第33話:サンセット
クルス・リンザールは砂浜に立っていた。隣にはアーシアで購入したであろう水着をまとう美少女。眼福である。世の男の七割五分くらいは羨ましいと思えるようなシチュエーションであるが、何故かクルスの顔は冴えない。
まあ、今が真冬で雪が吹き荒ぶ状況であるから当然なのだが――
(昨日よりもずっと寒いじゃん)
「何か言った?」
「何も言ってはないよ」
「ふーん。まあどうでもいいけど」
地獄である。こんな日に海へ入るなど自殺行為に等しい。そもそも補習でもないのになぜ自分が海に入らねばならないのか、と幾度も自問自答した。
答えは、
「じゃ、手本見せて」
「俺、泳ぐの?」
「当たり前でしょ」
「ちなみに俺の水着ってあったりします?」
「あるわけないじゃん。なんで私が他人の水着買わなきゃいけないのよ」
「……うん、知ってた」
全部この女が悪い、とクルスは心の中で泣きながら入水する。着衣のまま、また海から上がったら地獄の冷たさを味わう羽目になるし、
(ああああああああああああああああ!)
今、すでに死ぬほど寒い。
○
現在、三学年の剣闘術を教えながら彼らの担任も務める先生こと、エメリヒ・フューネルは学生個人の内部調査票に目を通していた。これは本来、担任であろうが教頭クラス以上の教師しか目を通せぬ資料である。
統括教頭の指示で、彼は『彼女』の資料だけに目を通す。
其処には――
「三歳の頃、ミュール湖への旅行中、乳母が目を離した隙に甲板へ出て、足を滑らせて湖へぽちゃん。溺死しかける、か。まあ、こういうマイナスの情報は名門ほど隠したがるものだけど……たぶん本人も知らないんだろうね、これ」
アスガルドの調査員がマグ・メル本国にて収集した機密情報であり、教頭クラス以上が情報を精査し、『彼女』の実力と照らし合わせて獲得したのだろう。
まあ、マグ・メルでの成績も上位、ほぼ二位ではあったため、多少の問題点があろうともお買い得ではある。エメリヒでも獲得に迷いはなかっただろう。
問題は、本人が覚えていないこと。だからこそ、特別扱いも難しい。トラウマの克服とは容易いものではないのだ。真実を教えることで嫌な記憶を呼び覚まし、症状が悪化する恐れもある。とりあえず平等に扱いはしたが――
「マグ・メルにはこの手の講義はないからなぁ。問題が浮き出ることはなかったが……この際うちもなくせばよかったのに、と言うのは私情か。どうしたものか。彼女の気性を鑑みても、出来ないままで済ませるような子ではないし……」
次の補習で様子を見て、彼女が不可を飲み込めるかを確認する必要がある。プライドの高い子だから慎重に。必須単位ではないことを前面に押し出そう、とエメリヒは説得方法を模索する。彼個人の考えとしては出来ないものの放置は騎士としてあり得ないが、それは彼個人の考えであり教師としてそれを持ち出す気はない。
誰もかれもが完璧を目指すわけではないのだ。
「……教師も楽じゃないですねえ、先輩」
それは彼の短い教師経験でも十二分に理解できたことである。
○
「……」
「……」
先ほどから微動だにしないミラの後ろで、クルスは困り果てていた。何しろ彼女、全身が海に浸かるところまで到達出来ていないのだ。これでは助言のしようがない。ただ見守り、時間経過するのを待つばかり。
それではあまりにも時間の無駄、馬鹿らしい話である。
(浮くよ、と言う助言は浮かないと返される。勇気を持って踏み出せば、と投げやりな助言をすれば、きっと怒りと共に黙れと言われ機嫌を損ねるだけ)
クルスは考える。彼女の幼少期にトラウマ、精神への傷になるようなことがあった、と言う事実は知らないし、想像もしていない。
ただ、少しだけちらりと映った横顔には見覚えがあった。あれはかつての、アスガルドへ来たばかりの自分である。わからないことがわからない。彼女は今、途方に暮れているのだろう。皆が当たり前に出来ることが出来ないでいるから。
「……」
きっと優秀な彼女はそんな経験自体、今までなかったはず。
(……浮けるよ、泳げるよ、誰でも出来るよ、これほど無意味な助言はない。俺が一番苦しんだはずじゃないか。出来ない理由を考えなきゃ。エイル先輩はどうやって教えてくれた? 先生なら、どう教えるだろうか?)
