第118話:まちびと
クルス・リンザールの前期の成績は騎士科九位に収まった。
最も比重の重い剣闘の講義でアンディにヴァルごとぶち抜かれてしまったが、座学を含めた他の講義で上回った形。これはヴァルも同じである。
去年は座学で順位を十以上落とした男が、今年は座学で踏ん張ったのだから大したものである。座学は基本ペーパーテストであり、どの講義も平均六割ほどになるよう作られている。難関は算術、魔導などの基礎科目。何しろ競争相手が騎士科のみならず貴族科、魔法科も相手となるのだ。特に後者は皆、研究職を目指すような者たちばかり。彼ら基準の問題もあるのだから満点は難しい。
三科全てで解ける基礎問題が五割、二科の成績優秀者が解けるような応用問題が三割、残り二割は魔法科の連中仕様の問題、これが基礎科目のテストとなる。
クルスは今回、かなり座学に力を入れていた。比重は大きくなくとも、成績上位者は皆騎士科のみの講義なら九割近く取るし、基礎科目でも八割近くはしっかり確保してくる。上位の成績を保持するなら、それぐらいは必須となる。
「……」
その基準は当然取る。しかし、さらにクルスが目を付けたのは、基礎科目における魔法科専用の問題群、である。ここはもう、騎士科も貴族科も取れないものと諦めている。要領が良いディンやミラたちはもちろん、真面目なフレイヤやデリングでさえ費用対効果が悪過ぎて其処までは網羅していない。
だからこそ、其処を取る意味が出てくる。
悔しいのは――
「……フラウと、リリアン、か」
同じ考えの者がいたこと。新旧座学の女王がクルスの前に立ちはだかった。今回、昨年からぐんぐんと成績を伸ばすリリアンが新女王としてフラウと争い、フラウが意地でトップを取り返した。フラウが一位、リリアンが二位。
そしてクルスが三位。昨年ビリッケツの男が三位にまでジャンプアップ、誰もが驚きの成果である。先生方は皆、クルスのことを褒めていた。
ただ、クルスの顔に笑みはない。今は一人だから、笑う必要がない。あるのはただ悔しさだけ。元々学力に差があるとは言え、それでも本気でトップを取るためにかなりのリソースを座学に割いた。と言うよりも色々と行き詰った今、座学にすがるしかなくなった、と言うのも正しいのだが。
それでも勝つ自信はあった。例年通りなら、一等賞を得られていたはず。実際に基礎科目の魔法科用の問題など、騎士科の面々は手も付けないのが普通であったのだ。しかし、今回は三人が其処に着手した。
「……くそ」
手応えはあった。その上で上回られた。それもこれも上も下も大荒れなのが原因である。少しでも成績の足しにしようと皆、座学を頑張った。上位勢はほとんど座学に差はなく、取れる問題は落とさない。もはや中位と下位の区別はなく、全員当たり前のように平均六割を想定して作られたテストを八割近く取って来る。
座学が足を引っ張ったアンディでさえ、ほとんどの講義で七割近く取っている異常事態。これに関してはどの先生も驚愕していた。
この学年は異常だと。
高いモチベーションと実力が拮抗していることによる危機感。クルスだけではなく皆が必死に、競争から振り落とされぬよう努力している。
出来ない者はいない。忘れがちだが、ここは御三家である。全員が天才なのだ。本当の意味で凡人などこの学校には一人もいない。
それはクルスとて例外ではないのだが――
「……次は、必ず二人を越えて見せる」
結局比べるのは良くも悪くも自分の周りであり、そんなものは何の慰めにもならない。そも、そう言う天才同士の競争こそが名門の存在意義。
環境が人を造る。必死になった者たちが死に物狂いで競い合う環境は、もしかするとミズガルズでも最高のものなのかもしれない。
中にいる者にとっては地獄だが。
今、クルスは隣国の拳闘大会に向かうため駅へ足を向けていた。前期の結果は終わったもの。大事なのはここから。とにかく今回の目的は実績を作ること。
結果を出す。そのための旅である。
早朝、クルスは足早に駅へ向かっていた。出来れば今は誰にも会いたくない。
特に――
「あーら、ごきげんよう。朝早くから急いでどこに行くの?」
彼女には、会いたくなかった。
「おはよう、ミラ。君こそこんな朝早くからどうしたんだい?」
同じ拳闘倶楽部に所属するミラ・メルが駅への道にいた。
