第279話:教えると言うこと

 ボッツは拳を打ち込む。全力での打倒、相手への信頼がなせる業であるが、その手には水を穿つような、薄皮一枚ほどの感触しか残らない。

「おおッ!」

 連打ならば、それもダメ。我ながら上手く繋がったコンビネーションであると思う。感覚は良い。調子も最高に近い。

 だけど、

「……」

 遠い。

 まだ先ほど試していたように組み技合戦の方が可能性を感じた。無論、そちらの方も膂力では自分が勝っているはずなのに、全て先回りされて結局組み伏せられてしまったが。ただ、拳闘は微塵も可能性を感じない。

 心が言っている。

 一生かけても届かぬ山巓である、と。

「其処まで」

 バルバラが二人に声をかけ、止める。

「拳闘の方も随分上達したな」

「……ありがとうございます」

 敬愛する先輩の温かい言葉。だけどさすがにボッツは笑えなかった。自分の対抗戦の候補者であるぐらい、高い成績を維持している。世代の中では圧倒的上位層、だと言うのにここまで遠いのか、と愕然としてしまう。

(拳闘は剣よりもわかりやすく彼の特性が出ますね)

 拳闘倶楽部コロセウスOB、クルス・リンザール。四強の名に恥じぬ、圧倒的な実力を皆に見せつけた。

 現役最強のボッツを完封することで。

「あの、何かアドバイスはありませんか?」

「そうだな。俺視点だと少しクリーン過ぎる気がした。もっと密着し、相手の動きに制限をかけたり……あとは立ち回りだな。地の利を得るための動きが弱い。隅に、端に相手を寄せるためにどう動くべきか、その辺が課題か」

「密着……ごくり」

「ん? バンテージのせいで感覚はなかったが当てていたか? 鼻血、出てるぞ」

「い、いえ、その、私事です」

「私事の、鼻血?」

 この後輩は気の良いところもあるが、如何せんちょくちょくよくわからない反応をすることがある。

 倶楽部ヴァルハラでもそうだが、最近のクルスはよく古巣に顔を出していた。自分の研鑽も兼ねた恩返し、貰うだけ貰い、それでおしまい、は彼の中で許せない部分もあった。それに、個人研鑽としても悪くない。

 結局のところ気づきに何が繋がるかなどわからない。自分がある日急に噛み合い、ゼロへ至ったように――

「勉強熱心ですね」

「そうですかね?」

 自分より未熟な者たちの中に、そういう欠片がないとは限らないから。バルバラはそんな教え子の様子を見て苦笑するしかない。

 姿勢が違う。現役の時の自分すら、此処までストイックではなかった。

 少なくとも格下からも何かを得ようとする貪欲さはなかった。

「この後、少し時間を頂いてもいいですか?」

「ええ。大丈夫です」

 教師とは何か、こういう学生を見ると考えてしまう。


     〇


「……そうですか。エフィムがひどい惨状であったことは聞き及んでいましたが、表情はそれほど悪いものではなかった、と」

「と言うよりも、あまりの太刀筋に斬られた感覚があったかどうかも疑問です」

「それほどに」

「はい。今の自分が対峙しても……同じ結果であったかと」

 いつか腰を据えて話さねば、と思っていたが、バルバラから時間を取ってくれたおかげで話すことが出来た。

「ありがとうございます。今の貴方がそう思うほどの相手と手合わせし、力及ばず敗れた。ならば、少しは救いもあったのでしょう」

 今、思い返しても次元の違う剣技。万に一つの生存すら許さぬ必死の連撃。その一つ一つが練り上げられ。研ぎ澄まされたものであった。

 人ならざる業。

 されど、人にしかありえぬ技でもある。

「あの子はかつての私です。武を極めんと生きた。違うのは道半ばで倒れた者と途上にて自らが下り坂であることに気づいた者……大きな違いですが」

 クルスから話を聞いたバルバラはゆっくりと立ち上がり、

「私がクゥラークから離れたのは下り坂の私を、憧れのまなざしで私を見つめる後輩に見せたくなかったから。逃げたのです。登り征く彼から……」

「……」

「一つ、私の未練を受け取ってもらえますか?」

「……自分が、ですか?」

「ええ。あの子が武人として認めた、そしてこれから遥か遠くに挑まんとする者にこそ、受け取ってほしいのです。なに、損はさせませんよ」

 ゆっくりとした足取りで、サンドバッグの方へ近づく。

 かつて、あれを撃ち抜いた鬼の拳に驚嘆したことを、昨日のことのように覚えている。今でもあれほどの威力は出せない。

 だけど、近いことは出来るようになった。

「対パンクラチオン、いえ、対エフィム・トレーロ用に編み出した拳技です」

 バルバラがさらにサンドバッグへ近づく。

 さらに近づく。

(……近過ぎる)

