一枚の年賀状

増田朋美

一枚の年賀状

年のはじめと言っても、今年は私には縁のないものだ。それは、誰を責めても仕方ないことだ。それはもうそうなってしまう。日本の規律というものは、仕方ないと諦めさせるためにあるのかもしれない。

常子は、今年は年賀状など一枚も入っていないだろうなと思える郵便ポストを眺めながら、そんな事を考えていた。もともと、年賀状を送るのは好きだった。でも、自分の関わり合いのある人がなくなると、年賀状は出さないことになっている。もう昨年のうちに、喪中を知らせるはがきを出してしまったから、気が楽である。それにしても、年賀状を出さない正月なんて、気が抜けちゃうなという気がする。

きっと、今日は誰も来ないで、おせちも何も食べないで、つまらない一日になるんだと常子は思った。夫は、実の妹を亡くしたためか、少し落ち込んでいるようであったけど、常子は何も感じなかった。むしろ、手間をかける人がいなくなって、返って良かったと思うのだった。だって、今どき、夫の妹が同居する家庭なんて、なかなか無いと思う。それが、精神疾患を持っているのならなおさらだ。精神疾患を持っていることがバレれば、誰かに悩みを打ち明けても、みんな逃げてしまうのだから。

常子が、今日は随分家の中が静かだなあ、と思っていると、二階の部屋から、いきなり掃除機をかける音がした。なんだと思って、二階に行ってみると、夫が、妹の部屋を掃除していた。

「どうしたのよ。お正月に部屋の掃除なんて。」

常子が急いでいうと、

「いやあねえ。こういう時じゃないと、掃除もできないじゃないかと思ってね。」

夫は、妹の綾子が使っていた部屋を、一生懸命掃除しているのだった。綾子の机の上には、一冊の本がおいてある。それだけが唯一、綾子がお金をつくった瞬間であった。売れなかったけど、綾子はその本だけ世の中に送り出したのである。それ以上、本を出すことはなかった。インターネットには、いくつか小説を掲載したことはあったが、それも綾子の死去に伴い、本にはならなかった。三十五歳で死亡したというのは、あまりに若すぎると言われたが、常子はその程度で丁度いいと思った。

と、その時、玄関先の郵便ポストが、パカンと音を立ててなった。おかしいな年賀状は今年はお断りと、通知を出したはずなのに?と、常子は思いながら、階段を降りて、郵便ポストのあるところに行った。開けてみると。一枚のハガキが入っている。年賀葉書であることは間違いない。大変上手な文字で、ボールペンのようなもので書かれていた。差出人は全く知らない名前である。宛先は確かに、森下綾子となっているのであるが、磯野水穂という名前を常子は聞いたことがなかった。

「どうしたんだよ。」

いつの間にか、夫が、部屋に戻ってきていた。

「いえ、綾子さんにあてた、年賀葉書が来てるのよ。」

夫は、年賀葉書をちらりと見て、

「そうか、綾子も一人ぼっちではなかったと、これを見てくれて、わかってくれれば、自殺なんかしなくても良かったかもしれないな。俺たちは、そういう人がいてくれるってことを知らせるのも、役目だよな。」

と、大きなため息を着いた。常子はそんな夫を見て、妹の事ばかり考えて、自分の事は放置しっぱなしなのかという気持ちがすぐに湧いてきてしまった。確かに綾子は、自分は寂しいんだとよく口にしていた。でも一人暮らしではなかったわけだし、家族がいるわけだから、寂しいなんて、そんなワガママを言っているくらいしか、常子には見えなかった。

「それにしても、上手な字だな。」

夫は、年賀葉書にそんな感想を漏らした。

「こんなにきれいな字を書くんだもの、きっとどこかの偉い人とか、そういう人だよ。まあ、文章を書くのを、綾子は、生業にしていたわけだから、こういう人と友達になっても不思議はないよ。」

そんなに上手な字を書く人と、綾子は付き合っていたのか。働いて、一銭も金を作れなかった女が、偉い人から年賀状をもらうなんて、なんて世界は不公平なんだろう。

「まあ、いずれにしても、綾子さんは。」

と、常子が言いかけるが、

「綾子のことを、これだけ思ってくれる人がいたんだ。それを綾子に、教えるために、この葉書は、仏壇においておこう。」

夫は、その葉書を取って、仏壇に置き、綾子を慰めるように、チーンとけいを鳴らした。

「綾子に知らせるためだ。綾子は、気がつくのが遅い女だったから、しばらく置いてやってくれ。捨てたりするなよ。」

確かにいつまでも、自分が一人ぼっちで寂しいといい続けていた綾子は、気がつくのがとても遅かったと思う。常子も夫も、俺たちはここにいるじゃないか、と言い聞かせていたが、綾子が寂しいと言わなくなることはなかった。それは常子も知っていた。でもなぜ、綾子は、磯野水穂さんという人と会っていたとか、そういう事を一切口にしなかったのだろう。仲の良い友人ができれば、家族である自分に知らせるはずなのに、それもしないとは、また、おかしなことだなと常子は思った。

