とある技術士官の悔恨 下
「……対空砲が当たらなかった? いや、まさか、そんなことがある筈ないだろ? 弾幕を張るって表現もあるんだし、ある程度、効果はあったんじゃないのか??」
私は教授の言葉に対して、疑問を口にした。
すると、猪口に冷酒を注ぎながら、目の前の男は淡々と説明してくれる。
「残念だと言うべきか、真に日本的と言うべきか――日本海軍の対空射撃術に『弾幕』なんていう概念はない。事実、大尉の日誌でも、『弾幕を張るべきだ』という意見に対し、会議上で激烈な反対意見が述べられている。『射撃とは一発必中であるべき』というのが、当時の砲術士官達の意見なんだ。『弾幕』という概念が正式に採用されるのは、戦争の負けが決した1944年後半のフィリピン戦から。ああ、この時点でも海軍の主力高射装置は『九四式』。戦前に採用された代物だ。高速機に対応出来るよう改良されたとか言われるが……どうだろうな? 後半になればなるほど、機械を廃していくのが旧海軍だからなぁ」
「…………」
ゆっくりと酒を飲み干し、寿司を口に放り込む。
生まれて三十数年。
こんな話を聞いたことはない。
教授が面白そうに嗤い、日誌と白黒写真に指を置いた。
「まぁでも……如何なエリートたる砲術士官の皆々様でも『四空母喪失の要因の一つは、対空砲火術をまともに研究していなかった砲術科にある』という冷たい空気から逃れることは出来なかった。此処まで話したんだ。対空砲が当てる原理を少しだけ話そう」
そう言うと、メモ紙にさらさらと文章書いていく。
1:大砲の方位角(向ける方向
2:大砲の仰角(上げ下げ
3:砲弾の信管の設定(砲弾は時間で炸裂する
4:目標の現在位置(当然
5:目標の進路と速度(当然その2
6:気温と風速(自然環境で左右
7:指揮装置と高射砲との位置・方位関係(当然その3
8:諸々の修正。砲弾の供給時間(自動装填なんてものはない!
9:大砲の弾道の特性情報(当然その4
正直言って訳が分からない。
いや……分からないのを前提で、書いているのだ。
如何に、飛行機に砲弾を当てるのが難しいことかを理解させる為に。
教授がペンを回す。
「一発の対空砲弾を放つ為には、これだけの事をこなさないといけない。高射装置っていうのは、その数値を決定する計算機だと思ってくれ。日本海軍の主力高射装置である『九四式』は、決してどうしようもない代物でもなかった。が――航空機の加速度的な進化に対した時、力不足だった。その為、軍部は砲術科に対し、急ぎ敵航空機に対抗可能な『高射装置』の開発を命じたみたいだな。それが」
「この写真に映っている物だと?」
言葉を遮り、私は問うた。
教授がニヤリ、とし頷いた。
「御明察。大尉はその『新型高射装置』開発班の一人だった。性能目標は戦後、米軍の調査レポートが書き残した内容に酷似している。こいつが量産されていれば、多少は艦船の損害も少なくなったのかもしれない。……ただし、実物が完成し、性能測定が行われたのは」
指が写真の端をなぞった。
――1945.9.1。
私は呻く。
「……終戦後だって?」
「正式な降伏前に、『我が子』の性能を見てみたかったってのは分からんでもない。俺は技術屋じゃないが、意地もあったんだろ」
教授が写真を日誌に挟み、閉じた。
足を組み、肘をつく。
「どうだい、Hちゃん? 納得したかい?? あんたの爺さんは、海軍の技術士官で、『新型高射装置』の開発に携わっていた。そして、終戦後、自分の子供みたいな機械の性能を確かめ――写真を撮った、ってわけさ」
「…………なるほど」
私は辛うじて返事をする。
……こんな話、祖父ちゃんから聞いたことはなかった。
だけど、分かって良かった――……いや。
