遡 今日子さんの妹日記と相合傘 壱

 彼女と初めて出会った日は――大粒で湿り気のある雨にも近い雪の降る日だった。


 ※


「おかえり――お兄ちゃん」

「? だれです?」

「お兄ちゃんの嫁ですよ?」


 この雪の日の薄暗い玄関前でびちょ濡れの女の子。

 しかも自分の事をお兄ちゃんと。

 いや、嫁? は?

 新手の詐欺か宗教勧誘か何かだろうか。

 さすがに怖いだろ。

 警察って、110だったか。


「ちょっとひどいよ。妹が牢屋で凌辱に晒されても良いのね」


 と、謎の雪女。

 いや、制服を見るからには同じ学校というのはわかるが。

 この雪女は、僕のスマホを奪い取り一歩後ずさり「えへへ」と笑っている。


「返して」


 僕が奪われたスマホに手を伸ばすが届かない。

 クラスメイトか?

 いや見覚えが無い。

 じゃあ別クラス――でもない。

 学年違いはさすがにわからないけれど。


 雪女は更に、僕が傘を持つ手の逆の肩にかけている学校指定の鞄をひったくり、「さむぅ」等呟きながら、ガサゴソと何かを探している様子。

 力ずくでもよいけど、さすがに女の子相手には……。


 と僕が迷っているうちに雪女は、


「雪女じゃなくて妹ね。お兄ちゃん。それとびちょ濡れで風邪ひくから早くうち入ろ」


 家の鍵を回しびちょ濡れのまま家へと姿を消していった。


 あぁ。スマホも持ってかれている。

 これでは警察にも親にも連絡がつかない。

 交番近くにあっただろうか。

 普段特に非行に走ることも人助け等もした事がない。

 咄嗟のこの妖怪雪女の襲撃にどうして良いかわからず僕は、玄関前で唖然と立ち尽くしてしまっていた。


 五分かそれくらい。

 再び玄関扉から妖怪雪女が現れ、


「お兄ちゃんも風邪ひいちゃうよ」


 と、先程先に家に入っていった正体不明。

 通称妖怪雪女に腕を引かれ家へと強引連れられる。

 僕は焦りと困惑でされるがままとなってしまった。


 もしかして、本当に妖怪や怪異の類なのでは。


「しつこいよ? お母さんに言いつけるからね」

「いや――そもそもあなたのこと知らないけれど」

「は? 何言ってるの、頭打った?」


 自分の事をお兄ちゃんと呼ぶその子は、どうやら母も知っている様子だ。

 なんというのか馴れ馴れしいというのだろうか。

 人の頭をガシガシ触りながら『本当大丈夫?』 と。

 失礼にも程があると思うのだけれど。

 僕は少しイラつきを覚えてしまう。


「とりあえずお風呂入ってくるから。なんだったらお兄ちゃんも濡れてるし一緒入る?」

「で、その前にあなたの名前は?」

「折角美味しい思いが出来るチャンスなのに、もったいないね」


 質問に答えず何を言ってるんだ。

 名前を名乗らないこの子は踵を翻していく。


 いよいよ本当に自分がおかしくなったのだろうか。

 というのも、当たり前にうちの風呂場に向かって行くその後ろ姿に迷いはなく、当然でしょと家の作りを把握しているように見えたからだ。


 彼女に声をかけれず呆然とする。


 ん……? そういえば。

 仮に本当に自分がおかしくなってるなら。


 可能性があるなら二階の僕の隣の部屋だ。

 僕の家は一部屋客間と一部屋空き部屋がある。


 はずだ……。


 僕は迷うことなく二階の空き部屋へと向かった。

 少し緊張しているのか、固唾を飲み扉を開けた。

 僕は驚きで声が出なかった。出せなかった。


 その部屋は確かに空き部屋だったと思う。

 いや、数ヶ月かはたまた。

 もしかしたら数年開けてはいなかったけれど。


 実際に女の子の部屋や家に入ったことは無いけれど。

 全く無いけれど。

 その空間は普通に女の子の部屋だった。

 誰が見ても見間違うはずなかろう。

 女性特有な小物や家具。

 けれど、どこか大人な雰囲気を醸し出している。


 どれくらい部屋の前で立ち尽くしていたのか。

 僕に近づく足音に気が付けなかった。


「お兄ちゃん私の部屋になんかよう? あれあれ――お兄ちゃんもなんだかんだ女子に興味が湧いてきたのかな? 思春期かなぁ? えへへ」

「っ!? 君は怪異なのか! 無音で後ろに立つなんて」

「はいはい。私終わったからお風呂行っといで」


 妖怪雨女に肩を押され、階段を下ろされていく。

 頭の中は、自分の記憶が無くなったのか。

 それとも、彼女が何か異質なのか。

 ぐるぐる堂々巡りを引き起こしている。


 僕はやはり気になって仕方がなかった。


「すみませんがどうしても思い出せません。本当に僕の妹なのか?」


 僕は階段の途中で振り返ってしまい、


「ひゃぁっ!」


 妹と名乗る彼女は階段に尻餅をついてしまった。


「あ、急に振り返って――」

「もぅ。せっかちなんだから。わかった。私は洗面所で話聞くから、お兄ちゃんは湯船で聞きたいこと聞いてよ。別に一緒でもいいよ? ふふ」