その翌日、夫は、会社の正月休みが終わって、会社にでかけていった。帰ってくると必ず、綾子の仏壇に手を合わせるのが、いやらしいところであるが、それでも仕事へ行ってくれて良かったと常子は思った。常子は、外で働いてはおらず、自宅でデータを入力する仕事をしていたが、彼女は自分の机を持っていなかった。机は、綾子にあげてしまったので。

常子が、自宅で仕事をしていると、仏壇の上に置いてあるはがきが目についた。あの美しい文字で、森下綾子様と書かれていると、常子は、文字にバカにされているというか、そんな気がしてならないのだ。なんでこんなに落ち着かないんだろう。自分のことでは無いのに。

常子は、どうしても落ち着かなかった。仕事もろくにはかどらず、やる気も起こらなかった。あの磯野水穂さんという人物はどんな人物なのか、気になってしかたなかった。常子は仏壇の上に置いてあったはがきを手に取った。その美しい文字の差し出し人は、住所から判断すると、大渕に住んでいるようだ。確かに、大渕は大規模な精神病院もあるし、綾子のような人を扱う施設もいくつかある。常子は大渕へ行ってみることにした。妹が、こうしてはがきをもらうような人物に、一度会って話してみたいと思った。同時にそれは、何もしなかった妹に、面倒を見続けてきた自分の意地でもあった。常子は、綾子と違い、車を運転できた。急いで車に乗り、大渕へ向かって車を走らせた。大渕は、意外に遠かった。普段人があまり寄り付かないところだから、こういう精神障害のある人の居場所になっているような地域である。カーナビを頼りに、差出人の住所へ車を走らせてみると、そこにあったのは、大きな日本旅館のような建物であった。そういえば、綾子は、製鉄所と言われている建物で、原稿を書いていると行ったことがあった。でもその建物は、製鉄所という名前には、ふさわしくなく、なんだか、癒やしのための施設という感じだった。こんなところで、綾子は何をしていたのだろうか。

「あの、ごめんください!」

常子は、この建物には、なんでインターフォンが無いのだろうか、と思いながら、製鉄所の引き戸に向かっていった。

「戸に向かって挨拶されても困る、お前さんなんていう名前なんだ。ちゃんと自己紹介してや。」

常子が振り向くと、そこにいたのは杉ちゃんだった。

「あの、この施設を、森下綾子という女性が、利用していた事はありましたか?」

と、聞くと、

「あああったよ。僕、綾子さんの葬儀には行かなかったけど、他のやつが行ったからね。その綾子さんがどうしたの?お前さんは、綾子さんの身内かい?」

と、杉ちゃんは答える。

「はい。身内というか、義理ですけど、一応姉になります。あの、磯野水穂さんという方は、この建物にいますか?」

急いで常子は、そう杉ちゃんに聞いた。

「ああ、いるにはいるけど、寝てるよ。起こすのも可哀想だから、また出直してくれないかな?」

杉ちゃんがそう言うと、

「寝てるって、夜じゃあるまいし、すぐに起こしてもらえませんか。その人が、綾子に、年賀状を送ってきたんです。」

と、常子は話を続けた。

「はあ、年賀状ね。水穂さんのことだから、綾子さんが心配で仕方なかったんでしょう。それで年賀状を出したんだな。」

「あの、失礼ですが、その方は、綾子が自殺したことをわかっているのでしょうか?それをされたなら、ひどい嫌がらせということになりますよね。よろしければ、水穂さんに会わせてもらえませんか?」

常子は、急いでそう言うと、

「はい。わかったよ。もし疲れて眠ってしまったら、それは勘弁してあげてね。」

と、杉ちゃんは言って、常子を、四畳半に連れて行った。ふすまを開けると、常子は思わずあら!と言ってしまうのである。それほどきれいな男性が、布団の中で眠っていた。

「おい、起きろ。お前さんにお客さんだって。」

と、杉ちゃんが言うと、彼は、目を覚まして、布団の上によろよろと起きた。もうげっそり痩せていて、疲れ切っているような感じである。でも、彼は、とてもきれいな顔をしていて、正しく、美男子という言葉がピッタリの人物だった。欲を言えば、髪のような白さではなくて、もう少し、頬に血の気があればいいと思うのだが。