まるで誰かを待ち構えていたかのように。
「見てわからない?」
「……アースの大会は、明日でしょ?」
何故か、彼女の足元には旅支度した荷物があった。たかが王都へ行くだけにしては、あまりにもしっかりとした備えであろう。
「私もそっちの大会に出る」
「ッ!?」
ミラの一言にクルスの中で衝撃が走る。やめてくれ、勘弁してくれ、何でそんなことをするんだ、そんなダサい言い訳が自分の中を駆け巡る。
「なんてね。冗談冗談」
「……悪趣味だね」
「そう? 別に問題ないでしょ。私が出ようと出まいと、あんたはソロンにすら勝つつもりだった馬鹿じゃない。それがどうしたの? 何かあった?」
煽るような口調。クルスは『笑顔』を張り付けて、
「何もないよ。ただ、あの時とは状況が違う。経験だけじゃなくて結果も欲しいと思うのはいけないことかな?」
「状況、ね。私はあの時と別に変わりないけど、あんたは何が変わったの?」
クルスは『笑顔』の下で苛立つ。朝早くから、何で彼女はこうもかき乱してくるのか。君には関係ないだろ、と思ってしまう。
「学年とか、就活のこととか」
「あー、就活。ってか、あんたどこの騎士団志望なの? 拳闘大会の成績が欲しいってことはさ、私みたいに徒手格闘専門の騎士団目指してんの?」
「……徒手格闘専門、ではないよ」
「ふーん、じゃあ、別にそんなに重要じゃないと思うけどね。学校の成績上げた方がよっぽど就活のためになるんじゃない? 九位のクルス・リンザール君」
苛立ちが、怒りに変わる。
彼女は喧嘩を売りに来たのだろうか。それならいっそ――
「君は喧嘩を売りに来たの?」
「そう見える?」
「口ぶりはね」
「ハッ、私の口が悪いのなんて今更でしょ。ほんと、余裕なくなっちゃって」
ミラは小さく深呼吸をしてから、
「セコンド、ついてあげようか?」
「……は?」
理解不明なことを言い出した。
「だからぁ、セコンド。大会出るんでしょ? 私なら同世代の競技者は大体知ってるし、そこそこ的確なアドバイスが出来る。欲しいんでしょ、結果」
「……い、いや、その、君も明日、大会出るんだろ?」
「辞退した」
あっけらかんとミラは言い切った。
「な、なんで!? 君は、君が一番結果を必要としている立場じゃないか!」
「別に大会は一つじゃないし、同じ大会も来年出ればいいだけだから」
「い、意味がわからない。理解出来ない!」
「ま、それに関して同感。ほんと何やってんだか。でも、仕方ないじゃん」
「何が!?」
クルスは今、混乱の極致であった。彼女の進路を考えたら拳闘の大会など隙あらば出て、少しでも多くの結果を残すべきなのだ。
リカルドの道が拓けたのも夏、結果を出したから。それが彼の進路に結び付いたかはまだ誰にもわからないが、少なくともスタートラインには立てた。
其処に立つためにも、今は死に物狂いで結果を追い求めるべき。
それが道理である。
「あんたの力になりたい」
また冗談か。そう思おうとした。だけど、彼女の眼が真っ直ぐと告げる。
本気だ、と。
「……君らしくない」
「はは、自分本位なミラ・メルがって感じ?」
「……」
「私も驚いてる。でもさ、あんたも人のこと言えないでしょ。自覚ないかもだけど、あんたも相当だよ。で、私はそんなあんたに一度救われている。手を差し出してもらった。あんたが気兼ねするなら、それの恩返しだと思っていい」
クルスの『笑顔』が揺らぐ。ぐしゃりと、砕け、貌が、歪む。
「私も忘れていたけど、クルス・リンザールは元々ボロカスになっても人に頼れないんだよね。エイル・ストゥルルソンの押し売りが無かったら、きっとあんたは一人で抱えて、一人で壊れていた。もしくは一人で這い上がったか、かな」
「……やめろ」
「無償の善意ってさ、気持ち悪いよね。私もそっち側だから、気持ちはわかる。出来ることなら頼りたくない。自分だけで何とかしたい。でも、私のは無償じゃない。すでにあんたがかつて差し出してくれた手の、そのお返しだから」
泳げない彼女のために骨を折った。あの時はそう、目標があやふやで、焦りもなく、ただ漫然と生きていたから。だから出来ただけ。
「講義で稽古をつけてくれただろ。あれでチャラのはずだ」
「あれ、ただの照れ隠しだから。あんた私のこと馬鹿だと思ってんの?」
「……割とね」
