第253話:全てはその螺旋の中に――
クルスは一人、かつて自分の師と共に研鑽した山を探索していた。
昨夜、
『あの山な、まだ先だが切り拓いて、崩して、魔力を汲み取る施設を建てることになる。隣の村はその魔力を使って大規模農業がやりたいんだと』
兄から教えてもらった話を幾度も反芻した。おそらくは隣村の考えではなく、御上からのお達しがあったのだろう。イリオスの方針として、農地を開拓、拡大していく必要がある。そのための一つ、それでこの山が消える。
(父さん辺りは、反対しているんだろうな。目に浮かぶよ)
この山はゲリンゼルに走る小川の水源ではあるが、生活用水として使う井戸水はあの山が源ではない。其処よりもずっと遠く、遥か高き霊峰の連なりから流れ、地下へ潜り流れる水の方が量は遥かに多いのだ。
隣の村はかねてよりそれを掘り出し、人口の用水路を設けそれを耕作に運用している。そんな話を昔、父さん辺りが溢していた気がする。
(ここが消えるのか)
理屈を考えたなら素晴らしい話である。だが、なるほど、これがマリウスの考えをかなり薄めたものであるのだろう。
どうにも手放しに賛同する気も、ましてや喜ぶ気も起きなかった。
この地が自分の、騎士としての始まりであるから。
「……」
クルスはすれ違いざまにちょうちょを捕まえ、すぐに放す。蝶は捕まえられたことにも気づかず、そのまま羽ばたいていく。
その姿を、クルスは少し目を細めて見つめていた。
この地は変わらないと思っていた。
変わりようがないと思っていた。
『エッダは元気?』
『ん、あ、ああ。元気にしているよ。その、あっちで』
『……あっち、ね。嫁いだんだ』
『いや、厳密にはあちらさんが婿に入ったんだが、ゲリンゼルが水に合わなくてな。とりあえず今はあっちの村に二人で戻っている、って感じだ』
『そっか』
でも、この山は消える。エッダはとうに消えた。それこそ自分が消えて、ほどなくだったそうだ。縁談の話が表に出てきたのは。
とうの昔に、内々では話が進んでいた、と言うことなのだろう。
ここじゃよくある話である。
「はっ、でも肝心要の婿養子に出ていかれたんじゃザマァねえ」
昔から大嫌いだったエッダの両親の、愕然とした表情を浮かべるだけで食欲が湧いてくるというもの。彼らは出ていかれても追うことなどできない。
先祖伝来の土地があり、それを手放して外に出る力がないから。
力が――
「……ちっ」
無い。だから負けた。だからこの地に縛り付けられている。
そう思っていたのに――間抜けにも悩みを踏み抜かれ、民間人に剣を抜かされた。それで斬り捨てていればまだ格好がついたが、何も出来ずじまい。
ダサいことこの上ない。
同じ『騎士』か、その通りとしか言えないだろう。
「……」
昔から父とは水と油、思えばずっと反発してきた。つい、昔の、ガキの自分が出た。大人になったと思っていたのに、あの男を前にしたら――
「……それにしても……疑念は深まるばかりだな」
クルスは一旦悩みを振り払い、ある程度散策した結果について考えこむ。
今、彼が立つのは間違いなく『先生』が身を寄せる小屋があり、ちょっとした修行道具もあった場所である。
だが、今は何もない。
彼が存在した、一切の痕跡が消えていた。
「……最も可能性が高いのは、あの場所がダンジョンであった、と言うことか。にわかには信じ難いが、現実から目を離しても仕方がない」
『先生』がゼロス・ビフレストであり、それと同時にもう一人の存在が、それが魔族に、千年前のウトガルドに関係していることは理解している。
此処にダンジョンがあったのも、おかしな理屈ではない。
「そしてもう一つ」
クルスは位置を探るためだけに山を散策していたわけではない。ある痕跡を調べていたのだ。この山に張り巡らされた、魔除けの陣地を。
少し古い形だが、アスガルドの流れを汲む様式である。動力源は地下の龍脈、其処からラインを繋ぎ、かすかに供給し続けている。
効力は弱いものだが間違いなくゼロス・ビフレストの手によるもの。
それを、
「……マスター・ユーダリルも確認済み、と言うこと」