 間合いが、ほぼゼロとなる。実際に額はサンドバッグに密着した状態、されでは到底、強力な打突は放てない。

 だが――


「名はありません」


 サンドバッグが跳ね上がる。打ち抜くスペースはそれこそ指の長さほどにしかなかった。それなのにサンドバッグが浮かび上がり、打突の痕がくっきりと刻まれている。あれを打ち込まれたら、無事では済まないのが一目でわかった。

「これも結局は連動です。完全なゼロ距離で放つことは出来ません。しかし、指一本分の隙間があれば、加速を完了し破壊を完遂することが出来る」

「……」

 クルスは絶句するしかない。ちょっとした荷物を託す、その程度の認識であったがそれが一発で覆った。

「コツは体の回転と握り、ですね。回転して得た力を握りによって生まれた空間に爆発させる、ようなイメージでしょうか。脱力から究極の緊張へ……すいません、あまり言語化が上手くないので……」

「いえ、充分です」

 ゼロ距離、それはクルスにとって勝負の間合いである。最も得意であると同時に、其処には常に死のリスクが付きまとう。

 しかも自らを知る対策持ちとの密着は比喩ではなく死を覚悟する必要がある。いや、あった。そう、この名もなき拳は不用意に近接し、対策を講じようとする相手を逆に粉砕してのける威力があるのだ。

 強力な、何よりも自分にこそ必要な隠し玉。

「練習していってもいいですか?」

「ええ。どうぞ。それでは私はお先に失礼します」

「……ありがとうございました」

「どういたしまして」

 未練を明日へ託し、バルバラはようやくひと息つくことが出来た。武人の下り坂、それは人によって違う。まだやれる、皆がそう言った。オーリンも技を磨くのはこれからだ、己惚れるなと言っていたことを昨日のことのように覚えている。

 だけど、やはりあの時であったのだろう。

 自らがそう自覚した時、その時が――

「さすがバルバラ先生、お見事な指導です」

 倶楽部ハウスの外に気配なく立っていたエメリヒが声をかける。テュールにしろ、この男にしろ、アスガルドの教師陣はやはり魔窟。

 如何に感覚が落ちたとて、自分が気取ることすら出来ぬとは――

「ご冗談を、マスター・フューネル。私はただ押し付けただけですよ。エゴです」

「はは、いいじゃないですか。如何なる理由でも、これから先足りぬ彼は常にリスクを背負い続ける中、あれは小さくない慰めとなる」

「……たまたま、そういうものを持ち合わせていただけ」

 今はあまり話したい気分ではない。

 彼の横をそのまま通り過ぎようとするバルバラの背に、

「そろそろ講師ではなく、正式な教師はどうです? 我らが騎士科教頭様も、統括教頭殿も、望まれるのであれば是非、と言っていましたよ」

 勧誘を投げかけた。

「私にとって人に教えることは逃避でしかありません。不純なのです。むしろ、そろそろ潮時かと思っています」

「逃避結構。直前にも言った通り、教える理由などどうでもいいこと。教わる側もそんなこと気にしない。大事なのは何が与えられるか、それだけです」

「であれば、なおのこと……私は教師と言う職業に虚しさを感じる時があります。教えてすぐに飲み込む学生がいる一方、どれだけ教えても飲み込めぬ者がいる。十割出来る者がいれば、五割にも満たぬ者がいる。教え方は同じです。こちらの熱量も同じ、なるべく、等しくするようにしている……でも、差が出てしまう」

 教師のジレンマ。

 それは、

「私もよくわかりますよ。ま、実際教育現場でもよく言われていますからね。入団実績などどうでもいい。その年に、それだけの才を持った学生が来た、それだけなのだと。御三家には優秀な人材が来る。だから、入団実績も自然と良くなる。真理です。私たちがどれだけポンコツでも、いっぱしになるものは成りますよ、勝手に」

 ある種教育の真実でもある。

「今年は全入が出来るかもしれない。でも、私が寄与した部分なんて僅かです。先生と言うのなら、ふふ、クルスの方がよほど貢献したと言える」

「……私もそう思います」

 教師が優秀だから全入が見えてきたのではない。たまたまクルスが入り、たまたまそれに感化される子たちが揃っていた。むしろ、教師陣は二学年までの状態を思うと、何も出来ていなかった、エメリヒなどはそう思う。