クルスは考え、思い出し、それを元手にさらに考え込む。自分に教えてくれた人たちを、手法を、今のケースに当てはめて――
「ねえ、ミラ」
「なに?」
「ミラってお風呂入ったことある?」
「あ?」
ぶっ殺すぞ、と言う目でクルスを睨むミラ。だが、其処に浮かぶ表情を見て少しだけ殺意が薄れた。其処に、馬鹿にしたような色はなかったから。
「あるよね。じゃあ、顔を洗ったことは?」
「毎日洗ってるに決まってんでしょ」
「だよね。つまりミラは、体も頭も水に浸かることは出来るんだよ」
「……だから?」
「まずは出来ない地点を探してみよう、と思ってね。ミラは昨日から一歩も、其処から先へは踏み出せていない。頭を水に浸けられないと考えられるけど、普段洗顔や日常の中で顔を水に浸けることはそれなりにあるはず」
「……まあ、確かに。理屈に合わないわね」
「じゃあ、どの辺りで詰まっているのか、それを調べてみようよ。其処から踏み出すことなく、まず水面に顔を浸けられるかどうか、とか」
「……そんなの楽勝でしょ」
「でも、昨日から一度もやってないよ」
「……ふん」
ミラは鼻を鳴らした後、海面を見つめる。心が何故かざわざわするが、洗顔と同じ洗顔と同じと言い聞かせ、そろりそろりと顔を海面に浸ける。
そして――
「はい楽勝!」
ただ海面に顔を浸けただけだが、ミラは物凄いドヤ顔を決める。
「なら、さらに深く浸けてみようよ」
「リンザールのくせに生意気な」
と言いつつ、ミラは先ほどよりも素早い動作で、より深く海面に頭を浸けた。それはもうどっぷりと。最初の躊躇は何だったのか、と思うほどの勢いである。
「ぷは、ふふん」
顔を上げた際、どんなもんよ、と言わんばかりの表情を浮かべるミラ。クルスは何となく、少しずつ彼女の扱い方がわかってきた気がする。
「そうしたら次は、海に沈んでみよう」
「えー。なんか、やだ」
「足の着く場所で。もう少し浜辺によってもいいし、立てば絶対に海面に出られるところ、其処で沈んでみようよ」
「……まあ、足がつくとこなら」
段階を経て、ミラに成功体験を積ませる。これはエイル先輩の教え方を参考にしていた。いきなり御三家クラスの応用問題を解くのは難しい。しかし、その問題を分解して一つずつ『わからない』を潰し、目的の問題に挑戦する。
巨大な壁、途方もない高さをそのまま登ろうとすると困難だが、一つずつ段階に分け、攻略していけば階段と同じ。
いつかは必ず解ける。
「ぶは、沈むのムズ!」
「息吐き切っても難しいよね。つまりは――」
「人間は浮く、でしょ。そのドヤ顔ムカつくからやめてくんない」
「……すいません」
棘のある言葉を放ちつつ、ミラはクルスの言ったことを片っ端から試していく。そのどれもが出来た。理屈の上ではもう、泳げない理由はない。
少なくとも彼女は浮くことが出来たのだから。
「あんた、よくそんな色々と考えつくわね」
「俺の先生がさ。よく稽古中に質問とかしてきたんだよ。稽古に関係あることだったり、何の関係もないことだったり。でも、それに答えないとさ、その日の稽古が終わるんだ。だから、あることないこと色々考えて、とにかく答えるようにした」
「……ふーん」
「浅知恵ばかりだったけど」
「剣を握って四年ちょっとだっけ?」
「う、うん。よく知ってるね」
「別に。同じ編入生のことは気になるでしょ、普通」
「え、全然そうは見えなかったけど」
「それはあんたが何も持たずに騎士の学校へ来た馬鹿にしか見えなかったからよ」
「辛辣過ぎない?」
「能あるとこを見せなかったあんたが悪い」
「それはそう」
「でも、まあ、満更何も持ってなかったわけじゃないみたいね」
「え?」
ミラの声が小さすぎて聞き返すクルス。だが、彼女はそれに答えず、
「で、次は何する?」
クルスに問うた。次にすべきことを。
「あ、そうだね。そうしたらさ、もう少しで日暮れだし、ここらで最後、足のつかないところで潜ってみようよ。それが出来たらもう、出来ない理由がない」
「……そうね」
クルスは先に沖へ寄るように泳ぎ、大きく息を吸って沈んだ。先に行って待っている、と言うことなのだろう。小生意気な、とミラは微笑む。
「……」
正直、えもいわれぬ嫌な感じはある。前へ進むたびに、何かがそれを阻む。だけど、傍若無人な彼女でもわかることがある。それはクルス・リンザールが今日、自分に付き合って真剣に、馬鹿にせず向き合ってくれたと言うこと。