 僕は彼女の手を取り身体を引き起こす。

 それにしても、先程からやけに挑発的な気がするけど。

 まぁ、それはいいとして聞かせてもらわなければいけない。

 色々とツッコミどころ満載の状況ではあるけれど。

 僕は先に風呂場へと入り湯船から声をかけた。


「もう大丈夫です」

「はいはーい」


 風呂場の扉が半透明な曇りガラスのせいで、そこに彼女がいることが分かり、知らない人のせいもあって複雑な心境だ。

 まして――まだ泥棒や詐欺師、宗教勧誘の可能性が残ってるからなのだけれど。


「それはないから安心して。それで、お兄ちゃんは記憶喪失なのか? それとも私が誰なのか?」


 真っ先に僕が聞きたいことを言ってもらえたおかげで少しほっとしてしまう。


「ええと――そう。先ずはあなたの名前は?」

遡 今日子さかのぼり きょうこ 十六歳 お兄ちゃんとは年子の同学年。あっ、双子ではないよ。私が一年遅れの早生まれなだけ」

「そ、そう。つまり――」


 つまり、そうなると残す可能性は。

 僕の記憶が、頭がおかしくなったということだろうか。


「んー。正直なところ私にもわからない。けど、こういう事もありえるのかな? とは前々から思ってたから安心していいよ。昨日までずっとこれからもずっと一緒だよ」


 どこか曖昧な物言いで。

 だけれどどこか自信ありげで彼女は言う。


「ありえるのかな。と言うのはいったい」

「お兄ちゃん。晩御飯食べたら私の部屋にきてよ。私髪乾かしたいしスキンケアもするんだよ? 一応女の子だからね」


 僕の妹。

 『相変わらず質問に答えない。』

 彼女は遡 今日子さかのぼり きょうこさんらしい。

 彼女はそう言い残し洗面所を後にした。

 全くどうなっているんだろう。

 僕は湯船に浸かりながら、段々と心がざわついて苦しくなっていった。


 その後母が帰宅し、3人で晩御飯をとっている際も、普通に笑顔でなんの違和感もなく、母と取り留めもなく話す今日子さんだった。


「今日子さん。入っても?」


 その後少し自室で考えを寄せていたけれど、母との和やかな雰囲気を見て僕も少し警戒を解いているようだ。

 やはりというのが何も答えなど出ず、彼女の部屋へと足を運んだ。


「どーぞー。それと今日子さんはやめて。家族なんだから」


 彼女は少しむくれながら、僕をソファーへと案内してくれた。

 どうにも居心地が悪い。


「さってと、話の続きだね。私お母さんとも普通だったでしょ?」

「ええと、そうだね」

「ねぇ。お兄ちゃん。環奇たまきお兄ちゃん」

「はい。な、なんでしょう」


 環奇たまきお兄ちゃんか――緊張してしまう。既に自分が何者なのかすら分からなくなってきた。僕だけがこの世界から取り残されているような感覚になる。


「だから他人行儀はやめてよ」


 僕は苦笑いで頷くことしか出来ず、彼女は続ける。


「えーとね……」


 急に僕の妹らしいその今日子さんは俯き、少し紅潮してるように見えた。


「お兄ちゃん。私お兄ちゃんが好きだよ」

「…………」


 な、何か言われたけど気のせいか?

 ティーン限定の病気か。

 唐突なんて次元を通り越しているレベルじゃない。

 さっきまで君は誰なのか、僕に何が起こってるのか。

 そんな話をしてたんじゃなかったのか?

 それともやはり僕の頭がおかしくなったのかっ!


「すみません今日子さん。聞こえなかっか事にしますので、僕の不可解な状況と言うやつを……」


 このぶっ飛んだ今日子さん(妹)に主導権は渡せない。

 僕はそう考え、僕の要求を再度提示した。


 ――あれ、怒らしたのだろうか。

 口を尖らせ軽く睨まれてる気がするけれど。


 やはり僕の質問には答えてもらえないらいらしく、彼女は、


「むう。この人手なしっ。だーかーら、お兄ちゃんの『お嫁さんにして欲しい』と思ってるの」

「…………」

「キーコーエーマースーカー?」

「ええと、今日子さん」

「今日子」

「今日子さん。初対面でいきなりそんな事言われても。それに僕高校生です。無理です。お断りします。まして兄妹なんですよね?」


 断固拒否するに限る。

 それでなくても自分の状況が全く分からないのだ。

 確かに今日子さんは可愛らしいとは思う。

 いや、そんな話をしたい訳じゃない。

 良い香りもする。

 だから、そうじゃないっ。

 それに――


「慌てすぎだよお兄ちゃん。とりあえずわかったから。明日もしかしたら、もっと混乱させちゃうかもだし、今日は休みなよ」


 僕は今日子さんに「早く行って」と追い出されるような格好で部屋を後にした。

 にしても、人の話を聞かない人だ。

 素直にそう感じてしまう。


 何一つ解決せず、その日はあまり眠れず朝を迎えた。

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