第32話:モンスター

「よく考えたら逆に海の方が温かくない?」

「甘いな。こうしている間にも体温が奪われているんだぜ、クルスよ。寒中水泳なんてのはな、精神論の極致。俺は認めないね」

「でもディンは泳ぐのが上手いねぇ」

「……実家で毎年やるんだよ。年明けと同時に、男衆全員で」

「真夜中?」

「そう。あいつらマジで阿呆なんだよ。我慢強さを名門の誇りだと思ってんだ」

「大変だなぁ」

 足がつくかつかないかのところでぴちゃぴちゃと泳ぐクルスとそれに並行してスイーと華麗に泳ぐディン。何とも微笑ましい光景であった。

 今が真冬で、雪が舞い散る状況でなければ――

「何であんた泳げてんのよ!?」

「へ?」

 そんな二人を見て、波の高さ込みで足がつく場所から一歩も前に進めないミラ・メルは二人に、と言うよりもクルスにツッコんだ。

「いや、だって先生やディンが泳ぎ方教えてくれたから」

「私も聞いてましたァ!」

「……なら、泳げるんじゃ?」

「……あんた風呂に入ったことないの?」

「毎日入ってるよ。学校に入ってからはね」

 田舎者を馬鹿にされたと思いクルスは憤慨する。確かにゲリンゼルの民に風呂に入るという習慣自体が存在しない。小川や井戸しか水源がなく、貴重な水を無駄に消費出来ないこともあり汚れたら水浴びするぐらいであった。

 だが、学校に入りクルスも目覚めたのだ。お風呂の素晴らしさに。清潔になることもそうだが、温かな湯は気持ちよく、疲労回復にも効果がある。

 今日も補習を終えたらすぐに風呂へ直行する気構えであった。断じて昨年までの不潔なクルス・リンザールではないのだと、心の中で叫ぶ。

 まあ、

「……人間はね、水に浮かないのよ」

「……?」

 滅茶苦茶被害妄想であったのだが。

「……浮くけど?」

「沈むでしょ、普通! 理論的に考えなさいよ! 風呂に入れるってことは人間の身体は水に沈むってこと! つまり浮かない! QED!」

「いや、浮くって」

「ぎぎぎ!」

 クルス・リンザールは泳ぎ方や海の冷たさなど何も知らないだけであった。しょっぱいことだけ知っていたが、あの時の経験が仇となり海は暖かいと誤認していたのが前回の敗因である。正しい知識を得たクルスに隙はない。

 だが、ミラは普通にカナヅチだったのだ。

「人間誰しも弱点はあるものだなぁ」

 ディンはのんびりと泳ぐ。一度入ってしまえばクルスの言う通り、外気温よりも若干温かい、ような気がする。慣れてしまえば体感それほど辛くない。されど彼は知っている。その裏で体にどんなことが起きているのかを。

 実家の荒行のせいで――

「おっと、そろそろ時間だ。今日はここまでにしよう」

「ま、待ってください! まだ、やれます!」

 先生が締めに入ると露骨に焦り始めるミラ。どの方向から見ても現状、最も遅れているのが彼女であるのだ。クルスはおそらく、あと一度か二度で岩礁まで泳ぎ切り、回ってくることが出来るだろう。ディンは元々それぐらい楽勝である。

 騎士科の学生は皆、基礎体力、身体能力が常人よりもはるかに優れているため、一度コツさえつかんでしまえば常人では困難なことも難なくこなせるようになる。クルスもアスガルドの中では下の方だが、入る前から一応そちら側であった。