ここで出来ません、は彼女のプライドが許さない。
「ふ、ゥ!」
大きく深呼吸、そして歯を食いしばりながら一歩、また一歩と進む。心の中の枷を、蹴とばしながら歩む。
そして、
「……!」
前進すると同時に思い切り目を瞑り、一歩、また一歩、海中を進む。もう、背伸びしても海面には上がることなど出来ない。理屈は浮く。絶対に浮く。沈む方が困難に、人間の身体は出来ているのだ。
大丈夫、大丈夫、そう言い聞かせるも、泥のようにへばりつく水の感覚が、怖気を誘う。気持ち悪い。苦しい。辛い。嫌な感情が噴き出す。
もう駄目、溺れる。そう思い彼女は目を開けると、
「ぶくぶくぶく」
目の前にはクルスが変な顔をして彼女が目を開けるのを待っていた。その瞬間、彼女の中の何かが吹っ切れる。
「……!」
ミラは水の中でクルスに殴りかかる。いきなりキレ始めたミラに対し、逃げろとクルスは泳いで離脱しようとする。逃がすか、と彼女も追撃の姿勢に入った。
逃げるクルス。追うミラ。
そして哀しいかな、
「ぶは、私を馬鹿にして逃げられると思うな! ビリッケツ男!」
あらゆる面において身体能力はミラの方が上である。クルスは逃げ切ることが出来なかった。がっちり首を拘束されたクルスは悔しがる。
「くそー。海なら逃げ切れると思ったのに!」
「百年早い!」
高らかに勝利宣言するミラに、
「おめでとう、ミラ」
クルスは祝辞を述べる。
「ハァ? 何を負け犬、が――」
いつの間にか止んでいた雪。雲の切れ間から覗く夕日が水面を赤く照らす。真っ赤な海と、それを背にした彼の困ったような顔を見て――
「……」
クルスの意図をくみ取ったミラは表情を百面相のようにコロコロと変える。その様子があまりにもおかしくて、クルスは笑ってしまった。
「この、笑うな!」
「いや、だって、顔が、凄いことに」
「……!」
海への、水への潜在的な恐怖心から泳げなかったミラは今、足のつかぬ海上で、海中で、クルス・リンザールと泳ぎながら取っ組み合いの喧嘩をしていた。
もう、水への恐怖心はない。
だって今日、夕日に照らされた海が全部、上書きしてくれたから。
○
「はい私の勝ちィ!」
「く、くそ!」
「……あ、あれー?」
補習二回目。さあ今日は大変な一日になるぞ、と意気込んでいたエメリヒ先生を待っていたのは、クルスに何馬身の差をつけて泳ぎ切ったミラの姿であった。トラウマもどこへやら、当然と言わんばかりの表情でいつも通り課題を達成していた。
クルスも随分上手くなったが、其処はもう身体能力と体の使い方、基礎力の差であろう。コツさえつかめばあとは其処の勝負。こうなるのも仕方がない。
「これで補習は終わりですよね?」
「あ、ああ」
「じゃ、行くわよ負け犬」
「く、くそー。教える立場だったのにぃ」
「だから百年早いのよ」
あっさりと課題を達成して、どこぞへと去っていく二人を見送り、エメリヒは一人ぽつんと立ち尽くす。いや、まあ、出来たのであれば何も言うことはない。良いことであるし、素直に賞賛すべきなのだろう。
「あれー?」
ただ、何となく釈然としない思いを抱き、彼は大きな海を見つめていた。
○
補習を終えた彼らはアーシアの共同浴場で湯に浸かり、体をしっかり温めた後、魔導式洗濯乾燥機できっちり乾かした制服に着替え、港町を散策していた。正直、帰って倶楽部へ顔を出したかったのだが、ミラは駄目と一言で断ち切り、今に至る。
(しかしこの制服、やっぱり凄いなぁ。軽く洗うだけで塩気が取れるし、乾燥させたらほら元通り。アイロン要らずでそれなりに形も決まる。強い)
そんなどうでもいいことを考えているクルスをよそに、
「ここにしましょ」
ミラは彼の返事を聞く前に店を決め、ずかずかと入っていく。港町の小さな食堂、と言う感じの店構えであり、丁度開店したばかりなのだろう。夕食の時間には早すぎるため、客はミラとクルスの二人だけであった。
「これください。同じの二つ」
「そこは聞こうよ」
「なに? 他に食べたいのあったの?」
「……いや、まあ、それが食べたかったんだけど」
「じゃあ何の文句よ」
「……何でもありません」
「変なの」
変なのはお前だよ、とクルスは心の中でツッコむ。確かにクルスとミラの食べたいものが偶然一致したため事なきを得たが、普通こういう時はとりあえず相手の意見を聞くものだろうに、などとブツブツ考えていたのだが――