ウル・ユーダリルも確認している。何者かが探りを入れた、陣地を調べていた形跡があった。空白の期間に騎士が訪れていた可能性もあるが、それならば兄が何か言いそうなものであるし、それよりもずっとわかりやすいことがあった。
たかが学生一人、そのために英雄がわざわざこの地に来るか。
多少疑問には思っていた。
騎士の世界を知れば知るほどに、ウル・ユーダリルと言う存在が桁外れで、容易く其処らを歩き回って良いわけがない、と言うことを知る。
代理で充分、事足りる話。
ならば何故、わざわざ時間を割いてこの地へ訪れたか――
「騎士が、自身の拠点に陣地形成することはよくあること。特に昔はその傾向が強かった。だから、マスター・ユーダリルはこれを騎士の習性と見た、か」
だが、クルスには少し引っかかる。ゼロスともう一人はお互い、納得して同一の存在に収まっているように見えた。不安定さも見受けられなかった。
ならば、こんな魔除けが必要であろうか。
片方は魔族側であり、そちらとも意思疎通が取れているのに。
それに、もっと気になるのは――
「……まだ、残しておく意味があるか?」
『先生』のやり口は無駄が多いように見えて、今想えば無駄一つない最短最善であった、と思っている。少なくとも自分の育成に関しては、如何なる達人、名人をして、何も持たぬ少年にあそこまで授けることは出来なかっただろう。
無駄などない。
なら、何故不在の山に陣地を残す必要があったのか。
「少し考えを整理するか」
今この場で疑問の答えは出ない。情報が足りないから。ただ、ここからの立ち回りは考えておく必要がある。
誰を信用すべきか。
誰を頼るべきか。
自分は今、多くのカードを手にしている。しかし、同時にどの陣営にも敵が紛れている可能性、敵となり得る者がいることもまた理解している。
自問自答、自らを掘り下げるのにここ以上の場所はない。
「……」
クルスは座禅を組み、瞑想する。
集中、眼を瞑り、自分だけの世界に浸る。雑音は消え、ただ自分の鼓動の音だけがこだまする。静かに、呼吸の音すらも小さく、消え入るように――
〇
クルスは実家の方へ足を向けていた。ただ、目的地は家ではない。この時期、この時間、あの男なら絶対にここにいる。
その通りに、
「隣、失礼するよ」
あの男が、クルスの父が畑を見つめていた。その隣に、クルスは返事を聞く前にどさりと座り込む。そして腰の剣は少し離れたところに放り投げる。
腕を組み、自分を無理やり律した。
「誰だァ、馴れ馴れしいガキだな」
相変わらず拒絶されているが、それはこちらの知ったことではない。
「もういいだろ。面倒くせえ」
「あ?」
「俺はあんたが大嫌いだ。あんたも俺が大嫌いだろ? でも、俺はあんたの息子で、あんたは俺の父だ。それは揺らがない」
「……ケェ」
父は頑なにこちらを見ない。クルスもまた父ではなく畑を見る。
あの男が見据える何かを、見出さんと――でも、それは無意味で、不可能なことだとも知っている。自分の手はもう、土の匂いがしないから。
「俺と『先生』、何が違う?」
「俺に聞くなクソガキ」
「わからないから、聞いている。剣の腕はもう、限りなく近づいた。俺は自分の剣を手に入れたんだ。完成した。どんな敵とも渡り合う自信がある」
「……」
「何が足りない? それがわかるまで、俺はあんたにまとわりつくぞ。それは嫌だろ? 俺も嫌だ。だから、何でもいい。感じたことを教えてくれ」
「……火、あるか?」
「ある」
父はパイプを取り出し、クルスへ差し出す。それにクルスは胸元から野営御用達、簡易な魔導が刻まれた小さな棒を取り出し、へし折る。
其処に火が生まれ、中の草を燃やした。
父はパイプに口をつけ、ふー、と吐き出した。
その匂いに、
「……それ、あのお茶の葉か」
「今更気づいたのか。テメエは昔から鈍いんだよ。眼と同じくらい、鼻を凝らせ、耳を澄ませろ。五感で対話するんだ馬鹿野郎」
「……」
クルスは今更気づいた。グラスヘイム先生が淹れてくれたクソ苦いお茶、この村に伝わる健康にいいとされる薬草、その匂いであることを。
そして、父がそうしている理由は孫のため、か。
