第198話:総合格闘技
「よしッ!」
画面に映るはアスガルドの代表が、世代最強の三強を押し倒した姿。誰もが想像すらできなかったことを、自分たちの代表がやってのけたのだ。
「クレンツェ!」
「ああ。まさにここぞ、だ! ログレスにパンクラを学ぶ環境はない。クソ、これは俺が思いつくべき戦法だったろうに。嬉しいやら情けないやら」
「ぐちぐちうるさい! 今、いいとこでしょ!」
「す、すまん」
ミラの一喝にディンは肩を落とす。
彼女の言う通り、この場の誰もが食い入るようにそれを見つめていた。誰もが考え付かない方法で、最強の敵を追い詰めた。
誰もが拳を強く握り込む。
ここだ、一学年の子でもわかる勝負の分かれ目が、早速訪れた。
○
マウントポジション、相手を寝かした上で自由を奪い、一方的に攻撃できる状況である。見た目通り圧倒的に有利であり、この状況を作れた時点で優勢であると言える。相手は三強、誰もが想像すらしていなかった男の劣勢に、
「おおおおおおおッ!」
観客が沸いた。
開戦までは戸惑いの方が大きかった。開戦後は息つく間もなくクルスが奇襲を仕掛け、ソロンが勝ったと誰もが思った瞬間、全てが引っ繰り返った。
これで盛り上がるな、と言う方が難しい。
「は、初めて見たぞ、ソロンが尻もちついたところなんて」
「……俺もだよ」
テラ、そしてライバルであるはずのノアですら見たことのない状況。あのソロンが、誰もが膝を屈するところすら想像もできない男が、今は馬乗りにされ劣勢に追いやられている。信じ難い光景、あの男の絶対的な強さを知る者ほど、
「し、信じられん」
その光景に絶句する。ログレス勢の驚きはあまりにも大きい。
ほんの一筋の勝ち筋、たった一度きり、二度はない絶好機にクルスは容赦なく寝技状態での拳打、パウンドを放つ。
歓声と同時の行動。この勝機を逃がすまいとクルスも必死である。
拳を打ち下ろす。
しかし、
「当たった!」
「い、いや――」
圧倒的有利ポジションからの拳が当たらない。
「ぜ、全部、かわしている」
首、厳密には鎖骨から上の可動だけでクルスの拳をかわす。恐るべき精度のスリッピングアウェー、かつて拳闘の大会で示した実力を改めて示す。
倒れてもソロンである、と。
(それも知っているよ、天才)
が、拳はブラフ。自分に出来ることはソロンにも出来る。正直、自分もマウントポジションだけならばそれほど怖いと思ったことはない。
打ち下ろしの拳は見えやすく単調になりがち。間違えなければクリーンヒットはない。自分がそう思うならソロンもそう思う。
ゆえに、
「そう来たか」
クルスはソロンの右腕を狙った。剣を持つ方、それを極めてソロンからまずは武器を奪う。剣さえ奪えば寝ている限りパンクラチオンの土俵で戦える。
その仕掛けに対しソロンは、
「なら、俺はこうしよう」
「ちっ」
クルスが奪おうとするより早く、剣を手放した。体をエビ反りに、相手のマウントを解除するかのような動きと同時に、右腕を極めるために解放した左手をクルスの動きに介入させる。そうすることで、関節技が成立しなくなる。
さらに空けた右手もクルスの動きを阻害するよう、動く。
(それも、想定の範囲内だッ!)
