第338話:情報過多でパヌ困っちゃう

 臨戦態勢を取っていたファウダー、特に『墓守』は幾度かの交戦を経てクルスを絶対的な敵として認識していたため睨みつけていた。

 が、

「戦いは終わりみたいですよ」

 隣の『亡霊』がそんな彼の頭を撫でながら、制止するよう促す。

「う?」

「さあ、何故でしょうか。でも、戦わずに済むのなら、そちらの方がいい。君はそう思いませんか?」

「うっ」

「でしょう」

 納得したのかしていないのかわからないが、『墓守』は臨戦態勢を解きスコップについた血をぐしぐしと拭い始めた。

 意外と綺麗好きなのだ。

 拭いている自身の服が汚れているのはご愛敬。

「苦悩しているなァ、若造」

 その横でジエィがディンに声をかけた。

「……」

 ディンは無言、今この場で争うべき相手ではないと言うだけで、彼らが敵でないわけではないのだ。それもまた彼の葛藤の一部であるのだが。

「くく、それでいい。騎士とはそういうものだ。しかと見よ、考えよ。そうしなかった、出来なかったのがあそこに横たわる者たちだ」

「……」

「騎士とは何か、其処に辿り着くには――」

「随分と語るじゃないか。騎士を辞め、あまつさえその敵と成った男がどの口で語るのか、俺も静聴したいものだ」

 その語りの途中にクルスが近づき、彼の言葉を茶化す。それは同時に、ディンにこんな男の言葉を聞く必要などない、と言っているようにも思えた。

 今は戦うべき相手じゃないのかもしれない。

 相手がやる気でない限りは――ただそれだけなのだと。

「貴様は見る度に、あの男に近づいているなァ」

「何の話だ?」

「そして、その度に騎士から遠ざかっておる」

「……は?」

 あの男、がレフ・クロイツェルなのは自明であろう。だが、それに近づいていることが何故、騎士から遠ざかっているのか、それがクルスにはわからない。

 だって――

「何かを信奉し、それを疑わぬのであれば、やはり今の貴様はあそこの連中とさして変わらん。どれだけ腕を上げても、それは騎士ではない」

「……意味がわからないな」

「あの男を真似して強くなった。稼げるようになった。若手の騎士として一歩抜きんでることが出来た……あの背中を追うのが正解だ。その正解が、いずれ貴様を蝕む。正解への信仰が崩れた時、残るのはただのがらんどう」

「……」

「何のために剣を振るのか、己が道を他者の背に預ける者に先は無い。今の貴様は其処で苦悩する若造よりも強いかもしれないが、騎士として先んじているのは若造の方だぞ。その理由、少しは考えてみろォ」

「ファウダーなんぞに与する貴様が、秩序の騎士に説教か? 笑わせんな」

「くだらん返しだ」

 心底つまらなそうにジエィは首を振り、他二人に退くぞ、と顎で合図を送る。今の貴様とは話す価値もない、そういう目に見えた。

 それがクルスの心を揺さぶる。

「俺がいつ騎士を辞めたかわかるか?」

「……ずっと前だろ」

 秩序の騎士を辞めた時、クルスはそう考える。

「違う。若さを欲し、全てを捨てこの身体を選んだ時だ。ゆえに俺は騎士ではなく成らず者、貴様の言う通りのクズとなった」

 ジエィはにやりと笑みを向けた後、背を向けて歩き出した。

「騎士とは在り方だ。職業の名ではない」

 ディン、そしてパヌは眼を見開く。クルスは反応することなく、意味の分からない戯言をぶちまけた敵の背を睨んでいた。

 自分は最善の道を歩んでいる。最短を、最速で駆け抜けている。一時はソロン相手に引き離され、自分も仕事を外されて落ちたこともあったが、運にも恵まれて一気に飛躍した。部下を操り手足を増やした。あの男のように。もう同期に敵はいない。

