けて、自分が誰かの足を引っ張ってると思ったら直ぐにいっぱい努力をして、誰にも気付かれないような誰かのために些細な事もいっぱいしている。

 ……私にはあなたが誰よりも優しく見える。

 深夜にもちゃんと価値があるって思ってる!」

「……」

「だから、私のせいで自分の価値を見失ってるのが嫌なの。私のせいで深夜の可能性を失うのが嫌なのっっ!」


 あなたは私が認めてあげたから生きて居られるって言うけど、私にはそれが耐えられない。

 だって、私がいるから彼は自分を正しく見止められていない。

 たとえ、この身が心が彼を欲しているとしても、それだけは譲れない。許させない。


「だから——別れよ。あなたの価値をちゃんと見出してくれる人が、きっといるはずよ」


 私はそう笑う。笑うよ。涙なんて流さないように満面の笑みで笑ってみせるよ。

 なのに——この、溢れてくる感情はなに?頬を湿らせる温かいものはなに?


 どうして——あなたも笑うの——…………


「——君が好きだ」


 そう、あなたは告白した。


「それでも、君が好きです」


 そう、愛を告げた。


「もう、どうしようもないくらい——君が好きなんだ」


 そう、何度も何度も『好き』を咲かせた。


 ……わからない。わからない?わからないよ!


「どうして……?言ったよね、私のせいで」

「違う。ううん。違わないのかもしれない」

「だったら!」


 前のめりになる私の瞳のずっと奥を、あなたは海よりも深い彩で見つめ続けてくる。


「でも、今は君のお陰で僕は自分の事が少しだけ知ることができた。だからもう大丈夫だよ」

「大丈夫って……なにがよっ⁉なにがっ大丈夫なの⁉」


 そんな甘さを与えないで。そんな許しを与えないで。後悔してやっと決めた決断が無駄になるじゃない。・・・・・・抑え込んでいた気持ちが、どうにかなっちゃうじゃない⁉


 ああ、深海から何かが湧き上がってくる。どうしようもないほどに未知なる何かが、迫って来る。


「私たちは別れたほうがいいの!私なんかよりもきっといい人が——」

「君だけだから」

「……え」


 静寂の海は密かに波すらも呼吸を止める。

 目の前の彼は言うのだ。そう、どうしようもなく心のどこかで望んでいた想いを。


「——月乃つきのだけが特別なんだ」


「……」


「月乃だけが僕を救ってくれた。月乃だけが僕を見つけてくれた。僕は中学生の時から君が、どんな君でも君だけが好きなんだ」


 ああ、もう止まらない。止めれない。この気持ちを、溢れ出さんこの『恋心』を止めることなんて出来ない。

 深海から這い上って来た『恋心』は、堪らなくあなたに抱き着いた。


 驚く彼の息遣いが鼓膜を揺らし酔わせる。

 重なり交じり合う熱と熱が密かな夜に雲を弾いた。

 姿を顕在させた月が私と僕を見守る。


「本当に……いいの?私すごくめんどくさいよ」

「いいよ。僕もきっと直ぐには変われないから」

「また、昔みたいになるかもしれないよ……?」

「それは困るけど、大丈夫」

「なんでよ……」

「今度は離さないから。もう、離さないから」

「っ……私は、私もっ!」


 彼女は熱の籠った顔を上げて、そっと彼の胸に手を沿えて、互いの命の繋がりを鼓動の速さと求めた言葉の波で自分たちの彩に染め変えていく。

 彼を見つめる彼女は胸の奥底から全ての想いをたった一言に表した。


「——あなたが好き」


 そう、これはただ一つ彼と彼女の恋の物語。

 幻想的な海は青さだけを輝かせ、静かに海は沫となり朝陽に消えていった。


 ——いつか一緒に歩いた海辺の情景に。

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