酒を飲み干し、教授へ尋ねる。
「概ねは理解した。でも――まだだ。お前は最初、俺に話をするのを躊躇していたよな? それは何でなんだ? その理由を聞いていない」
「おや? 気づかれたか。学生の時とは違うわな。……本当に聞きたいのか?」
「ああ」
躊躇はない。むしろ、此処まで聞いたのだ。
毒を喰らわば皿まで。
教授が胸ポケットから煙草を取り出し、ライターで火を点けた。
「吸うのか?」
「極々稀にな――……説明した通り、新型高射装置は戦争に間に合わなかった。また、砲術士官達の抵抗により、日本海軍の艦船は『弾幕』による敵航空機の妨害という対抗手段すらも封じられ、次々と鋼鉄の骸を太平洋に晒していった。終戦時、軍事的に見れば消滅していた、と言ってもいい」
「…………」
紫煙がゆっくりを立ち昇り、部屋の空気を汚していく。
教授の目が細まる。
「そして、戦争に負けた時――『生き残った彼等』は気づいてしまった。今はまだいい。皆、古今未曾有の敗北に打ちひしがれ、原因追及を行う余裕もないだろう。……が、何れこの国が復興を果たした時、必ず考える者は出て来る。『日本海軍の敗北要因は何だったんだ?』と」
「…………つまり」
「ああ、そうだ」
携帯式の廃皿に煙草を押し付け、教授が冷たく嗤う。
――そこにあるのは、強い諦念。
「『彼等』はなかったことにしたんだ。『三式高射装置』の存在も、日本海軍の対空砲術の決定的な軽視と立ち遅れもな。事実、生き残った砲術士官の中で、詳細に戦時中の対空砲術や高射装置に書き残している士官は皆無。あっても、砲や機関砲のことばかり。……巧いもんだよ。死人に口なし。あの戦争は端から勝ち目が絶無だし、敗北後、徹底的に書類を焼いてもいる。大尉の日誌によると、戦後、幾人かの士官によって口止めを受けたらしい。『事は日本海軍の名誉に関わる』。はっ! 国を滅ぼしておいて、名誉も糞もないだろうに」
「………………じゃ、祖父ちゃんがこの写真と日誌を、それでも遺したのは」
「一人の人間としての悔恨。それ以外に何かあると思う?」
教授は私の目を見た。
そこには、物悲しさが浮かんでいる。
「『三式高射装置』が間に合っても、日本は戦争に負けた。一つの機械でどうこう出来る戦争じゃなかった。だけど、大尉は、七十数年間、こう考えて続けたんだ。『この高射装置が『三式』の名の通り、せめて1943年に大量配備されていれば……少しは損害を抑えることが出来たのではないか? 故国に生きて戻れる将兵を増やすことが出来たのではないか?』って。同時に、口を噤んだ自分自身の情けなさと憤り。大尉は、人として良識を持たれていたんだと思うぜ。たとえ――……」
最後の卵を食べ、教授は猪口を皿の上に置いた。
立ち上がり、窓の外を見つめる。
「この話が、氷山のほんの一角だとしても、な。多分、この手の話は幾らでも転がっているんだ。ただ……生き残った者達に握りつぶされただけ。この国の歴史学者の多くは、大戦の話に手を触れない。当たり前だ。資料がないし、たとえ『史実』に辿り着いたとしても、生き残った人々の歪みや汚さを直視する羽目に陥る。……きちんとした考察が行われるのには、もっと時間がかかるだろう」
「…………すまん」
私は深々と頭を下げた。
……軽い気持ちでするべき依頼ではなかった。
すると、教授は学生時代と変わらぬ穏やかな顔で、私にこう告げた。
「気にしないでいい。でもまぁ……Hちゃんのお袋さんに話す内容は、前半部分だけでいいと思うぜ。残りの資料は、金庫に仕舞っておくことをお勧めする」
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