 敵はあの男の背中のみ。

 あれを越える。

 その先は――

「……」

 その先のことは、何も――

 そんなクルスをよそに、クルスと共にこの地へ来たティルは立ち尽くしていた。血だまりの中、美しく立つ姿はあの頃のままで、そういう状態で操られていると言う話自体は聞いていたが、それでも実物を見ると息を飲み、足がすくむ。

 自分の憧れが、自分の目指していた立ち姿が、其処に在る。

「……」

 言葉も出ない。

 だけど、

「あっ」

 ジエィの撤退の合図と共に、『墓守』が店仕舞いとばかりに彼女たちを収納するための棺を地面から引き出し、其処へ仕舞いこもうとする。

 その間も、付着した臓物などを取ったり、血をまたもや自分の服で拭こうとしたり、キリがないから、と『亡霊』に言われなければきっと、彼は綺麗になるまでその場で手入れをしていただろう。

 大事な宝物に接するように。

 死体を大事にする構図は受け入れがたいが、それと同時に悪意とか邪気とか、そういうものは微塵も見受けられなかった。

 想像以上にあの頃のままの憧れ。

 想像とはまるで異なるその支配者。

 片づけを終えて、死体を操る支配者はてくてくとディンのそばに寄って、がさごそといくつかのポケットを漁り、それを取り出して彼に向けた。

「う」

「……俺にくれるのか?」

「うっう」

 くしゃくしゃの野花である。

「……ありがとな」

「うっ」

 こちらこそ、翻訳する必要もない。『墓守』と呼ばれる者の、あの笑顔を見れば誰でもわかる。子どもが浮かべるような無垢な笑顔だったから。

 ファウダーは秩序の敵。

 彼も魔族化を受けた存在で、死体を操り多くの人を殺めている。

 その情報は知っていた。そんなやつに自分の大事な人が、死んでなお玩ばれている事実が許せず、いつか目の前に現れたら斬り捨ててやる。

 そう思っていた。会ってもないのに憎んですらいた。

 だけど、眼を見れば、振舞いを見れば、わかる。

「……」

 それだけじゃなかった。情報だけ知って、何も見えていなかった。知ろうともしていなかった。その事実が彼の足を、言葉を止めていた。

 返してほしい。

 その一言すら――

 ファウダーが去った後、残ったのは尋常ではない数の死体とそれぞれ思うところがあり、考え込んでいる無言の時間だけが其処に在った。


     ○


 とりあえずあの場から撤収した彼らは独自のルートを取りつつ一旦野営地を築き、話し合いの場を整える。一応部隊長のパヌは部隊へ湖が凄いことになっていたので本国へ報告に行ってくる、と部隊には警戒して待機、と告げておいた。

 目撃者不在ゆえ、原因不明にすることが出来た。

 と言うよりもファウダーのせいに出来た、が正しいが。

 夜になれば普通の土地なら厳冬下と呼んで差し支えない気温であるが、残念ながらここログレスではこれが普通。

 焚火があるのなら問題ない、となる。

 ようやく彼らは腰を下ろし、落ち着いて話せるような状況となる。

「秩序の騎士であるディンが何故ログレスにいるのかは、一応ティル先輩から聞いている。いつの間にやらダブルスパイになっていたらしいな、俺の友人は」

「……まあ、成り行きでな」

 大前提として何故ディンが此処にいるのか。それは彼の現在の状況に起因する。ログレスにユニオンの情報を流しつつ、ログレスの情報もユニオンへ流す。第六の隊長であるフォルテ公認の任務である。

 そして、それはログレスのクレンツェ家、名門の当主であるディンの父も承知していた。全ては――

「今の状況は父上の提案だ。この国の闇を知った以上、国の視点から俺はログレスの味方に映らないといけない。ただ、ユニオン騎士団を裏切る気もない。だからどちらにも当たり障りのない情報を流し続ける、そういう役割を務めているわけだ。おかげさまで意味もなくユニオンとログレスを往復する羽目になっている」