「失礼しちゃう、殺すわよ。あんなもんで返せたわけがないでしょ。私は自分が難物だって理解してるし、その私とあそこまで向き合ってくれたのはあんたが初めて。その大きさはさ、あんたが思うよりもずっと、ずっと、大きい」
「……」
「私も貸し借りは嫌い。返せるなら返したい。それで対等。どう? あんたのお好きな理屈通して上げたけど……なんか文句ある?」
ミラの前でクルスは、面白いぐらいに揺らいでいた。四学年になってずっと、強がりの『笑顔』で蓋をしてきた貌が、ようやく表に出てきた。
傷だらけで、満身創痍の、張子の虎。
「それともただ、好きです、の方が良い? どっちでもいいわよ、私は」
「……なんで、俺なんだよ」
「今言ったでしょ。私は自分がやべーやつだってわかってる。そんな私に向き合ってくれた。それが理由。足りない?」
『笑顔』が砕けた。
その下には、ボロボロの少年がいた。ようやく掴みかけた『確信』を失い、努力しても実らずに、あまつさえ下からも抜き去られた。
何をやっても上手くいかない。いや、上手くいっているのに届かない。正しい努力が出来ているのに――足りない。
だからこそ、苦しいのだ。辛いのだ。努力が間違っているなら正せばいい。努力が足りないのなら増やせばいい。
でも、方向性は間違っておらず、量も目一杯やってこれなら、それこそ絶望するしかない。だってそれは、どうしようもないと言うことだから。
「今度は私が向き合う番。付き合うよ、心の病気なんでしょ? どうすりゃいいのかわかんないけど、あんたと一緒に考えることは出来る」
ミラはクルスに向かって手を差し出す。
「だから!」
揺らぐ。惑う。心の中はぐしゃぐしゃ、整理がつかない。彼女の真っ直ぐな拳がクルスの『虚勢』を打ち貫いた。砕けて、散った。
あの手を取れば、きっと幸せになれると思う。きっと、また振り回されるのだろうけれど、あの時だって悪い気分ではなかった。何処かエッダに似ている彼女へ好意がないと言えば嘘になる。まあ彼女よりも大分唯我独尊だが。
二人で支え合って生きていく。
「クルス!」
何て甘美な誘いなのだろうか。
だけど、
『騎士は一人や』
何故かはわからない。何故かわからないけれど、あの手を取った瞬間、自分の中で何かが死ぬと思った。あの手を取った瞬間、二度と『確信』には届かない。
そんな気がした。
「……俺、ユニオンに入りたいんだ」
「……今の成績で?」
「笑うよな」
「笑わない。笑って欲しいなら、笑ってあげるけど」
ミラの優しさが沁みる。いつもみたいにボロクソに言ってくれた方が、罵詈雑言を吐かれていた方が、きっと、ずっと、楽だった。
「君の手を取ったら、俺は君に勝てなくなる。こんなカスみたいな状態で何言ってんだ、って思うかもしれないけど……俺は君にも勝ちたいんだ」
「……」
「笑えよ」
「だから、笑わないって。そんなの当たり前じゃん」
「イールファスにも、ソロンにも、ノアにだって、勝ちたい。誰にも負けたくない。欲しいんだ、一等賞が。俺には何もない。生まれも、育ちも、クソ以下だ。だから、だから、欲しいんだよ。俺が何者かである証が」
「それ、一位じゃないと駄目? 私があんたを認めているんじゃ、駄目?」
「わからない。俺には俺がわからない。だけど、たぶん、駄目だよ。だって、人の気持ちはさ、目に見えないから。この手に、残らないから」
「……」
「だから、ごめん。俺はその手を、取れない」
「……」
クルスはミラから視線を逸らし、歩き始める。すれ違いざま、一発ぐらい殴られる覚悟はあった。けれど、ここぞと言う時に彼女はそうしてくれない。
殴って、罵詈雑言を吹っ掛けてくれた方が、楽だと言うのに――
「クルス」
「……なに?」
「手を跳ね除けた以上、あんたも私の敵だから」
「……わかってるよ」
「絶対に、負けてやんない」
「……ありがとう」
「死ね」
幼馴染みたいに自分を振り回してくれた彼女の手を払う。好意が嬉しかった。こちらにも好意はあった。だからこそ、苦しいし辛い。
だからこそ――
(……嗚呼、冬だからかな、寒いなぁ)
痛みと共に、贅肉を一つ、削ぐ。少し軽く、また冷たくなった。
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