第218話:選べる道は一つだけ
「じゃあ」
「ああ」
早朝、見送りはクルス一人だけ。と言うかイールファナがアマルティアでは起きられないであろう便を取ったのだ。そうは言っても昨日、絶対に起きて見せると豪語していたが、実家のベッドは寝心地が良かった模様。
それも彼女の計算通りなのだろう。
なるべく面倒をかけない。来る時もしれっと、去る時も同じ。
「私もクルスも自分の選んだ道を歩いている」
「突然どうした?」
「でも、それは実家の、親の干渉がないから」
この時点で、
「……どっちだ?」
彼女が何を言いたいのかクルスは察した。
「わかっているくせに」
「わかったよ。それとなくフォローしておく」
「ん。一宿一飯の恩義」
「一宿でも一飯でもないがな」
「任せた」
「任された」
言葉少なく、それでも彼女は周りに気を遣う。時に病的なほどに。その原因をクルスは知らない。あえてそれを聞こうとも思わない。
それはきっと、自分が触れられたくないものと同じだろうから。
彼女が其処に触れないように、自分もまたそうする。
ただ、
「そうだ」
「なに?」
「自分の家じゃなくて悪いが……いってらっしゃい」
「……むう。ここには帰らないけど……いってきます」
欲しい言葉くらいは何となくわかる。だから、投げかけた。
只の言葉、減るものではないから。
○
「ところでうちの子どうかしら?」
夕食時、毎度おなじみアマルティア母の売り込み。イールファナがいなくなったからか、昨日までより少し圧が強めである。
もはやいつものこと過ぎてアマルティアやソフィアの反応も薄い。
上手いこと言って誤魔化すのがわかり切っているから。
しかし、
「遠慮しておきます」
クルスは少しばかり角の立つ形の、正面からの断りの言葉を入れる。
アマルティア母は少し驚き、父の方は笑顔のまま――されど圧がまとわりつく。言葉を選びなさい、と言われているような気がした。
何よりもそれを言われたアマルティアの貌が――
「アマルティアさんは何処かの家に嫁ぎ、家の中に入るよりもやりたいことがあるように見受けられますので」
歪む前にクルスは二の句を続ける。
それは、
「趣味と『仕事』は、天秤にかけられないと思いますがね」
「仕事と仕事、と存じます」
アマルティアを別の意味で驚かせた。
「過ぎた発言だと自覚していますか?」
「ええ。ですが、彼女の本気を知るがゆえ、せっかく我が道を見出しているのに、誰にでもできる仕事を任せるのは、少々もったいないと感じ、僭越ながら意見させていただきました。無礼は承知の上です」
イリオス王国、王に次ぐ実力者と言っても過言ではない相手。出入り口の警備をする騎士や使用人たちは息を呑む。
この男、目の前の大人物が怖くないのか、と。
「結婚が誰にでもできる仕事であると?」
「失言でした。ディクテオンの血を引く高貴な御方なら誰でも、とするべきでしたね。ですが、彼女はそれ以上の価値を生み出せると思いますよ。イリオス出身、アスガルド卒の、その道の史に名を遺す偉人と成れば……どこぞの家に入るよりもずっと、大きな価値を生むでしょう?」
「……それほどの価値がありますか? 道楽にしか見えませんがねえ」
「ここ百年で学問はあらゆる分野に枝分かれしています。物理、化学、魔導、経済や経営まで学ぶための学び舎が作られ始めています。ならば、生物学の一分野として、彼女の愛するものが胸を張れるものになる日もあるかもしれません」
「かも、ですか」
「ええ。かも、です。それに、其処に価値があるかどうかのプレゼンは、門外漢の私ではなくその道を志す者の言葉の方が良いでしょう」
クルスは無礼を承知で、危険を承知で踏み込み、場作りをした。
あとは、
「あ、あの、お父様」
「なんですか?」
「私、マスターの、ううん、クルスの言う通り、結婚して家に入るんじゃなくて、もっと蝶のことが知りたいの。いろんな場所に行って、色んな蝶に出会って、まだ見ぬ蝶を見つけて、彼らがどんな世界で生きているのか、もっと知りたい。もっと見たい。もっと触りたい。もっと、もっと――」
「……ふむ」
アマルティア・ディクテオンが父に、母に、家族に、家にぶつかるだけ。彼女はずっと言えなかったのだろう。イールファナ協力のもと論文を仕上げ、自分の進みたい道の高等教育が受けられる、研究者となる道まで見出していた。
それでも自信がなかったのだ。
自分が貴族の女であり、政略の道具となるべきだと思っていたから。ぶつかるのが怖かった。それで道を断たれ、現実を知るのが怖かった。
彼女は必死に、自分のやりたいことを家族に伝える。口下手で、何ともたどたどしいが、それでも熱意と必死さは伝わる。
自分にできるのはここまで。価値創出の種蒔きはした。要は結婚で得る伝手よりも研究者の方が価値を生み出せる、そう判断させればいい。
あとは大貴族の当主が二つの道を天秤にかけるだけ。