「あの、あなたが、磯野水穂さんですか?」

と、常子が聞くと、水穂さんは、

「はい、そうですが。」

と言った。

「失礼ですけど、私の妹に、年賀状を出しましたよね。なんで、死んだ人間に、年賀状を出したりしたんでしょう?先月、鉄道自殺したのを、ご存知なかったんですか?」

と、常子は早口に、水穂さんに言った。

「ええ、そうですね。何も知らなかったわけではありません。ただ、彼女が、ご家族にどうしても、謝罪をしたかったと思っているのだが、それをどうしたらいいのかわからないと、仰っていたので、年賀状を出しました。」

水穂さんは、小さな声で言った。常子は、水穂さんという人が、着用している着物の柄に目が言ってしまう。確かに、紗綾型文様の着物であるが、そのぼかして入れたような、柄付きは、テレビで見たことがある。最近アンティーク着物のブームで、この着物がおしゃれ着として、脚光を浴びている着物であった。常子は、着物の知識があるわけではなかったが、でも、この着物には否定的な意見が多いのも知っていた。データ入力のしごとだけど、こういう着物のことも調査したことがあるので。それを、日常的に着用しているのは、特定の身分の人でしか無い。それは、口にして言うのは、なかなかできないけれど。

「そうなんですか。あなた、どういう身分であるのか、おわかりになっていらっしゃるんですか?確か、誰かの小説の主人公が、この着物、着ていましたよね。」

「ええ。」

と、水穂さんは言った。ということは、肯定したということだろうか。それなら、そんなに低い身分の人であるなら、識字率は極めて悪いはずだ。それなのになんで、そんなきれいな文字を書いたのだろう。

「あの年賀状、代筆ですか?あなたのような身分では、それもできないのでは?」

なんだか、綾子が、こんな身分の人間と付き合っていたのが、とても滑稽だった。あんな小説まで書いていた人間が、なんで、下層市民より低い身分とされた人と、付き合っていたのか。綾子のような職業だと、顔に泥を塗るとかそういうことを言って、水穂さんのような人物を、嫌うと思うのである。

「いえ、僕が描きました。」

と、水穂さんは、細い声で言った。

「本当に、あなたが書いたんでしょうか?」

常子は、部屋の中を見渡した。部屋には、小さな机と、一台のグランドピアノがあるのみである。そのとなりに、小さい本箱があった。その中に入っている楽譜は、ほとんど、外版であり、作曲者名は、ゴドフスキーと書いてあった。隣に、リストや、ショパンなどもあったが、八割近く、ゴドフスキーと書かれている楽譜ばかりだ。ゴドフスキーというと、正解一難しいピアノ曲を書いたと言われる作曲家。こんな身分の低い人が、そんな作曲家の曲を弾けるのだろうか?

「ええ、僕が描きました。どうしても、彼女を忘れられなかったんです。一応、彼女は、僕達のところに来てくれてましたから。僕はどうしても、彼女が鉄道自殺したのを止められなかったので。」

水穂さんは、常子の質問に答えた。

「あなたに止めてもらわなくたっていいわ。あなたのような人に、家の妹を、世話してもらいたくなかった。あなたは、どうせ、ろくな仕事にもつけなかったでしょうし、そんな人に、妹は、声かけてもらって、優しくしてもらって、年賀状までもらうなんて、妹が、可哀相。」

「ええ。そうだと思いますよ。」

と、水穂さんは、小さい声で言って、軽く咳き込んでしまったのである。これを見た常子は、

「そんなことも、できなかったんですか!妹よりひどいわね。妹は、まだ、病気であっても、私達が援助して、病院につれていくこともできましたよ。それさえもできなかったなんて、あなたも、哀れというか、お辛かったでしょうね。」