 まあ、それはミラも同じ、と言うか彼女の方が優れているはずなのだが――

「これ以上、体を冷やし続けるのは看過できないなぁ。と言うか正直、古株の先生方には申し訳ないけれど、私は反対派なんだよ、寒中水泳。意味ないし」

「「……」」

 じゃあ止めろよ、とクルスとディンは心の中で思ったが、まあ先生の中にも色々とあるのだろう。若手の意見が通り辛いのは世の常である。

「クルス君も今日中に往復は無理だろうから二人は次回頑張ろう」

「「イエス・マスター」」

「ディン君は反省文書いたら終わりでいいよ」

「はーい」

「全く、優秀なのに成績を気にしないのも困った子だね。では、解散」

 先生も寒かったのだろう「おお、寒寒」と言いながら去っていく。その背を見送りながら三人とも陸へ上がる。すると――

「「「寒ッ!」」」

 濡れた体に雪が付着し、ぶっ飛びそうなほど寒かった。


     ○


 ちなみに遠泳するための海は学校の西側、アーシアと言う町の近くであった。あまりの寒さに三人とも耐え切れず、アーシアにある風呂屋に飛び込み芯まで冷え切った体を温めていたのだ。前回は溺死寸前でそれどころではなくわからなかったが、皆が陰鬱な雰囲気を漂わせていた気分が遅まきながら理解できた。

 これは地獄である。

「……指先が痺れているよ」

 風呂に浸かりながら手足の指をわきわきと動かすクルス。その様子を見てディンは苦笑しながら自分も同じ動作をし始めた。

 アーシアの共同浴場は大きさこそ学校とそん色はないが、内装や器具、あとシャワーの水圧などに大きな差があった。何だかんだと学生は文句を言うが、御三家の学校に相応しいぐらいの設備投資はしているのだ。

 レムリアとかメガラニカとかが頭おかしいだけで。

「ログレスの寒さはこっちの比じゃないからな。手足の感覚が無くなってからが本番だとよ。イカレてるぜ。しかも湖だし、皆で氷えっちらおっちらかち割ってから泳ぐんだが、なんで辛い思いするために労働してんだ? って思ってたわ」

「……フレン、大丈夫かなぁ?」

「ああ。スタディオンと友達なんだっけ?」

「うん。大会で一緒になってさ」

「あー、編入の。あいつも難儀だよなぁ」

「悲運の主人公、って感じだよ。と言うかディンは知り合いなの?」

「ん、まあ幼馴染かな。この業界、意外と狭いんだよ」

「へー」

「しかし、主人公、ねえ」

 ディンは少し似合わぬ笑みを浮かべる。少し小馬鹿にしたような、どこか自嘲も含んだ笑みの理由を、今のクルスは窺い知ることは出来なかった。

 何故なら彼はまだ、知らないから。

 栄光の名を背負う男を。

「それよりもミラちゃんだ。ありゃあ相当重症だぞ」

 ディンは無理やり話を切り替える。

「……だよね。浮かない、の一点張りだし」

「あの子は俺みたいに不真面目じゃないし、成績もガツガツ取りに行くタイプだ。それでも前に進めないのは、たぶん何かあるんだろうなぁ」

「なんかって?」

「そりゃあクルス君、トラウマってやつじゃねえの?」

「そうなの?」

「いや、知らんけど」

「……適当かよ」

「そんなに仲良くないしな、お互い」

「へえ。ディンみたいな社交的な人でも仲良くない人とかいるんだね」

「基本、女の子からは嫌われてるぜ、俺」

「……」

 自覚あったんだ、とクルスは愛想笑いで受け流す。どんなに悪口を言われても幼少期から聞き流し、受け流してきたスキルがここで生きる。

「まあ、それは冗談として――」

(じょう、だん?)

「――騎士の家ってのはさ、名門であればあるほど色々と面倒くさいんだよ。それは勘当同然の俺も一緒。どうしたって家の名前はついて回る。何処と仲良くした、何処と不仲になった、何処と貸し借りをした……全部だ」

 急にまじめな口調で語りだすディン。その寒暖差にクルスは頭が混乱してしまう。

「俺もデリングたちとは仲良くするけど、あいつに何か貸し借りが出来るかって言ったら、正直やりたくないのが本音だ」

「でも前、デリングにおごらせようと――」

「つまり、だ。クルス君。家のしがらみがないってのは結構、この学園じゃ武器になるんだぜって話。折角だしちょいと力でも貸してやれよ。其処から芽生える友情もあるだろうさ。それは俺達にはさ、絶対に出来ないことだから」

