第31話:寒中水泳
その日、始業してまだ一日、休みの余韻も抜け切らぬ中、騎士科三年一同の表情は極めて険しいものであった。普段悠然と構えているイールファスやフレイヤ、デリングでさえ憂鬱な気分を隠せていない。いわんや、ディンなど――
「無理だってぇ。寒いからぁ。人間のやることじゃねえよぉ」
授業前に駄々をこね、エスケープをかまそうとしていた。ところを剣の実技を教える先生に拘束され、現在縄で縛られ反省中であった。
唯一、クルス・リンザールだけがいまいちその理由がわからずに首をかしげるばかり。何故彼らはこんなにも動揺しているのだろう、と。
普段の授業だって大変なのに何故今回だけ。
「騎士とはあらゆる局面に対応し、常に完璧と寄り添う存在でなければなりません。如何なる状況でもミスをせずあらゆる事象を解決するには、時には理不尽な経験も必要なのです。では、始めましょうか。皆さん大好きな、『遠泳』のお時間です!」
統括教頭直々の檄が飛ぶ。
今回の授業は彼女の発言通り、『遠泳』の授業である。第一月初旬、雪がちらつく中真冬の大海原が目の前に広がっていた。
そう、今回彼らは――
「そろそろ皆さんの先輩方が上がってくる頃ですね」
統括教頭が邪悪な笑みを浮かべてすぐ、ざばんと幽鬼の如く砂浜に現れたのは昨年度五年主席で、六年でもトップの学生であった。
アスガルドの生徒なら誰もが知るスター学生である。が、今は表情一つ変えていないがびろーんと鼻水が垂れ下がっていた。かなりのイケメンなのだが、あまりにも鼻水の弾力性にばかり目がいき、イケメン感は大いに損なわれている。
「……」
続々と、無言で陸へ上がってくる騎士科六年、最上級生たち。さすがに三年次から毎年海へ叩き込まれているだけあって、皆面構えが違う。まさに完璧と寄り添う者たち、御三家の学生たる所以を下級生に示す。
ただ、半数以上が鼻水を垂らしていたのはご愛敬である。
仕方がない。だって人間だもの。
「さすが動じませんね。お見事です。が、汚いので可としましょう」
「……」
あまりの理不尽、だが六年生たちに揺らぎはない。統括教頭の理不尽など慣れているし、そもそもこの時期たいていの者は進路が決まっているので、正直成績など単位さえ取れたなら何でもいい。と言うか早く着替えたい。
寮に戻って暖炉の前で陣取りたい。それが六年の総意であった。表情は完璧であるが、内心までそうもいかないのが人間と言う生き物である。
「では皆さんも先輩方を見習って、御三家の学生、ひいては騎士としての振る舞いを求めます。まさか逃亡を図ろうなど考えぬことです。この老骨が直々に手を下さぬことにならぬことを祈ります。良いですね?」
殺気にも似た圧が騎士科三年を襲う。魔導業界への貢献もすさまじいが、この女傑はシンプルなダンジョン攻略数及び魔族の討伐数でもアスガルドの騎士団の歴史に名を遺すほどの人物である。学生の身分で出し抜ける相手ではない。
だからこその絶望。あのイールファスすら諦めの境地であった。
「あの高台から飛び込み、あちらの岩礁に触れてこの砂浜へ帰還する。三年ゆえ制限時間を設けることはしませんが、あまり遅い者には補習を受けさせることとなりますので、お気を付けください。当然ですが補習は近日中です」
寒中水泳からは逃げられない、と念を押す女傑。ちなみにログレスでも寒中水泳の授業はある。アスガルドは海、ログレスは湖と違いはあるが、どちらもなぜか伝統的に冬時期での授業に固執していた。
ちなみのちなみにレムリアも遠泳の授業はあるが、あちらは御三家唯一夏季手前の時期に、海解禁を知らせる意味で行うため、それほど酷くはない。
だから人気が下がっているんだよ、と騎士科の学生は内心で毒づく。
「……リンザールのやつ、平静だな」
「ああ。恐ろしく落ち着いてやがる。あれは相当、こなれていると見た」
「微笑、だとォ! くそ、あいつだけには負けられねえ!」
そんな中にあって、クルス・リンザールは普段通りであった。何ならとうとう念願の海に入れる、と少しうきうきしていたのだ。
こいつマジか、と言う視線が集まる。
特に――
「あんな落ちこぼれに……負けるわけには」
一人の女生徒からは敵意にも似た視線が飛んでいた。が、クルスは何故見られているのかまるで見当がついていないので意味がない。
三学年のトップは当然、主席であるイールファスが務める。
心頭滅却、
「イールファス・エリュシオン、参る!」
