第202話:ゼロを掲げよ

 水は恐ろしい。

 あのゲリンゼルを通る小川ですら、雨期に増水した時には畑に大きな被害が出ることもある。土嚢などを用意し、必死に自然と抗うも最後には敗れ去り、ひざを折る大人たちの姿を、十年もあそこにいれば一度は目にする。

 もっと大きな川となれば、その被害はより大きなものとなる。


 水がなければ生きられない。

 時に畑を水浸しにし、人の生きる糧を奪う水であるが、同時にそれなしでは畑に作物は実らないのもまた当然の摂理。食物を育てるにも、飲み水として活用するにも、結局のところ隣り合わねばならないのだ。

 水を隣人に選ぶのは常に人であり動植物である。


 そう、水はただ、其処に在るだけ。

 其処を流れるだけ――


     ○


 疲労の極致に掴んだ感覚。仕切り直したことで息を入れることが出来た。だが、体力が完全に戻ったわけでもない。

 確かにクルスの辿り着いた剣は見た目に反し、全てが受け身で相手の力に依存した動きであるため体力の消費は少ない。押された方に流れ、遮られた方の逆へ行く。が、やはりそこは人の体、完全に全てをそれで賄うのは不可能。

 水たらんとするなら、自らの力も寄与せねばならない。

 その一つ一つが、元々底を突いた状況で得た一呼吸分を容赦なく削る。

(クソ、足も……徐々に)

 全身をコントロールし、人の動きを超えてこその水。徐々に制御を失っていく身体に、クルスは内心焦りを覚えていた。

 体力が底を突き、水を、ゼロを維持できなくなった時点で敗北が決定する。

 もう逆転はない。

 そして、眼前の化け物にそれが尽きる兆候はなかった。

 先ほどまでとは種類の違う笑顔を浮かべ、嬉々として攻め寄せてくる。

 相手のゴールは見えない。

 自分のゴールは見えている。

 だが、

「……」

 クルス・リンザールは眉一つ揺らがせず、温度を失った鉄の仮面をかぶりながら、ただひたすらに今出来ることを成していた。

 疲労した部位に代替可能な部位があれば、あえてそちらを使うような動きを取る。さながらベンチプレスで胸が耐えられなくなった際、肩や三頭筋の寄与を強める挙上を取る、と言ったところか。

 怪我の元となる非推奨動作であるが、今必要なことであれば躊躇いなくそうする。

 今の自分なら届く。

 真の姿を見せ、全てをさらけ出した怪物にも勝てる。

 水で在り続ける限り、己が負けることはない。


     ○


「執念を捨ててなお、身体に染みついたそれが奮い立たせるか」

 ウーゼルは腕を組みながら相好を崩す。人の成長とは恐ろしい。二年前に出会った彼は、とてもこの領域に至るような気配すらなかった。

 友の弟子、影響を受けた騎士の卵。

 それが今、『騎士』と成った。

 かつて友が呪った不公平。騎士を望むも足りぬ者がいる。それと同時に騎士を望まずとも満ち足りるが故に駆り出される者もいる。

 その二つに対するアンサー、それが今の彼なのかもしれない。

 百年前の答え、それが――

(卿はどう見る? この『騎士』を)

 あの男にはどう映るのか、少しばかり気になってしまう。

 憎悪の、絶望の代弁者たるもう一つの世界をただ一人で担う騎士の目には――

「……」

 クルス・リンザールはどう見えているのだろうか。

「どちらが勝つと思われますか、マスター・ゴエティア」

「……体力の差、経験の差、拮抗している以上答えは明白でしょう」

「では、やはり――」

 レオポルドは静かに席を立つ。

 もう結果は見えた。

 見るべきものはない、と言わんばかりに。


     ○


「やはりソロンの壁は厚いか」

 オフバランスの動きに精通し、その上で会場屈指の実力者であるテラが小さくつぶやいた。乱れはない。恐ろしいほどに安定している、ように見える。

 だが、それはやはり誤魔化しでしかないのだ。

 徐々に、再び限界が迫ってきていた。それがかすかに、ほんのかすかにムーブメントの中にも表れ始めている。

 見極められる者はそう多くないだろう。

 それでも、いずれ明らかになる。

「……どっちでもいいよ。んなこと」

「……ノア?」

 ノアは歯噛みし、悔しがっていた。ソロンの貌を見ればすぐにわかる。自分に向けられた感情との違いが。クルスと己の違い、ソロンの琴線の違いは未だによくわからない。わからないし、少しずつどうでもよくなってきた。