「土を舐めて、肥溜めに指を突っ込む?」
「今のテメエにゃ何も見えねえだろうがな」
「……そりゃあそうだ」
未だに緊張する。この男のそばは、どうしてこうも気が休まらないのか。素手だろうが、手足を縛ろうが、本気なら殺せる。
いくらでも手段が浮かぶ。
「あの山、無くなるんだってな」
「俺は認めてねえ」
「はっ、あんたはそうだと思ったよ」
変わることを認められない人だから。発展のため、皆の利便性のために発魔所が出来るのなら、それはいいことなのだ。
飲み込むべきことなのだ。
それを拒絶し続ければ、シリコンバレーのような歪みを生む。
「浅いとこで理解してんじゃねえ」
父はクルスの納得を鼻で笑い、立ち上がる。
そして、畑の中に入り土を手にした。
「土を生かすも殺すも、其処に住まう者次第だ。どう育ててきたか、育てるか、接し方次第で実りが決まる。テメエにはわかるのか? あの山から流れる水が絶えた先を、地下水で、同じような結果を出せるか?」
「出せるさ、水は水だ」
「だから浅ェって言ってんだ。テメエにはあれが完全に透明に見えんのか? 不純物が何もないと、濁りなく透き通って見えるのか?」
「……それは」
「水の本質は濁りの中にある。違うんだよ、その日、その時間、唯の一瞬も同じ水はねえ。水源が変わればその差は天地だ」
「良くなる可能性もあるだろ」
「ああ。その賭けに、テメエの命を、家を、明日生まれる一族の命を乗せられるんなら、それでいい。それを覚悟の上なら、試して見りゃいいさ」
「……」
その覚悟が、其処まで理解が及んでいないから反対の立場を取っている。それなら、そう言えばいいのに、この男は全部を言わない。
言わずとも理解しろ。何処が丸くなっただ、何も変わらない。
「あの山はこの土地に命をもたらす、神が住まう山だ」
「いきなりオカルトだな」
「ただの歴史だ。俺のじいさん、そのじいさん、さらにじいさん、もっと前の先祖がこの地に来た時、それこそ千年は前だろうな。知らんが」
「……千年、前」
「ここは争いに負けた連中が逃げ延びた先だった。それと差別の対象だった黒髪の女ども、だな。逃げて逃げて、この地に辿り着いた」
父が土を抱き、彼方を見つめる。
「彼女たちは当時、ずっと帰りたい、帰りたい、と何処にあるかも知らねえ故郷を想い、あの御山に祈っていた。帰るどころか、争いが満ちた世界だ。移動もままならん。結局彼女たちは帰れず、この地で亡くなった」
「……恨んでいただろうな。それとも最後まで故郷を、想ったか」
「だから、浅いんだよガキ。ある若い住人が女たちに聞いた。何を祈るのか、ってな。それは彼女らの子か、孫か、そういう相手だった」
父は土を掌から零し、地へと還す。
「女は言った。あなたたちの無事を、健康を、祈っている、と。若き頃に逃げ延びたこの地に根差し、家族を作り、連なりを生んだ。その連なりを、螺旋を想った。祈った。だから、俺たちは御山に祈る。この地に祈る。恵みに感謝し、永遠に、連なりが続くように、その女たちがそうしていたように」
「ただ、世間体を気にしただけの、周りに合わせただけの言葉かもしれないだろ。都合のいい、作り話かもしれない」
クルスは知っている。あの憎しみの劫火を。鏡の女王が浮かべていた、千年風化せぬ怒りを。子をなし、孫をなし、それで消えるのか。
消えるわけがない。
「知るか。そう伝わってんだよ。ずっと昔から、な。祭りも、土地への感謝を表すものだ。テメエらガキは、そんなこと考えたこともないだろうがな」
そもそも口伝が、千年も時を渡るものだろうか。
いや、
「変わりゃいいってもんじゃねえ。変わらねえから、そういうもんもある」
変わらなかったから、今日まで連なったのだ。そして今日、期せず与太話は継承された。父から、クルスへと。
「土が、畑が続いてきたのは、そういう祈りや創意工夫の賜物だ。話も、野良仕事の技も、全部クソジジイの、クソ親父の、背中から盗んだ。俺なりに随分と弄ったが、まあ半分でも伝われば充分だろ」
クルスも畑に下り、土に触れる。秋の陽気を吸収し、ほのかに温かみを持つ土、丁寧な仕事で耕され、柔らかく、それでいて粘り気があり、ほろほろと崩れる感覚。指が覚えている、これはうちの畑なのだと。