今までの授業で一番、真面目な顔つきで彼は飛び込んだ。実に美しい軌跡である。しなやかな飛び込み、着水音も最小限の完璧な飛び込みを見せる。
「エクセレント」
統括教頭をして、文句のつけようがない飛び込みであった。其処から続々と三学年の生徒たちが飛び込んでいく。逃げられないのならさっさと飛び込み、泳いで終わらせる。彼ら、彼女らからは悲壮感にも似た覚悟が漂っていた。
そして、
「いってらっしゃい。クレンツェ」
「嫌だー!」
どれだけ奇麗に飛び込もうが素早く泳ごうが、すでに不可、補習が決まっているディン・クレンツェもまた先生の手によって飛び込み、させられた。
最後の最後まで見苦しい様は、いっそ清々しさすらあった。
「よーし、やるぞ!」
「……」
最後に残ったのはクルスと女生徒の二人であった。クルスは横目で珍しいな、と思う。彼女は成績上位で、こういう競い合う形式だと我先にと行くタイプだと思っていたから。あまり話したことはないので印象でしかないが。
「さあ、リンザール。メル。君たちの番だよ」
「はい!」
「私なら出来る。私は出来る。私は天才、天才は私――」
「良い旅立ちを」
先生に背を押され、二人はほぼ同時に飛び込んだ。クルスはワクワクしながら、少女は死にそうなほどに青ざめながら――
着水。それと同時に、
「……!?」
クルスの全身が悲鳴を上げる。彼は知らなかったのだ。海水が冷たいことに。何なら夏の終わりに海を渡る際、触れた経験が最初で最後であったため、海は暖かいと誤認していたのだ。まず、その冷たさに驚愕する。
刹那で彼は理解した。皆の表情の理由を。
無知とは時に悲劇を生む。
ゲリンゼルには海がなかった。泳げるような川もなかった。泳ぎの技術を体得する必要と機会がなかったのだ。
そして第二の誤算。これは騎士の訓練ゆえ、当然入水の際は衣服着用である。まだ制服であるのが三年への甘やかし。五年六年ともなると戦闘用の外装をまとって水泳させられるため。より地獄を見る羽目になる。
服が水を吸い、とんでもなく重くなる。なんか入ったら行ける気がする、と言う根拠のない自信は実体験により消し飛んだ。泳ぎの練習をしておくべきであったのだ。それこそまだ海が温かい内に。死に物狂いで。
ゲリンゼルの中のクルス、大海を知る。先生の剣みたいで奇麗だな、と言う感想はきっと、もう二度と抱かない。そんな確信と共にぶくぶくと沈む。
そんなこんなで――
「「おぼ、うぼぼぼぼぼぼぼぶ、ぼばばばばばばばばッ!?」」
今の惨状であった。
「……よろしいですか、統括教頭」
「……助けてあげなさい」
「……イエス・マスター」
救出された『二人』は当然、不可、後日補習を受ける羽目になった。クルス・リンザールは今日、また新たなる事実を知ったのだ。
冬の海は寒くて深くて足がつかなくて怖い場所である、と。
○
「よーし、じゃあ補習を始めようか。先生、少しクレンツェを捕まえてくるから。少々二人で待っていてくれ。では失礼」
風のように去っていく先生。残された二人。
「……言っとくけど私の故郷には泳げるような場所がなかったの。マグ・メルにも泳ぐ授業なんてなかったし、学習する機会がなかっただけだから!」
「……それ、俺もだけど」
「一緒にしないでよ、落ちこぼれ」
「……」
クルスと同じ時期に準御三家、マグ・メルからステップアップとして編入してきた少女、ミラ・メルが噛みつくような視線でクルスを睨む。
前々から少し感じていたことではあったが、ミラ・メルはどうやらクルスが気に食わないようであった。同じ編入生、仲良くしようと思うのだが、彼女の方にその気は微塵もないようであった。今まで会話の一つすらなかったことがそれを証明する。
「私は泳ぎの技術なんてすぐに体得して、補習なんて速攻終わらせるから。くれぐれも私の邪魔しないでよね」
「……わかったよ」
初見のジュリアを思い出すツンケンっぷり。少し似ているが、何だかんだと優しかった彼女の比べるとなんだかなぁ、とクルスは思う。
翡翠の髪を短く切りそろえ、猫のような眼は鋭く前を向く。美人ではあるが近寄り難いオーラと言うか、近寄るな感が充満していた。
そんな二人と、
「……きゅう」
「お待たせ。少し気絶させちゃったから、とりあえず二人から始めようか」
懲りずにまた逃げ、先生に気絶させられ縄でぐるぐる巻きのディン。
三人の補習が今、始まる。
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