君に揺蕩う

きょんきょん

君に揺蕩う

 スマホが振動する。

 突然届いた君からのライン。


『これオススメ。聞いてみて』


 度々届く気紛れなメッセージに、ふわふわとした返信を紙風船のように送り合う私達。

 言われた通りに、URLをタップする。

 長いイントロから始まり、小さな小川のようなサビが耳に流れる。

 なんだか暗いような、前向きなような、最近の歌に疎いせいか、よくわからない曲。

 だけど、妙に身に沁みる。


「聴いたよ」と、そっけない一文を返信する。パソコンの画面に視線を戻し、再びにらめっこが始まる。

 さらさらと、緩やかに流れる曲調をBGMに、身を任せて文章を綴る。

 開け放たれた窓からこの街で迎える再びの春の便りが、そよそよと頬を撫でた。

 穏やかな風、鼻をくすぐる青い薫り、甘酸っぱい思い出――

 集中が途切れ、リズミカルに走っていた指先が止まると、稜線の向こうから朝陽が射したように輝いていた昔を思い出す。

 この街の、この空気が、この高台の部屋から望む色彩豊かな景色を眺めた瞬間に、この部屋に引っ越したいって二人で即決したんだっけ。

 思い出したら、次から次へと堰き止めていたものが溢れ出してくる。


 慌ただしい生活に追われる日々が続いていたせいで、私の記憶は頭のフォルダがいっぱいいっぱいになる度に、それがどんな記憶だろうが、古いモノから順にゴミ箱に自動的に捨てられていた。

 昔から夢描いていた作家には無事なれたけど、まだ若かったあの頃の私は伸び悩んで燻っていた。


 ただただ、停滞が怖かった。

 変わらないのが怖くて、

 辛くて、

 心が折れそうになって、

 溺れてしまいそうで、

 変わらない自分が怖くて、

 変われない自分が怖くて、

 変わろうとしない自分が怖くて、


 そして、八つ当たりをする相手がいなくなって初めて失ったものがどれだけ大事なモノなのかに気付いた。

 何処かで聞いたような陳腐なフレーズ。

 失った代わりに、私は前に進んだ。

 いつの間にかBGMがイントロから再び再生される。

 過去の記憶に呑まれそうになる。これじゃいかん、と凝り固まった目頭を揉む。

 じんわりと、熱いものがこみ上げてきた。


「少し、休憩をしよう」


 誰に言うわけでもなく立ち上がり、お湯を沸かす。

 こぽこぽと、沸騰の合図を確かめる。

 よかった、捨ててなかった――

 茶箪笥の奥に手を伸ばすと、お気に入りだったジャスミンティーはまだ一人分残っていた。

 ガラス瓶にお湯を注ぐ、注ぐ――

 まりの形をした茶葉を見ていると、君の言葉が湯気の向こうに蘇る。


「お湯の中で揺蕩たゆたう花って、この世で一番美しいと思うんだ」


 初めて聞いたときは、おかしなことを言う人だなと思ったし、カッコつけてるのかコイツ、と正直思った。


「まあ見てなって」と、したり顔でお湯を注ぐ先を眺めていると――まるで魔法のように蕾が可憐な花を開かせ、君の笑顔も満開になった。

 赤に白、黄色の花が咲き誇り、サルスベリやマリーゴールド、それにジャスミンの美しさと芳しさに、一瞬にして魅了されてしまった私はわかりやすく恋に落ちていた。

 男なのに、女の私より花が好きな君に合わせて、若かった私は花柄のワンピースを好んで着ていたっけ――


 一人きりの部屋に漂うメロディーが、ゴミ箱の奥底に追いやられた記憶の残滓を、適度な温度でじんわりと温めていく。

 そして、花開く。

 暖かい思い出の中で咲かせる色鮮やかな過去に、つい微笑んでしまう。

 

 過去は過去、人間だから美化してしまいがちだけど、少なくとも捨ててしまっていいような類のものではない。

 良い思い出も、嫌な思い出も、私の中で永遠に残り続ける。

 全てが未来に繋がっている。いつか枯れてしまう日がやって来てしまうかもしれない。その時はまた、心温まるお湯でも注げばいいであげよう。

 そうやって折り合いをつけながら、前に進んでいけばいい。


 再び震えたスマホを手に取り、いつまでも紙風船を投げてくる君に伝えよう。


「結婚おめでとう。幸せになってね」


 そして、削除する。


 部屋の隅には埃をかぶったフォトフレームが一つ。

 そこには肩寄せ合う二人がいつまでも微笑んでいる。

 永遠に続く夜なんてない。

 ベランダから外を眺めると、澄みきった青空が天高く突き抜けている。

 大丈夫。私も大丈夫だから、君も前を向いて。

 

 走って

 止めないで

 もういらないわ

 キラキラ 

 心ですべてわかる

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君に揺蕩う きょんきょん @kyosuke11920212

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