「「うま!」」
ぶっきらぼうな女店主が、これまた適当に魚介類をぶち込んだ具沢山海鮮スープにその思考は吹き飛ばされてしまった。そう、海なし国に生まれたクルスにとって魚と言うものは高級食材であり、港町の漁師料理など贅を凝らしたものにしか見えなかった。それはミラも同じ、彼女の出身であるマグ・メルも海がない。
だから、二人の好みはかち合った。
「ああ、沁みるぅ。色んな味があって大変だね、これ」
「ほんとに。お魚ってこんなに美味しいのね」
「ミラは食べたことないの?」
「あるけど、新鮮さが違うでしょ? 干物みたいのばっかりだったから。最近は冷蔵技術が発展してきたらしいけど、それでもマグ・メルじゃ高級品だし」
「ふーん」
「そっちも同じでしょ?」
「うん。あれ、俺ってミラに出身言ったっけ?」
「……言った」
「あれ? まあいっか。それにしても美味しいなぁ」
「……馬鹿で良かった」
「何か言った?」
「馬鹿って言った」
「……わー、ひどい」
と言いつつも、すでに彼女の罵倒に慣れてきたクルス。慣れとは恐ろしいもので、すでに彼女が相手だと軽い罵倒は挨拶のように聞こえてくるから不思議である。
「それにしても旨いね、これ」
「有名みたいよ、ここ。店主の態度と盛り付けの汚さを除けば最高だって」
「ふーん」
ここでクルスは何も察しない。適当に散策し、適当に選んだはずの店の情報を、ミラが何故知っているのかを。そして彼女もまた気づかない。それを言ったら全部バレてしまうだろ、と言う初歩的なミスを。
この二人、存外似た者同士なのかもしれない。
食事を終えた二人は店を出て、ゆっくりと学園へ戻る。アーシアと学園はそこそこ距離があり、それなりに歩かないといけないのだ。
「あんたはさ、私やクレンツェ、ナルヴィとかヴァナディースとかと話してて怖くないの? 普通ビビらない?」
「俺はその普通がわからないんだよ。俺には騎士の家に生まれた人は全部、凄いと思うし羨ましいと思う。その中の差は、わからないかなぁ」
「……ふーん。つまり馬鹿って、こと?」
「はいそうですよー。どうせ俺は無知で馬鹿な負け犬ですよ」
「……そっか」
騎士の世界を知らぬ者。それは時として、その世界に浸る者の、生まれた時から逃れられずに縛られている者の、救いとなる時もある。
「私先帰るわね。一緒に帰ったら何言われるかわかんないし」
「あー、不滅団とかいるもんね」
「クソみたいな連中の話しないで。耳が腐るから」
「……これに関しては同意見だし何も言えないや」
「じゃあ、また明日ね、クルス」
「うん。また明日。あれ?」
「あと、ありがと」
「あれ?」
そう言ってスタスタと歩き去っていくミラの背中を、ただ茫然と見守るクルスは首をかしげていた。幻聴かな、と思ってしまう。
罵詈雑言はすんなり耳に入ってくるのに、感謝の言葉はなかなか受け付けられないのは、口の悪い彼女が悪いのか、感謝され慣れていないクルスが悪いのか――
はたまた両方か。
○
「「「「エンチャント」」」」
闇夜、数多の閃光が交錯する。
「何故だ!?」
「……あいつは、親友でね」
「ぐっ。さすが三学年にして団の序列三位の男。だからこそ惜しい。たかが友情如きで、我らの使命を忘れるとは!」
無駄に巧みな剣術、いずれも御三家が誇る自慢の学生たちである。その戦いも理由はともかく中身は技巧を凝らしたものであった。
「忘れちゃいねえさ!」
漆黒のローブを身にまとい、目深にフードを被った彼らの表情は見えない。だが、その隙間より見える血の涙は、果たして何の意味があるのだろうか。
「序列外の協力者は!?」
「ヴァナディース案件でないため呼びかけに答えません!」
「ぐぅ! 我らが揃いも揃って、みすみす不純異性交遊を逃すことになろうとは」
「今日だけは見逃してやってください」
「出来ん!」
「なら、阻みます!」
「ほざいたな、小僧!」
ただ一人、友を守るため組織を裏切った男は彼らのために剣を振るう。守ることこそが騎士の本懐。良い日にしろよ、と祈りながら同志たちと戦う。
その想いはまさに騎士の鑑。何故か血の涙を流してはいたが――
不純異性交遊撲滅騎士団、不滅団の夜は長い。
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