「悪かったな、継がなくて」
「端から期待してねえよ。出来損ないの半端もんが」
「……そうかい」
千年、この地に根付いてここまで連なった。与太話ではない。自分の中に、確かにその証拠は流れ、それを鏡の女王は見出したのだから。
土地と共に、思えば凄い話である。
それが変わる、発展のため、そうすべき。ただ、それは外側から見た考え方である。やはりマリウスを笑えない。
土を弄り、その連なりを想うと浮かぶのだ。
彼女たちの無念が、それ以上の――
「テメエは自分が完成したって言ったな?」
突然の父の言葉にクルスは現実に引き戻される。
「……あ、ああ」
「そんな浅ェのか、騎士ってのは」
「……浅い?」
「俺はまだ、自分が完成したとは思えねえけどな」
「……あっ」
自分の驕り、それが浮かび上がる。強くなった、結果も出した、あのソロンたちに追いついた、追い越した感覚すらある。
とんでもない苦労をしたから、辿り着いた答えに確固たる自信があったし、それ自体は間違いじゃない。
だけど、
「俺も昔はそう勘違いしたもんだ。その結果は、テメエも知ってんだろ?」
完成した、つい口を突いて出た言葉が、自分の浅さを、弱さを、映し出していた。ようやく得た答えに安堵していたのだ。
完成したと、信じたかったのだ。
「無駄話はここまでだ。さっさと俺の畑から出て、消えろ」
「……」
間違えない、じゃない。間違えていないと、思いたかった。その先を、見ようとするのが怖くて、気づけば新しい可能性の模索をやめていた。
研鑽も、自己模倣の繰り返し。
正しいかどうかはさておき、その姿勢があまりにも弱々しい。
かつての自分にすら劣る。
「……ありがとう、父さん」
クルスは歯を食いしばり、何度転んでも懲りない間抜けな自分を呪う。全然駄目だ。今の自分に満足しているようじゃ、先はない。
変わらない世界の中で、そんな中でも創意工夫はあった。連なりの中、誰もが立ち止まっていたわけじゃない。不変の世界、ずっと安寧であったわけがない。
大事なのは変わらないことではない。変わることでもない。
明日へ繋げること。
明日へ繋げるため、変わるし、変わらない。
要は――
「二度と戻ってくんな、クソガキ」
「そのつもりだ、クソ親父」
妥協なく生きること、重ねること。安心など千年早い。停滞など、五十年は早い。もっと貪欲に、もっと餓えろ、何が足りないかじゃない。
何もかもが足りない、そう思え。
この土地のように積み重ねろ。そうすれば少しは近づけるだろう。
クルス・リンザールは剣を拾い、腰に差す。
そして、前へと歩を進める。
〇
「こ、こんなにもらえません!」
兄と父の不在を見計らい、クルスは兄嫁に先日のお仕事で得た金、その大半を渡していた。国の規模からするとそれなりに豊かな国、その王女様の護衛である。普通の騎士の拘束料よりもずっと高い相場で、渡された給金。
学生扱いではなく、一応プロとしての仕事である。
一般人からすれば「はいどうぞ」で済む額ではない。
「あまり気にしないでください。本当は手切れ金のつもりだったんです」
「え?」
「全部清算して、ゼロから……でも、縁を切っても、どうしたって俺はリンザールだってわかったんで、それは別にいいかな、ってなりました」
「なら、尚更これはもらえませんよ」
「いや、まあ、もし家に何かあった時のためとか、それに、大きなお世話かもしれませんが、あの子が将来、何かに成りたいと思った時のため」
「……あっ」
「俺は幸運にも機会に恵まれました。だけど、普通はなかなかそうはいかない。まあ、身内ぐらいは選択に悩んでほしくない。別に農家が夢なら、それでいい。家でも建ててください。自分に必要な分は抜いてあるので、お気になさらず」
今の自分には不要な金である。
荷物は軽くしたい。大事なのは騎士としての自分を高めること。多くの仕事を、経験を積み重ねて、胸を張って騎士なのだと言えること。
たった一つの仕事をこなした程度、それも反省が多く完璧とは言えない。そんなもので得た金に、今の自分は価値を見出すべきじゃない。