ならば、と足を取りに行くクルスに対し、ソロンもまたその技に対する正しい解法を出し、上手く応じてくる。
極めたいクルス、極めさせないソロン。
幾重にも攻防が重なり、絡まる。
「面白いね、パンクラチオンは」
「……こい、つ」
主導権を握っているのは自分のはず。
されど、ソロンは笑顔を崩さない。何よりも知識ゲーであるはずの寝技、グラウンドでの攻防、知らなければどうしようもないと言うのに、ソロンは常に正解を返してくるのだ。間違いなく彼はパンクラを知っている。
この状況すら掌の上なのか、一抹の不安がよぎる。
だが、ここで決め切らねば勝機はない。
不退転の覚悟で技を出し惜しみなく切っていく。
○
「……応手を間違えない。さすがグローリーだ、パンクラチオンも完璧か」
デリングは憎たらしいほどに完璧な男、その戦いぶりに感嘆するしかなかった。クルスが誰もが想像すらしなかった剣闘の試合での徒手格闘を出した時は、そう来たか、と唸った。これ以上はない、そう思った。
だが、あの男は寝技すら完璧であったのだ。
「いや、完璧なのは知識だけだ」
ディンはデリングの言葉を否定する。
ただ、表情は彼よりも曇っていたが――
「……どういうことだ?」
「知識として網羅しているのはさすがだが、実戦で運用する機会はなかったんだろう。あれだけの体格差があるのに、基本的にソロンが後手だ。対応も、拳闘に比べたらワンテンポ遅い。完璧に仕上げた状態なら、とっくにクルスはやられているよ」
「……それで、あれか」
「だから、あいつは輝ける男なのさ」
知識だけは備えていた。教科書だけは頭に入っていた。それで即座に実戦で運用できるのは、イメージと体の動きが完全に一致しているから、なのだろう。思考の通りに体が動く、寸分の狂いなくそれが出来る。
だから、未経験でもあそこまでやれるのだ。
全ては完璧な知識ありきの話だが。
○
攻防を重ねるごとに、徐々にソロンは足りなかった経験値を補っていく。急速に、知識と経験が結び付き、欠けが、穴が、消えていく。
勝機もまた――
「まったく……私たちにとって憧れの舞台で、先にパンクラをやるんじゃない」
エフィムは十年に一度、拳闘士にしか開かれぬ大舞台で、自分たちが夢想していたパンクラチオンをやる二人に少しばかり嫉妬していた。
どちらもプロから見れば技術的には粗がある。専門家の最先端と市井の先端はまるで違う。経験はもちろん、技術もまだまだ。
それでもいい試合であった。
徒手格闘のプロから見てもそう思う。
ただ、終わりも見えてきた。
経験が、技術が拮抗した場合、勝負を分けるのはいつだって『フィジカル』であった。フレームも、ウェイトも、これだけ差がある。
徒手格闘の世界は騎士の世界以上に――
「そろそろ、かな」
「ぐ、お」
肉体の強さと魔力の量、それがものを言うのだ。
もう技術合戦は十分堪能した、とばかりにソロンは腕と体幹の筋肉を総動員し、それらに魔力を張り巡らせ、不利な体勢から一気に立ち上がろうとする。
クルスが全体重をかけているのに、それごと上げる勢い。
腕を自由にした時点で、クルスにソロンを地面へと縫い留める『力』がなかった。技術以前の、闘争における根っこ。
パワーはすべてを凌駕する。
別にソロン自体、突き抜けた肉体を持つわけでも、ずば抜けた魔力量を持つわけでもない。単純な肉体の強度、素養だけならディンやアンディ、この大会で言えばイネインのフリードらの方が上だろう。魔力量もまた豊富ではあるが、ノア、フレイヤはもちろん、イールファスよりも少しばかり下である。
だが、合理的に、徹底的に、微塵の隙も無く鍛え上げた肉体と精緻なる魔力のコントロール、それによって弾き出される総合力において、ソロンは他の追随を許さない。そういう意味で彼は特別であって特別ではない、最強の男であるのだ。
努力の天才、それが今、不条理を成す。
「まだ、だァ!」
しかし、クルスは諦めない。この程度の不条理などいくらでも経験してきた。今更、差を見せつけられた程度では揺らがない。
相手が力で来るなら、こちらもそうする。
ただし、
「くた、ばれ」
「……ク、ルス」
あらゆるものを利用させてもらうが。
クルスが仕掛けた技、それはパンクラチオンではなかった。
「執念、だね。あの時の君とは違う、勝負の時の貌、か」
自分が対峙したクルスと今のクルスは重ならない。ただ、エフィムはわからなくなってしまう。あの時の彼、あの道の先が最高だと思ったのだが、この執念を前にするとその確信が揺らぐ。
勝ち負けにこだわるクルス・リンザールは間違いなく強いのだ。
勝負師たちですら慄くほどに、その執念の熱量は凄まじい。
「ぐ、ぅぅうう」
「……」
基本裸体で行うパンクラチオンではあり得ない『武器』、服を用いた必殺の一手。手段は選ばない。矜持はあっても、それに固執する気もない。