 冷静になり、『敵』の戦力が明らかになるにつれ、少しずつ湧き上がってくる感情。そう言えば今まで、ただの一度だってなかった。

 劣っていた頃は人の底辺。其処から彼はソロンを頂点とする世代のてっぺんまで一気に駆け上がった。其処からは常に、内心評価紙一重で二番手を維持。

 そう、

「すぐぶち抜いてやる、秒でな」

 ノア・エウエノルの人生において、彼はただの一度も抜かれたことがなかったのだ。誰よりも速く駆け上がり、頂点付近を満喫していたから。

 敗れたことはある。でも、それは皆先んじていた者たち。自分の速さで歩けば、まあいつかは追いつく。抜ける。そう感じていた。

 問題は、後方から抜かれたことが無い、と言うこと。

 気づいてしまった。今のクルス相手に自分の速さは通じない。厳密には通じないわけではないが、崩し切る前におそらく自分の方が先に尽きる。

 その計算が出来てしまった。わかってしまった。

 あの時、抜かれた感覚。それが言語化できてしまった。

 だから、沸き立つ。

「俺は、ノア・エウエノルだ」

 真の天才、その感情が――


     ○


 その時は突然訪れた。

 体力が底を突き、力なく崩れ落ちる挑戦者。

 ではなく――


「……?」


 輝ける男の膝が、揺らぐ。

 万を支配し、あらゆる型に応じ、あらゆる局面に対応する。万難をももろともせず、優位を取り続ける男であった。

 僅かな欠け程度なら、今までの学びを活かして即修正。ゆえに欠点はない。ありえない。完璧な男であるはずだった。

 しかし、唯一、唯一足りぬものがあったのだ。

 自分が底を突くと言う苦境。それに対する経験値。

 負けたことがない。全てに先回りしてきたから。

「あ、れ?」

 全てを出し尽くしたことがない。少なくとも実戦では。

 その欠けが、

「……ッ!」

 拮抗した戦い、その趨勢を分ける。

 慣れぬパンクラチオン、執念の男脅威のクソ粘りによる蓄積、そして慣れぬ全力での猛攻による攻め疲れ、今まであり得なかった状況の連続。とは言えクルスはかつてディンとやり合った時以上に削れているが、ソロンはディンほどにも削れていない。

 それでも先に揺らいだのはソロン。

 負けを知らず、苦境を知らない。その地獄で膝を支える地金を鍛える経験が、彼には圧倒的に足りなかった。

 個人の努力では到達できぬ地獄がこの世にはある。血がにじむほどの努力の果てに、それでも届かず、この世のものとは思えぬ苦みを得て初めて、

「待った、まだ、俺は――」

 地獄でも動ける身体を得ることが出来る。

 僅かな揺らぎ。されど、この二人の戦いからすれば大き過ぎる隙。その刹那、クルス・リンザールは気迫の踏み込みを見せた。

 すでに水たり得ぬ方の足をソロンの揺らいだ方の足、そちらへ差し込み重さを預けた。疲労した足へ楔を打ち込む。

 立て直させない。

 ここで決める。

 あの日、友と見た地獄。その経験がクルスを突き動かす。

 足はもう水を維持できない。なら、其処には捨てた執念を込めて立ち塞がる。

 そして――

「クルスッ!」

「……」

 維持できる上半身は、そのまま水と化し完全であった男の不完全な体勢から放たれた、間合いを求める甘えた一撃に対しまとわりつくように間を詰めながら流す。

 不完全な一撃で流れる方向を変えてやるほど、この小川は甘くない。

 これで出し切った。

 あとは、

「俺の――」

 人で良い。

 クルスはソロンの一撃を受け流しながら、あとは自然な流れに沿って体を預けた。疲労困憊、下半身はものの見事に限界に達していた。

 だが、構わない。

 もう輝ける男は、先ほどまでの超人的な身体能力を有していないから。クルスの水を支えるのが完全な体のコントロールであるように、輝ける男の超人を完璧を支えるのもまたそれであるのだ。

 それが欠けた今、高々人間一人分、両の足ですら支えきれない。

 そのまま押し倒し、

「――勝ちだッ!」

 クルス・リンザールは騎士剣を舞台の上に突き立てる。

 その横には、

「……」

 唖然とするソロン・グローリーの首があった。

 頂点が、太陽が、墜ちる。

 墜とすは小さな、ちっぽけな、小川。

「しょ、勝負ありッ! 勝者――」

 一瞬の静寂、そして次の瞬間、審判が勝者を告げる声をかき消すほどの大歓声が舞台の上に降り注いだ。

 世界が揺れる。

 世界をひっくり返した。

 其の男の名は――

「……」

 『無名』、クルス・リンザール。

 何者でもなかった男は今日、太陽を墜とした男となった。

 男は剣から手を離し、自らの掌の上を見つめる。其処には何もない。ただ虚空のみがある。それでも男はそれを微笑みながらいとおしげに握りしめ、

「……」

 何も言わずにそれを天に掲げた。

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