其処の判断を違える人物ではないだろう。そもそも、其処に大きな価値を見出せる存在なら、冗談でもクルスへ売りつけようなどしない。
勝算はあった。あとは覚悟だけ。
クルスはただ、少しばかり危険を冒し彼女の背中を押した。
それだけのこと。
(……ふー、怖ぇよ、アマルティア父)
実はちょっと怖かったのは内緒である。
○
その日の深夜、
「あ、あの、クルス。まだ起きていますか?」
ベッドの上でストレッチ中のクルスに、扉の向こうから声がかけられた。
「起きているよ。どうぞ」
声の主はアマルティア。普段の彼女ならとっくにすやすやとお休みの時間である。用件はまあ、さすがに察しはつく。
「ううん。このままで」
「そうか」
扉で互いの表情は見えない。まあクルスはいつも通りであるが、神妙な面持ちのアマルティアと言うのはどうにも想像がつかなかった。
「さっきは、ありがとう」
「礼を言うなら俺じゃない。進路の相談に乗ったのも、論文の添削をしたのも、背中を押してやれ、と俺に依頼したのも全部ファナだ」
「うん、知ってた」
「なら、話はこれで終わり。上手くまとまりそうで良かった。やはりひとかどの人物は違うな。なんだかんだと柔軟な思考をお持ちだよ」
「でも、家のこととか国のことは、怖い人だよ、お父様は」
「だろうな」
「だから、クルスもありがとう」
「ま、どういたしまして。ファナの十分の一くらいは感謝を受け取っておくよ」
「うん」
どうにもしっくりこない。間も、話し方も、いつもの彼女ではない。そもそも名前呼びされるのもむずむずしてしまう。
「ソフィーも喜んでくれた」
「誰だってそうだ。普段の様子とここでの情熱を見たら。世の中適材適所、家の中で終わらせるにはもったいない」
「ありがとう」
「どうも。今日はよく感謝される日だ」
「クルスは優しいね」
「……どうかな。どちらかと言えば薄情な方だよ、俺は」
それは謙遜ではなく、本気の自己分析であった。本当に優しければ、自分はきっとフィンブルでクロイツェルらに逆らい、無辜の民を救おうとして命を散らせている。彼らの命、自分の命、そして彼我の戦力差。
秤にかけ、無辜の民を斬った者が果たして優しいと言えるだろうか。
あれだけのことをした。フィンブルだけではなく他にも多くの人を斬った。二度と笑うまい、あの時は本気でそう思っていたのだ。
だけどその覚悟は一年持たず、あの日の痛みは徐々に風化している。自らの完成に歓喜し、少しばかり頭の中から消える程度には薄れてしまった。
どこまで行っても自分中心、そんな己が優しいのだろうか。
彼女は大事な友人で、同じく大事な友人から頼まれたから危ない橋を渡った。けれど、これが赤の他人なら、クルスは絶対にそのリスクを取らない。
それが優しいと、言えるのだろうか。
「私はそう思わない」
「……」
「ねえ、クルス」
「……なんだ?」
「実はね、結婚もいいなぁ、って思っていたんだ」
「……それは悪いことしたな。俺とファナの早とちりだったか」
「ううん。勝ち目、初めからないから」
「……」
「えへへ、バレちゃった」
「……勘違いだ。俺は、そうじゃない。選ぶとか勝つとか、其処に立ってすらいないんだよ、俺は。まだ何者でもない。そして、器足らずの俺が何かに成ろうとしたら、そういうの全部、捨てないといけないから」
「ほら、優しい」
「……」
「でも、甘えるね。今のがほんとだって、信じるね」
「……ああ」
「そのおかげでね、私は迷わずにこっちの道、行けると思うから」
扉の向こうから気配が消える。クルスはため息をつき、ベッドの上に横たわる。さすがの朴念仁も今のやり取りの意味はわかる。
彼女の言葉の意味を取り違えるほど、馬鹿ではない。
(またしても千載一遇の好機だったぞ、クルス・リンザール)
自らの言葉に自嘲し、クルスは眼を瞑る。ミラにしろ、アマルティアにしろ、自分のような者の何処が良いのかが理解できない。
今日は悪夢が良い。とびきりの、昨年の地獄が良い。
風化せぬように、刻み付けてほしい。
自分の犯した罪を見つめるために。自分が何者かを忘れぬために。
自分は剣を選んだのだ。
剣に生きると決めたのだ。
だから――
○
「今日もちょうちょ観察の旅に出ますよー」
「おー!」
「マスターも声出してくださーい」
「おー」
「元気が足りませーん!」
「おー!」
翌日にはすっかりと調子を取り戻し、ソフィア姫を従えて天真爛漫にちょうちょを追いかけるアマルティアの姿があった。
優しいのはどっちだ、とクルスは苦く微笑む。
もうすぐディクテオン領での生活も終わりを告げる。自らのために選んだ仕事、自分に箔をつけるための、重要な局面が訪れるのだ。
其処で待つ戦い、邂逅、今はまだ想像もつかない。
悪夢など見る必要がないのだ。
悪夢のような現実はその辺にいくらでも転がっているのだから――
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