何でもやる。勝つためならば――
クルスはソロンの襟をつかみ、そのまま頸部を締め上げる。腕を十字にすることからのちにクロスチョークと呼ばれるようになる技、衣服を着用した徒手格闘での基本戦術となるそれは、このミズガルズでの発明者はクルスとなる。
彼の執念が、勝利のため藁にも縋る想いが、その技を成立させた。
輝ける男に尻もちをつかせ、あまつさえ今窒息寸前まで追い詰めた。
剣闘の試合、褒められた戦い方ではないのかもしれない。美しくない、そう言われても仕方がない。クルス自身そう思う。
これが紳士的か、と言われたなら、クルスは「そうだ」などと言えない。
それでもやる。
勝たなきゃ自分には何もない。その強迫観念じみた執念が、彼の武器。
唯一、それだけを持って彼はここまで来た。
「……大した奴だよ、クルス」
ノアはクルスへ賛辞を贈る。レムリアはパンクラチオンが盛んである。自分も、ヘレナも、ジェームズも、他の御三家が拳闘を教わるのと同じ密度で、その技術を学んだ。だと言うのに、彼らにはあの戦い方は微塵も浮かんでいなかった。
剣を捨ててでも勝つ。
泥臭くても勝つ。
格好悪くても勝つ。
そんな彼の姿を、ノアは格好いいと思ってしまった。
だからこそ彼は少しだけ目を伏せ、
「……ここまでだ」
そう言った。
視点は舞台へ戻り、
「さっさと、諦めろよ、ソロン」
クルスの狙いは、頸部を極めている腕を外すためソロンが今の無茶な姿勢の支えとしている腕を使うこと。それにより再度倒れグラウンド状態が継続する、寝技勝負を続けることが出来る、そのための仕掛けであった。
寝ても苦しいが、立つよりもずっと勝機はある。
あと少し、試したいコンビネーションもある。勝つなら天才を地に落とした状態、それしかないのだとクルスは自分に言い聞かせた。
立つことを諦めさせる、そのためのクロスチョーク。
ソロンは、笑みを浮かべたまま――
「それでいい」
十字に極めたクルスの腕、その拘束を外すため腕を使った。その時点で彼は立つための支えを失った。この中途半端な状態ではどうしようもない。
まだ勝機はある。
そう、クルスは思った。
思ったのも、束の間――
「……な、んで――」
クルスは気づいた。目の前の天才は何一つ、諦めていなかったのだと。腕を外すこと、そして立つこと、この二つは両立する。
圧倒的力の差で、無理やりクルスの十字を崩す。これは想定内、ソロンの膂力ならこのぐらいはやれる。
だけど、
「――だよ」
そのまま立つのは聞いていない。
体幹だけで二人分の体重を持ち上げるような、あまりにも非合理的な光景。歓声が消える。クルスの顔色もまた一気に消える。
「ふぅ……ほんの少しでも君を疑った俺を許してくれ。君はやはり最高だ。君は絶対に諦めない。だから、俺も全力を出せるッ!」
姿勢が徐々に上向く。ただただ、力ずくで。クルスはそうはさせじとソロンの足を刈る。押す力は弱まれど、片足を欠けばさすがのソロンも――
「言ったろう? 全力だ、と」
「……化け物め」
それでもなお、立つ。
不利な姿勢、相手の体重もかかっている。さらに片足。
「酷いな。少し恵まれただけの、普通の人間だよ、俺は」
それでも、立った。
クルスは茫然と、ただ立ち尽くす。手札を失った。間違いなく千載一遇の勝機で、唯一無二のチャンスに全力を投じた。
最善を尽くした。
でも、届かなかった。それはつまり――
「さあ、仕切り直し、だ!」
掴んだ腕をそのままに、ソロンはクルスをぶん投げた。そのまま場外へ放り投げることも出来ただろうに、あえてその地点へ、クルスの剣が横たわる場所へ投げ落とす。さあ、それを握って戦おう、そう強いられているように感じる。
クルスは悔しさに歯を食いしばった。
ソロンもまた悠然と、自分が捨てた剣の下へ足を運び、それを器用に蹴り上げて、華麗に騎士の魂である剣をその手に取り戻した。
クルスは歯噛みしながら、地に落ちた剣を握りしめ、立ち上がる。
万に一つの勝機は消えた。
そんなこと、対峙するクルスが一番よくわかっている。そもそも、あれだけやって勝てなかった、勝ち切れなかったのは、今の一連の流れは勝機ではなかったということ。ゴールに見えただけ、ただの陽炎でしかなかった。
それでも――
「まだやれるだろう、クルス」
「……当たり前だ」
クルス・リンザールは諦めない。
歯を食いしばり、今出来る最善を成す。
より深く後傾し、少しでも前面の捌き代を残す。当然、姿勢が悪く捌きは難しくなるが、それでもやらねば万に一つの勝ち目すらない。
執念の戦型、である。
「そう来なくては。この遊び場を用意した甲斐がない」
「……来いッ!」
万策尽きてなお、諦める気はない。
勝負の決する最後の一瞬まで抗い続ける。
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