 大体半分は入団できぬから、此処から下はほぼ見込みはない。やるやつは勝手にやるし、やらないやつは勝手に腐って落ちていく。

 それだけ、毎年のこと――

「それでも私は教師が無意味とは思いませんがね」

「……何故ですか?」

「私たちには騎士団での経験がある。プロとしてそれなりの実績を、現場の真実をあの子たちに伝えることが出来る。武人としての心得もまた」

「……」

「私たちが引き上げてやれる子なんて、平均したら毎年一人か二人、それでも多い方かもしれない。でも、それを十年続ければ十人、二十人、百年続けたら百人、二百人……それだけ変わるんですよ、何かが」

「……」

「私は感覚に頼り、それでのし上がった騎士でした。それがいつの日か鈍り、私は現役を退くことを決めた。先輩の勇退は私にとって言い訳だったんです。情けない話ですが……武人としてのエンディングが見えてしまった」

 単なる同僚としか映っていなかった男が自分と重なる。

 下り坂、それもまた感覚。

 それでも、それを頼りに駆け抜けた者からすれば、それは羅針盤であったのだ。武の道を征く、ただ一つの指針。

「長生きしたいなら言語化して、足りぬものを埋めていくしかない。正直、私はまだまだ勉強不足です。現役時代、学生時代、もっとしっかりやっておけば、いつも思います。学生から教わることも多々……ここは優秀な子が多いので」

「……はい」

「でも、その未練すら、彼らに授けることが出来る。後悔すら伝え、間違わぬよう導くことが出来る。それは悔いた者の特権でしょう?」

 ただ勉強を教えるだけが先生ではない。日々、ふとした会話や講義の間の小話、そんな小さなことが人の人生を変えてしまうこともある。

 その小さな積み重ねが、世の中を変えるかもしれない。

「今日、あなたが授けた未練は……きっとあの子の武人としての寿命を少し伸ばしたと思いますよ。それは立派な教育だと、思いますがね」

 言うだけ言って、エメリヒはバルバラに背を向ける。

「正式採用、気が向いたらいつでも言ってくださいね」

「……考えておきます」

 気取った、何処か軽薄な男。ただ、やはりこの学園は御三家で、彼もまた選ばれた存在なのだろう。

 それを今更知る。

「……」

 逃げて、流され、ただの止まり木のつもりであった。

 終の棲家となると思ったクゥラークすら出た自分が腰を据える場所などない、そう思い続けていた。

 でも、

「……それも、悪くないのかもしれませんね」

 それもまた一種の逃げであったのだと、怯えであったのだと、気づいてしまった。今の職責に見合う実力があるとは思えない。武のみを追求してきた己に、いったい誰を導く資格があると言うのか。

 だけど、悔いでもいいのなら、未練でもいいのなら、たくさんある。

 伝えたいことが――ならば、いいのかもしれない。

 彼女はそう思った。


     〇


「さあ、可愛がりの時間だ!」

 ドコドコドーン、と机を叩き、長い付き合いとなった学生たちの白けた視線をものともせず、エメリヒは皆の視線を集める。

「我こそは、と思う者は手を挙げろ! 三学年の可愛い後輩たちに、先輩たちの威厳を見せる。裏卒業式の編成を決めるぞ!」

 裏卒業式、その言葉が出た瞬間、

「はいはいはいはいはい!」

「はいはいはいはいはい!」

 ヴァル、ラビの二人は壮絶な勢いで手を挙げた。あの日、性格にちょっぴり難の、失敬、少し風変わりな二人は絶対にしたいと思っていたのだ。

 やられたらやり返す、倍返しだ、と。

 他にも何名かちらほらと手が挙がる。

 ただ、

「俺はいい。構えでバレる」

「俺もあんまりだな。やる気あるやつに譲るぜ」

「わたくしも盾がありますので」

 デリング、ディン、フレイヤの三名は降りると言った。

 さらに、

「俺も降りる。今、雑音は入れたくない」

 イールファスもまた参加する気はないと言った。まあ、彼は何となくそう言う気がした。そも、彼にとって何よりも大事な一戦が、ずっとお預けされたまま。

 しかし、彼は常にそのために備えていた。

 その眼が見据える先に、


「参加したい」


 温度の見えぬ男がいた。その男が、手を挙げた。

「約束がある」

 約束が、戦う相手がいるから、と。

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