第3話 梅雨との出逢い
「あ、あの、はじめまして」
「うん?はじめまして!」
1年前、とあるマイノリティバーにて。隣の席に座り、おずおずと緊張した様子で話しかけてきたのが、梅雨ちゃんだった。
たったひとりで心許なさそうな目をしていて、外では少し雨が降ったのか、髪の毛がしっとりと濡れて、細かく癖毛が跳ねている。それが仔犬みたいで可愛かった。
こういうところにひとりでくるのは確かにすこし不安だよね。もしかしたらこういう場所自体はじめてなのかな。
「お名前、きいてもいい?」
「えっと…」
「本名じゃなくていいよ。呼ばれたい名前でいいの。ハンドルネームとかを使う人もいるよ」
「じゃあ、
「梅雨ちゃん、いい名前だね」
「あ、ありがとうございます」
「わたしは『きい』だよ」
「き、い…?」
そのとき、不思議と梅雨ちゃんの唇に目が引き寄せられた。ふっくらした柔らかい唇が「きい」とかたちづくって、にひっと笑ったような形になり、白い歯がみえて、柔らかい声が溢れてくる。
軽率にも、素敵だとおもっちゃったの。
梅雨ちゃんに一目惚れした瞬間だった。
1時間ほどお酒を呑みながら話しているうちに、どんどんその気持ちは拍車がかけられていった。バーのママが気を利かせて、小さなパーテーションで区切った程度の個室に案内してくれた。ここは、もう一歩踏み出したい人のための特別なスペース。
梅雨ちゃんは、どうすればいいのかわからないといった顔でわたしをみた。わたしは、すこし強張っている梅雨ちゃんの手をとって、にぎにぎとマッサージするように揉んだ。
「大丈夫、大丈夫だよ」って気持ちをたっぷり込めて。真っ白な肌が熱を帯びていく。手のひらがだんだん柔らかくなって桃色に染まる。そのままゆっくり腕のなかまで引き寄せてみる。
梅雨ちゃんは、拒まなかった。
まだキスはしない。嫌なら逃げたっていい。突き飛ばしてもいいよ。少し背伸びして、おでこをくっつけて「梅雨ちゃん」って呼んでみたら、恥ずかしそうに目をぎゅっと瞑っちゃって。ああ、もう、可愛いったらなかった。
ほんの少しの加虐心が煽られて、そのままキスをして、やわらかい唇をかぷりと噛んでやった。血の味はしなかったけど、そのかわり、とっても甘い味がわたしの唇に残った。
さっきまで梅雨ちゃんが呑んでたのはソルティドックだったはずなのに。どうしてこんなに甘いのか、不思議だった。
驚いたような表情で真っ赤になる梅雨ちゃんと、不思議な味の残る唇をぺろりと舐めて余韻を楽しむわたし。
「梅雨ちゃんのキスってすっごく甘いんだね。びっくりしちゃった」
「甘い…ですか?」
「…ねえ、梅雨ちゃん」
「きい、さ」
「嫌じゃなかった?」
梅雨ちゃんが、くりくりとした瞳をこちらに向けて、やや潤んだ表情でこくっと小さく頷いた。耳の先が真っ赤なのは、お酒のせいだけじゃないはず。
「きいね、今夜は梅雨ちゃんと…ふたりきりで一緒にいたいって思ってるよ」
「わ、私もきいさんと一緒にいたい、です…」
「敬語じゃなくていいよ。ねえ、わたしのこと、きいちゃんって呼んで」
「き、きいちゃん」
「もう一回」
「きいちゃん…きいちゃんっ」
沸騰したように頬を染めながら、恥ずかしそうに笑う梅雨ちゃんが、ただひたすらに可愛いかった。
2人揃って個室から出て、残りのお酒を飲み干し、ご機嫌でママにお会計を頼んだ。お釣りを渡しながら「意地悪しすぎちゃダメよ、きい」とママは笑った。
梅雨ちゃんと手を繋いでいると、とくとくと波打つ脈拍が伝わってくる。そのままふたりで闇に溶けていく。それがわたしたちにとってはじめての夜になった。
雨はぽつぽつと降っていた。
穏やかな梅雨の時期の到来だ。
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