「で、成績を下げている、と」

「そういうこと」

 闇に触れたディンを極力今まで通りの生活を、仕事をさせるための措置であった。苦肉の策であるが、双方に話を通しているのなら大きな問題はないだろう。

「ティル先輩と繋がっているのは?」

「元々、俺も誘われていたんだよ。学園長から、例の組織に」

「……ディンもか」

「ああ。やっぱりクルスもだったか。でも、俺は断ったんだ。自分のことで精一杯になりそうだったし、あの時はそうしたいと思っていたから。ただ、その時ティル先輩とかも参加しているって話だけは聞いていて……それで俺から声をかけた」

「学園長たちに相談するために、か」

「そうなるな。でも、結局深い部分は話せていない。ティル先輩がファウダーの『トゥイーニー』と交戦した件の報告と絡めて、俺の状況やその因果関係を説明したぐらいかな。まあ、因果関係を話す時に少し触れたけど、それだけだ」

「俺も細かいことは聞いていない。今回も、何事もなければ繋げるだけの仕事に徹するつもりだったしな」

 ようやく二人の関係性、この場だけでも混沌としていた状況が解ける。

 二人の間にアスガルドが、学園長たちがいた。クロイツェルも当然のようにそれを知っており、ティルと合流させディンまで繋げた。

 問題は――

(俺が何も知らされていない、と言うことだ)

 同じ組織に属しているはずの自分にディンの情報が共有されていない、と言うことである。以前から思っていたが、学園長やテュールは難しい情報は開示する相手を選んでおり、あの男との情報格差が生まれていた。

 信頼か、実力か、とにかく彼らの評価が足りていないのは明白。

 何故、とクルスは苛立ってしまう。何が足りないのか、隊長格になれば何か変わるのか。そう言うことばかりを考えてしまう。

「でも、悪いが今回は俺も噛ませてもらう。もう少し見定めたい。それに、自分がやったことの因果も、あの連中を見ていたら知りたくなった」

 ティルはディンに向けて仲介者で抜ける気はない、と伝えた。

 ディンは頷き、

「パヌ」

 唯一、この場で踏み込む必要のない友に声をかける。今ならば間に合う、と。抜けるなら今だぞ、と。そう言う意図を込めて。

 だけど、

「俺も気になるから残るよ。さすがにあのわけわからん戦いを見て、寝て忘れるは無理っしょ。と言うわけで、説明プリーズ」

 パヌは緩くその善意を拒絶する。

 自分も聞く、そう返した。

「後悔するかもしれないぜ?」

「どっちでもそうじゃん? なら、聞いて後悔するよ」

「……ったく、クルスは?」

「愚問だ。遊びに来たわけじゃない。その闇とやらを覗き込むために俺は来たんだよ。それがログレスの急所だってんなら、むしろ来た甲斐がある」

「こっちはこっちで野心しかない、か。ったくもう、俺の友人はどうしてこう極端な連中ばかりなんだよ」

 ディンはため息をつき、

「少し長くなるぞ」

 頭をかきながら話すことを決めた。本当は話したくない。巻き込みたくない。だけど、彼らが強くそう望むのであれば、そうするしかない。

 それに一人で抱え込むのも、辛いから――

「まず、最初に伝えておく。『暗部』が操っていた魔族は、ログレスの魔道研究が生んだ人造魔族だ。すでにある程度の量産体制も構築されつつある」

「「「……っ」」」

 三人は驚く。

 人造魔族はともかく、その量産体制が構築されていると言うのはさすがに想定外、そもそも彼らには理解できていないのだ。

 騎士の国であるログレスが何故、そんなことをしているのかが。

 何故ならこの国は、どの国よりも潤沢な武力を抱えている。新たに力を求める必要などない。今ですら正直過剰であるのだから。

「で、何故そうなったのか。それはこの国の成り立ちに起因する。クルスはログレスの建国理由を知っているか?」

「馬鹿にするな。伝説ベースなら黎明の騎士がサブラグの支配域であった北の大地を奪い返し、その地に彼の弟子が守り手として住み着いた。史実ベースならエンチャント技術の発展により騎士が興り、彼らが龍脈の構造上どうしても多くのダンジョンが発生してしまうこの地に根を張り、人類の盾として機能する。そうして集まった騎士たちが中心となり、国となったから騎士の国、だ」