と、バカにしたように言ってしまうのであった。

「ええ、そう思われて当然のことです。」

夫が、偉い人だろうと皮肉ったのが、なんとも言えない馬鹿らしいところだった。常子は、こんなに身分の低い人が、なんで妹と仲良くなったのか、妹を盗るなといいたかった。

「そういう身分なんですから、そうなっても仕方ないですよ。というか、バカにされて当たり前の事です。」

咳き込みながらそういう水穂さんは、まるで馬鹿にされているのに慣れてしまっているようで、常子は、なんだかこの人をからかうのは面白いなと思ってしまうほどだった。人に散々迷惑をかけてきた、精神疾患の妹が、こういう新平民と呼ばれる男とくっつくとは、きっとお互いに傷のなめあいでもしていたんだろう。せいぜい、それを楽しむといいわ。どうせ、体を壊しても、治療費を払うお金すら無いのだから。常子は、本当に、家の妹は、馬鹿だなあと思ってしまうのであった。

不意に、誰かがどさんと倒れる音がした。音を立てたのは、水穂さんである。常子は、それを介抱しようという気にはなれなかった。同時に、水穂さん大丈夫と言ってやってきたのは、庭を掃除していた、由紀子であった。由紀子は、水穂さんの背中を撫でたりさすったりして、中身を出しやすくしてあげた。

「あら、こういう人にも、女性がいたのかしら。まるでハーレム?」

と、常子は馬鹿にする口調でそういったのであるが、

「あなた、どこのどなたですか!」

と、由紀子は毅然とした態度で言った。

「私ですか?あの、ここを前に利用していました、森下綾子の義姉です。」

常子が言うと、

「その義姉さんがなんで、水穂さんの事を訪ねてきたんですか?」

由紀子は、噛みつくように言った。

「いえ、大したことじゃありませんよ。ただ、彼が、綾子に年賀状を送りつけてきたものですから、それで、お礼がいいたくてこさせてもらいました。」

常子は、あざ笑ったように言った。

「そうなんですか。水穂さんに負担をかけていたことを、やっと謝ってくれるつもりになったんですね。」

と、由紀子は、常子にいう。

「私、ちゃんと知ってますよ。彼女は、毎日寂しいんだ、孤独なんだと言って、ここでずっと泣いてましたから。水穂さんは、彼女に、そのような事は絶対に無いと言って、ずっとそばに着いていたんです。それは、水穂さんの体のためなら、やってはいけないことでもあったんですが、それは、無視していました。どれくらい、水穂さんにとって負担だったかわかりますか?綾子さんがすでになくなっている今、誰かが必ず、謝ってほしいと私は思っていました。それをやっと実現してくれたわけですか。」

由紀子に言われたことは、今まで何も知らなかった。今日始めて聞かされたことでもある。由紀子が、水穂さんに薬を飲ませて、楽にしてやっているのを眺めているのがなんとも滑稽というか、変な感覚だった。なんだかまるで昭和の始めの風景を見ているようである。常子は、本当に自分はここにいるのか、頬を叩いてみたくなる。

「でも、水穂さんだけでは、綾子さんを楽にしてあげられる力がなかったみたいですね。水穂さんは、一生懸命やってくれたんです。あたしは、そんな水穂さんがすごいと思います。」

どうせ、あなたもろくな人じゃないわね、と、常子はいいかけたが、由紀子の顔に涙が浮かんでいるのが見えた。この人は本当に、水穂さんを好きなんだと言うことが、常子にもわかる。

「あなたも、そういう人を好きになるってことは、すでにわかっているんでしょうね。」

と、常子は由紀子に言った。

「ええ。それは、どんなことがあっても諦めませんよ。私は、水穂さんのそばにいます。綾子さんも、私のことを、水穂さんのそばに付いている人だって、認めてくれました。」

由紀子は、常子にバカにされていると思っているのか、それを言い返すように言った。

「そうなのね。まあ、せいぜい、楽しむといいわ。あなた達が、生きていけるのは私達がいるからだってことに、感謝も何もしないで、生きていることに、私は、納得しませんから。」

常子は、四畳半から出ようとしたが、由紀子にこう止められてしまった。

「でも、綾子さんが、寂しいとか、孤独だとかそう言っていたのを、なんとかしてあげられませんでしたよね。それは、至らぬところだったと思うのですが、ちがいますか?」

常子は、

「なんで私がそんな事。私だって、義妹の被害者なのよ。」

と言ったが、

「でも、水穂さんのように、義妹さんを慰めて上げることはできなかったじゃありませんか。」

と、由紀子に言われて、ちょっと今までの自信がどこかに揺らいだ。なんでそんな事言うの。私は、義妹に、振り回されたわけじゃないのよ。そう言おうと思ったが、常子は、それはやめておいた。




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一枚の年賀状 増田朋美 @masubuchi4996

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