ろうかの怪談・・・

私誰 待文

怪談「一人暮らし」

 社員寮に帰るころには夜中の一時を超えていた。タクシー代をはらった男は痛む目と明日の分の仕事に憂鬱ゆううつとしながら、自宅のドアを開けた。

 1LDK、彼女はいない。男は廊下の電気をけないまま、手探りで壁に掛けてあったリモコンを手に取ると、リビングルームの明かりを灯した。


 男は一人暮らしの会社員である。新卒ではたらき始めてから、早十年になろうとしていた。仕事の合間に彼女の一人も出来るだろうと楽観的だったが、男の考えは甘かった。今日も男は一人身のまま、ネクタイをゆるめつつ風呂場へと向かう。


 くもりガラスで仕切られた引き戸を開けると、湯気が男の顔をおおう。風呂場に電気が灯ると、露天風呂のような湯がすでに浴槽へ張られていた。


 男は職場へ出勤する前、給湯器に備え付けられていた〈タイマー〉で、この時間帯には湯船で満たされるようあらかじめ設定しておいたのだ。

 疲弊した独身男をいやせるただ一つの楽しみのため、彼は風呂への労力を極限まで避けていた。


 ほどいたネクタイとワイシャツ、白地のTシャツとトランクスを脱ぎ、洗面台の下にしまってある寝間着とバスタオルを出す。彼は湯を張る労はもちろん、湯上りの労も極力少なくしている。


 裸一貫になった男は蛇口をひねる。男の頭上のノズルから、ぬるま湯がいきおいよく降り注ぐ。この瞬間から、男はシャンプーとボディーソープ、洗顔料を用意する。

 せせらぎのような音に熱がこもりだす。流れる癒しの湯を浴びながら男はシャンプーヘッドを数回押し、頭皮になじませんばかりに洗髪する。


 その後、ボディタオルにソープ液を射出して、全身を多少荒っぽくさする。つい一年前までは針のむしろに入れられたようで気味が悪かったこのボディタオルでの洗体も、今では彫り出した原石を加工するがごとき恍惚へと変わっていた。


 あかを体から流し落とすと、仕事の嫌な疲れも水と共に流される気分になる。男はそんな妄想をしながら、洗顔液を手に広げる。

 男が洗顔料を使用しだしたのはここ数ヶ月、きっかけは同期と昼食をっていた時だった。

「この前娘を抱きかかえたらさ、加齢臭が原因で娘に泣かれちまったよ」

 まゆを八の字にして笑う同期。一家の大黒柱にありがちな笑い話をしながら弁当を食べる一幕から、男は泣かれる娘どころか交際している人もいないのに、顔のケアだけは気を付けていた。


 五分後、洗顔の時間を終えたら、いよいよ男のお待ちかねである。


 風呂の温度は四十三度、入浴剤は月に三度。男は爪先からゆっくりと、クッションに体をしずみこませるくらいの速度で湯船に全身を満たした。


「あぁぁぁぁ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~…………」


 押しのけられた湯水が決壊したダムのように、風呂場のタイルを浸水させていく。男はゆっくりと時間をかけてその轟音を聴きながら、今日一日の激務で体躯たいくに積まれた疲弊を癒す。


 この時間が最も、男にとってに至福であった。

 暖かな湯に全身を委ね、心腹の奥から安堵の声をらす。全ての生物の始祖は海から始まり、全ての生物は母胎の羊水で守られて育つ。故に生物の体にはが刻まれている。それが疑似的に満たされる入浴の時間こそ、生物としての原初の快楽であり幸福だと、男はこの時間に再確認するのであった。


 時間にして三十分。男は大人の男らしく、緩みきった体と全身を徐々にめ始める。いつまでも湯船にいるわけにはいかない。始祖は進化のため海から陸へ遷移したのだし、嬰児えいじはいつか母の胎から出なければいけない。

 男は浴槽から体を起立させると、勢いのままに風呂の栓を抜いた。男一人しか住んでない以上、これ以上湯を溜めておくのは勿体ない。


 脱衣所まで足を運び、予め用意しておいたバスタオルで全身を細かく拭く。そして下着と寝間着に着替えると、そのまま男は洗面台へおもむき、男性用の化粧水を顔にった。これは先述の同期の話で危機感を覚えた男の、ささやかな老いに対する抵抗だった。


 この後に残るのは、電気をけたままにしたリビングへ足を運び、ネットサーフィンをしつつ晩酌をして歯をみがき寝室で泥のように眠る。ここ数年はずっとそんな調子で過ごしていた。


 化粧水の工程を終えた男は脱衣所を出て廊下の電気を消すと、明かりが灯ったままのリビングへ晩酌をしに向かった。



 〇



「どう?」

「……どうって」


 どこかの会社の昼休み、上司の青年が得意げに意見をうかがった一方、スマホ片手に話を聴いていた女の表情は不満げだった。


「私、『怪談を話してください』っていったのに、先輩ずっと風呂好きの男の話しかしなかったじゃないですか。何にも怖くなかったです」

 納得がいかないと文句を言う女に対し、青年はふふんと余裕の態度で応えた。


「これは"意味が分かると"怖いんだよ。この話の最初、男が家に帰ってきた付近の行動を思い出してごらん」

「えっと『1LDK、彼女はいない。男は廊下の電気をけないまま、手探りで壁に掛けてあったリモコンを手に取ると、リビングルームの明かりを灯した』でしたっけ?」

「一字一句ちゃんと覚えられてると怖いね。じゃあ、この話の終わりはどうだった?」

「『化粧水の工程を終えた男は脱衣所を出て廊下の電気を消すと、明かりが灯ったままのリビングへ晩酌をしに向かった』ですよね」


 淡々と女が引用し終えると、途端青年はしたり顔のひとみを輝かせながら、不敵に笑った。


「つまり、男が自分で電気を点けたのはリビング・脱衣所・風呂場の三か所のみ。なのに男は風呂場から出た後、何故か廊下の電気を消している。男は一人暮らし、ここからみちびき出される恐怖はそう」

 そこまで一息に話した後で、青年は突如真剣な表情で語った。


「――""


 〇


 解説し終えた青年はすぐに硬い表情を緩めて女に微笑ほほえんだ。

「これは有名な〈意味怖〉だね。俺が怪談話を漁ってた昔に飽きるほど読んだやつだけど、後輩世代じゃ知らないか~」


 青年はチェックメイトを決めた棋士のように笑う。

 だが女はスマホを見ながらぽつりと、青年の怪談への感想を返した。

 

「タイマーの設定解除し忘れてただけですよ、風呂の時と同じで」


 青年は恐怖した。


 ドライな後輩世代に恐怖した。


 昼の太陽が休憩室に、乾いた陽光を投げていた。

 


                                 〈終わり〉

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ろうかの怪談・・・ 私誰 待文 @Tsugomori3-0

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