「ど、怒涛の説明サンキューな」

「ふん」

 ディン的にはログレス出身の自分とパヌ、ログレスで働くティルは知っているだろうから、ログレスと絡みのないクルスが知っているかどうかの確認のつもりであったが、クルスはそう捉えなかった模様。

 どうにもひねくれ度が上がっている気がする。

「まあ、その通りだ。魔族がいて、騎士がいる。それと戦うために、抗うために騎士が集まり、この国が出来た。ミズガルズの秩序のために」

 騎士の国ログレス。騎士が集まり、騎士が作り上げた王国である。

 全ては人類の敵、ウトガルドの侵略を阻止するために――

「魔道研究も、実は公然の秘密だったんだ。敵を知るために、敵の弱点を調べるために、あくまで退魔のために始まったものだった。だからそれなりの国の上層部はログレスが魔道研究をしていること自体は知っている」

 人類の盾、守り手である騎士の国だけに許された敵の研究。

「ちょっと待て。そもそも何で魔道研究がタブーなのかが俺にはよくわからん。学生時代も疑問に思って調べたが、それに関する書物は何処にもなかった。マスター・グラスヘイムにも質問したんだが、何故ないのかを考えなさい、と言われてそこまで。それの答えを、ディンは知っているってことでいいのか?」

 ティルが長年抱いていた疑問。敵を調べる研究の何が悪いのか、何故他に何処もやっていないのか。今でこそユニオンが認可し、隊長が所長である研究所があるほどであるが、それは本当に最近の話であるし、未だ反感もあると聞く。

 その理由がまるで見えない。

「ウト族の語源って、何か知っていますか?」

「いきなりどうした? まあ、よく言われてるのはウトガルドだが……あれだろ、魔族に黒色が多くて、髪の色が連想するからとか、そんな感じじゃないか?」

「正解です。ウト族の語源はウトガルド。その理由は、ウトガルドから連れてきた人だったから、です」

「は? いや、意味が……わからない」

「あんまり驚かないんだな、クルスは」

 突然の情報に驚き戸惑うティルとパヌ。普通は驚く、混乱する。情報の真偽を疑う。それなのにクルスはむしろ、何故ディンがそれを知っているのか。

 それを冷静に考えていた。

「……驚きはあるさ。俺もウト族ではあるからな」

「驚いているようには見えなかったけれど……まあいいか。その後、ウトガルドで何かが起きて、その出入り口であるダンジョンから魔族が溢れ出した。ゆえにウト族は迫害の対象になった。それがおそらく正しい歴史だろう、と父上が言っていた」

「おそらく?」

「ミズガルズにとって地獄の五百年、騎士が生まれて魔族と渡り合えるようになるまで、多くの国が滅んだ。多くの歴史が消えた。風化したものもある。ただ、彼らの扱いとある事実を照合すると、そう考えるのが自然となるんだ」

「……」

「敵を知るための研究、その過程でログレスは知った。魔族は、人や動植物が魔障により変化したものである、と。長き時を経て、おそらく当時は周知の事実だったものが、歴史として現れた。それと同時に戯言と切り捨てられていた、ウト族内で伝わる歴史が真実味を帯びてしまった。ミズガルズの侵略が原因で、ことが起きた、と」

「さ、さすがに、その、何かの間違いじゃ」

 パヌは怒涛の情報量に混乱していた。

 しかし、

「……歴史上、たびたびウト族へ圧力をかける行為はあった。騎士、その中心にはログレスや、秩序の騎士もいたはずだ。今はやり過ぎだった、とされる程度には苛烈なのがな。それが情報封鎖って話なら、つじつまは合う」