邪魔だから、削ぐ。
削ぎ、捨てるものを押し付けているだけである。
「父も兄も、受け取ってくれないと思うので……どうか、隠し持っていてください。入学金や生活費、学費の足しぐらいにはなりますから」
「……そこまでおっしゃられるのなら」
「ありがとうございます」
「それはこちらの言葉です」
荷物を押し付けることが出来た。
これで後顧の憂いはない。思考から完全に削ぐことが出来る。
「では、行きます」
「え、でも」
「父さんや兄に畑があるように、俺もやるべきことがありますので」
軽くなった。
それでいい。今はただ、進め。
たかが野良仕事でも、積み重ねた者には滲み出すものがあった。ならば、騎士にもきっとあるはず。まずは飛び込んでみよう。
自分はまだ、迷い悩む段階にすらいないのだから――
〇
クルスはただ一度だけ振り返った。
夕焼けに燃える原っぱ、ただ黄金の穂波は刈り取られ、
「帰ってくる時期を間違えたな。もっと映える時期に来るんだった」
美しい景色ではない。
「ま、いいか」
だけど、クルスは両手で窓を作り、其処から覗き込む。遠く、父と兄が畑にいて、夕方だと言うのに畑の面倒を見ている。
よくやるよ、あの頃もそう思っていた。
その景色の中に、
「……結局、何処まで行っても、俺はゲリンゼルのクルス・リンザールだな」
あの頃の自分が重なる。
泥にまみれて、二人の背中を追っていた、騎士を知らなかった頃の自分が。
其処にいた。
〇
「クルス、帰ったって」
「そうか」
「今度帰ってきた時は仲良くしなよ、親子なんだから」
自分の後継者の頓珍漢な言葉に、彼らの父は苦笑する。
そして土を見つめながら、
「知るか」
「ったく」
ぶっきらぼうに答える。相変わらずだな、と呆れ果てる兄をよそに、父はただひたすらに土と対話していた。
もし、あれが帰ってくるとすれば負けた時だろう。
自分と同じように、
「……戦う相手は間違えるなよ、クソガキ」
其処を見誤って。
「何か言った?」
「この辺、もうちょい撒け。テメエはいつも詰めが甘いんだよ」
いつもと違う、昔の貌。
「……やっぱ少し妬けるなぁ」
「気持ち悪ぃ。さっさと手を動かせ。人の親がガキのままでどうする」
「はーい」
騎士の世界は知らない。だが、其処にはきっとこことは比較にならぬほどの勝ち負けが横たわり、それが歩みを惑わすのだろう。
真っすぐ歩くのは至難の業。
成らず者か、ひとかどの存在と成るか、どちらにせよ、それを自分が目撃することはない。道を見誤り、勝ち負けに拘泥し、負けて、失い、そして何だかんだと今に至る。何となく最近、わかるようになってきたのだ。
遅まきながら――だから、終わりも見える。
まあ、それでいい。我はとうに、消えたから。
〇
列車に揺られながら、クルスはまどろみの中で昨日を見る。
大嫌いな作業、便所から便を運び、肥溜めへと入れる。自分の、家族の、とは言え糞尿である。臭いし、いい気分になる者はいないだろう。
案の定、思い出の中の自分は不貞腐れていた。
『クソガキ、よぉく目を凝らせ。鼻を研ぎ澄ませろ。耳をそばだてろ。腐り具合を見逃すな。時には、こうして触れて確認しろ』
『うげえ、いやだよ。クソだまりにゆびつっこむなんて』
『クソ様だ。クソの役にも立ってから一丁前の口を利け』
『うう』
ほのかに温かい、発酵の証。
『五感全部使って、最適な機を見計らう。春夏秋冬、毎年異なる機を、旬を逃すな。集中して、向き合えば見えてくる』
『くっせえ』
『集中しろ!』
『いだっ⁉ あああ、とーちゃんがぶった! クソにさわった手で!』
『よかったな、クソガキ』
『ああああああ!』
『ぎゃはははは!』
クルスは眼を見開き、顔を全力で歪める。
「……クソが」
やっぱろくな思い出がねえ、と苦笑しながら、
「……もう、何の匂いもしねえな」
指の匂いを確認し、
「……」
もう一度夢に戻る。
今、自分がいるべき場所へ向かいながら――
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