「……ディン」

 クルスは知らない。名門同士の関係性と言うものを。色々あるのだろう、と言うことはディンの表情、雰囲気からも察することが出来る。羨ましいと思っていたことが、枷になることもあるのだと、この日クルスは初めて知った。

「んじゃ、上がりますかね」

「うん」

 下流には下流の、中流には中流の、上流には上流の悩みがある。外側からは見えないよろずがあるものなのだ。其処に違いはあっても、貴賤はない。

 まあ生まれが違っても共通するものはある。

「「ぷはァ!」」

 それは、

「風呂上がりの、キンッキンに冷えたミルクはたまらねえなぁ!」

「魔導技術に乾杯!」

「ほんそれ」

 風呂上がりのミルクへの感動とか、である。

「うんま」

 休憩所の隅でミラもミルクを飲み、小さく唸る。ちなみにアーシアの共同浴場、現在は男女浴場の場所は異なるが、かつては男女の垣根なく浸かることが出来、思春期の男子学生はドスケベな顔つきで足しげく通っていたらしい。

 しかし、時は流れそういうのよくないんじゃない、と言う風潮が発生。さらにそこで追い打ちをかけたのが何を隠そう、我らが不純異性交遊撲滅騎士団、通称不滅団による内部抗争、痴情最悪の世代による仲間割れである。

 彼らは極めてドスケベであった。だから混浴最高、と寮に浴場があるのにここでしか風呂に入らない業の者すらいたほどである。だが、同時にここは男女が赤裸々に愛を育むスポットでもあったのだ。不滅団は割れた。

 教義であり原理原則である不純異性交遊撲滅に従い、この花園を破壊すべきと主張する原理主義者と、俺たちはエッ、な景色が見たい、例え最近ここに女生徒が顔を見せなくなったとしても、アーシアのババアばっかりでも、それでも俺たちは夢が見たい、と可能性を信じる海綿体主義者たちの壮絶なる足の引っ張り合いが激化。

 最終的な勝者は原理主義者であった。殴り合いの抗争を隠れ蓑に、裏で国家に陳情していたのだ。昨今の世情を鑑みるに、大国として恥じぬ性風俗の環境を整えるべき、と言うクソ長いレポートを提出、それが通った。

 それは裏で海綿体主義者たちを支援していた学園長、ウル・ユーダリルの想像をも越える一手であり、偉大なる英雄は人生二度目の失態、我が身を恥じる、と書き残し失踪、翌月イリオスの風俗街で確保された哀しい物語があった。

 以上、全て無駄な余談である。

「あ、ミラ。何か聞きたいことあったら言ってよ。俺で良ければ力に――」

「は、舐めてんの? ちょっと先んじたからって調子に乗ってんじゃないわよ。私が本気を出せばね、あんたなんかすぐに抜かせるんだから」

「……ご、ごめんなさい」

 ミラの目は鋭く、敵意に満ちていた。これは形勢不利と判断したクルスはそそくさと撤退、ディンの下へ逃げ帰る。

「駄目だったよ」

「きょ、距離の詰め方下手くそかよ」

「仕方ないだろ、友達少ないんだから、俺」

 本題を差し込む前に飯を誘うとか、世間話をするとか、逆に別の授業のことを質問して、あちらに質問を返す大義を与えるとか、いくらでもやりようはあっただろうに。冷静に考えればこのクルス、交友関係の大半が受け身で形成されているポンコツ野郎であった。ディンは頭を抱え、静かに首を横に振る。

「駄目だこりゃ」

 と。


     ○


 新学期早々、剣闘の授業でクルスはひっくり返されていた。

 相手は、

「ふふん。格の違いが理解できた?」

「……最初から知ってるよ」

 ミラ・メルであった。

 剣闘の授業、たまに先生が組手の相手を指名することはあるが、基本的には学生の自主性を尊重する、と言う名の放任により自分たちで相手を探す必要がある。最初はそのせいでクルスはいつも余り、ディンや先生と組むことが多かった。