 逆にティルは疑問が氷解していき、その分表情は険しさを増す。

 騎士が、国家が、秩序が握り潰してきた歴史。

 それが少しずつ輪郭を帯びてきたから――

「同時に魔導研究をタブーにする理由もつじつまが合いますね」

 ミズガルズの罪を隠ぺいするため。ウトガルドの正体を白日の下にさらす、それをさせぬために禁忌となった。

 そして、それを世に問おうとしたウト族は騎士の手で滅ぼされた。

 その結果、今日までその情報を知るは特権階級のみとなっていた。

「ただ、結局この話は魔道研究やウトガルドの歴史がタブーである理由でしかない。人造魔族と言う新たな武力を作る理由にはならんだろ」

 クルスはディンの話は一番の問題につながらない、と指摘した。

「魔族の正体が人や動植物である。これが判明してさらに時代が進み、もう一つ明らかになったことがある」

「……」

「現在、魔族には二種類存在している。人や動植物を元に魔障によって変化した魔族、そして、魔障そのものが生命を真似た、研究所では虚ろと呼称している魔族もいる。見た目は一緒だ。で、これは推測だが、大元の魔族がいて、その影として生まれたんじゃないか、と。正直生態はまだわかっていない。ただ――」

 ディンは少し言葉に詰まりながら、

「ただ、現在に至るまでの調査で判明したのは、徐々にダンジョンから現れる魔族の割合が、虚ろに傾きつつあると言うこと」

 情報を繋げていく。

「つまり、ウトガルドの人間を、動植物を母体とした魔族自体は減っているんだ。そして影が増えている。でも、その状態がずっと続くか? 元となる個体が全部いなくなった後、虚ろは、魔障は、その形を取り続けるのか?」

 険しい表情を浮かべながら――

「いつか魔族が、いなくなる日が来るんじゃないか、と」

 ディンは吐き捨てるように言葉を放つ。

「そ、それはいいこと、じゃん。笑顔で話すことじゃね?」

 パヌは首を傾げながら、何でそれでこんなに重たい空気になるんだ、と問う。彼も少々情報過多で、混乱しているのだろう。

 前提の話を忘れている。

「……なるほどな。クソみてーな話だ」

 この国は騎士の国であり、

「腐敗ってレベルじゃねえなあ。嫌になる」

 敵がいてこそ成り立つ国なのだと。


     ○


 ユニオンの魔道研究所の片隅で、

「……」

 レオポルド・ゴエティアはじっと、静かに同条件で死体の経過観察をする実験を見つめていた。腐敗速度の差、それにより一番わかるのだ。

 元があるか、影であるか。

「おんやぁ、どうされましたか、所長」

 大胆不敵、シャハル扮したデルデゥが彼に声をかけた。

「……何でもない」

 そう言う彼の顔は険しい。

 千年戦い続けてきた。復讐心が、憎しみが、あれほどの怒りが風化しかけてしまうほどに時間が経った。果たして今、どれだけの命が残っているものか。

 それを考える度に焦る。

 時間が経てば経つほどに――

「進捗は?」

「ほんの少し、一部だけですが……有効が出ましたよん」

「ッ⁉ 本当か?」

 レオポルドは驚きとそれ以上の喜色を浮かべた。普段の彼が用いる仮面のような笑顔ではない。本当の、サブラグとしての笑み。

「見ます?」

「もちろんだ」

 急がねばならない。ずっと、急いできた。とっくに手遅れかもしれないが、それでも一縷の望みをかけ、此処まで来たのだ。

 地下の研究施設。其処にはうめき声をあげ、今にも死にそうな魔族が倒れ伏していた。これは魔族化の手術を受けた個体である。

 そして、

「手先をご覧あそばせ」

「ああ、見ている。見えているとも」

 その一部、手の部分だけが魔族化した状態であるにもかかわらず、人の手の形になっていたのだ。魔族化を解いたわけではない。

 魔族が人に戻った。

 ほんの少しだけ。それでも、それすらなかったのだ。

 何十年も。

「……」

「続けてくれ」

「もちろん、そのつもりです」

 シャハルは珍しいものを見た、と驚く。実験を見つめるまなざし、こちら側の研究所で彼は喜怒哀楽をあまり見せない。そうする必要がないから。

 そんな彼が今、その眼に涙を浮かべていたのだ。

 小さな一歩、果たして彼にはそれが何に見えているのだろうか――

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