 だが、最近はようやく成績下位の学友から組手を申し込まれることが多くなり、実力の近い相手との組手が出来ていた矢先、

『リンザール。私が稽古つけてあげる』

『え?』

 ミラから指名してきたのだ。おかげで今日は良いところなし。何せ彼女、変動はあるが大体デリングやディンの下に位置する成績上位グループであるのだ。

 当然、剣も達者である。

「同じソード・スクエアでもね、これだけ違うわけ。参考になったでしょ?」

「まあ、確かに」

「あと、その騎士剣安物? 全然プレッシャーなかったけど」

「学校からの借り物。注文したの、まだ届かないから」

「ふーん。ま、腐っても御三家の在庫ってことは、騎士剣じゃなくてあんたの腕がしょぼいだけか。納得」

「……」

 なんて口の悪い女の子なんだ、とクルスは心の中で憤慨するも、表情にはおくびにも出さない。これは対エッダ用に鍛えた技である。納得いかぬことがあってもその場は華麗に聞き流し、受け流す。怒りをぶつけても倍で返ってくるだけ。

 意外とこの男、受け流す処世術には長けている。

「じゃ、あとは下位の連中とよろしくやってなさいな」

「……な、なんてやつだ」

「クルス君、気にしちゃダメだよ」

「う、うん」

 成績下位のみんなと傷を舐め合うクルスであった。

 そして、続く拳闘の授業でも、

「稽古つけてあげる」

「え?」

 タコ殴りにされた。拳闘に関してはフォームの指定もなく、結構自信があったのにコテンパンに伸されてしまったのだ。これには心が折れかける。

「指摘するとこ多過ぎ。全部ダメ。びっくりしたぁ」

「……う、うう」

「ま、私やバルバラ先生を参考にすること。いいわね」

「は、はい」

 やりたい放題、言いたい放題して満足そうに去っていくミラ。

「ふてえ野郎だ」

「女の子だよ」

「言葉の綾ってやつだ。気にするなよ、クルス」

「でも拳闘の時は調子に乗り過ぎだからな、お前」

「そうだそうだ」

 ここでは下位のみんなが傷に塩を塗りたくってきた。本当に素晴らしい級友だと思う。いつか目にもの見せてやる、とクルスは固く誓う。

 そして放課後、いつもの倶楽部ヴァルハラへ向かう途中、

「リンザール」

「え?」

「面貸して」

「え?」

 鋭い目をしたミラに物影へと連れ込まれ、

「今日、私のおかげで滅茶苦茶勉強になったでしょ?」

 いきなり恫喝するかのような雰囲気で話し出す。

「……」

 何の話、と思う自分とそうでもないと思う自分が複雑に絡み合う。基本的にボコボコにされただけなので、参考にするもクソもなかった。

 が、

「参考になったわよね?」

「へ、へい」

「じゃ、貸した分返して」

「……へ?」

「私が教えた。あんたが泳ぎを教える。これで等価交換、貸し借りなし」

「そ、そんな――」

 そんなふざけた話があるか、とツッコミたくなる。だが、この女表情を見るに大マジである。本気でこの話が通ると思っている。

 筋を通したと考えている。

「なに、文句あるの?」

「……いえ、ありません」

「そりゃそうでしょ。じゃ、今から付き合いなさい」

「……倶楽部に」

「私、急ぎなの」

 知らないよ、と叫びたくなる気持ちをぐっとこらえるクルス。怒りは駄目だ。ぶつけたらこの女、倍じゃ済まない。クルスも馬鹿ではなかった。

 ミラ・メルが難物であることが嫌と言うほど理解できていたから。そこそこ気分屋だったエッダなど比ではない。

 この女はもう――モンスターである。

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