第145話 報告書に不具合があったり
あんなところで寝ようとしたのは本当に失敗だった。昨日きちんと部屋のベッドで寝たのに、おととい玄関で夜を明かした疲れがちっとも取れない。
給湯室でマグカップにインスタントコーヒーを掬って入れながら、一晩中真横で目を閉じて座っていた芽生を思い出す。眠っているのかいないのか、細い腕がだらんと膝の上に落ちて、髪の毛がさらさらと零れて。夜は肌の手入れを徹底的にして、ストレッチやマッサージまでしているヤツだ。肌はきれいだし、寄りかかられるとそれなりに「美女ではあるな」という感想が出てくる。
寝る準備をきちんとして清潔な布団でなければ眠りません、といいそうな芽生が、玄関で座って寝るというかなりの珍風景に、私のほうは全く眠ることができなかった。
たぶん芽生も熟睡はしていない。深夜にトイレに立とうとしたら腕を掴まれた。
「トイレだって。外行かないってば」
「退かない」
「わかったってば!」
なんだろう、あれ。私に罪悪感を抱かせて、二度と同じことさせないようにする、みたいな意図があるのかな。あれのせいで、夜遅くにでも帰ろうものなら、また芽生が玄関で寝るのではないかという想像が先走る。
マグカップにお湯を注いで戻ってくると、フロアの数人の顔がこちらを向いた。
「…………?」
なんとなく嫌な予感がして、ふと見ると、顔を真っ赤にした小林まどかがパソコンの画面を見つつ、電話機に向かってぺこぺことお辞儀を繰り返していた。
「申し訳ありません……! いえ、いえ、決して」
パソコンの画面をスクロールしていた小林まどかの指がマウスをクリックする。フロア中央にあるプリンターから紙が出力される。
何かあった……?
「ふくっ……不具合でございます。いえ、決して、笑ったわけでは。はい、あ、いえ、いえ、復唱です、復唱で。申し訳ありません。もう一度復唱いたし……ます。ふ……ふぐ……、ふぐ、ふ……不具合報告書にっ……お直し致します!」
回るような早口の小林に、いつもと違う鬼気迫るものを感じる。
もういいですから早めに送ってください! と、受話器の向こうから声が聞こえる。電話ごしに聞こえるぐらいだからかなりの大音量だ。怒声……?
「すぐに新しいものをお作りして郵送致しますが、あ、データでよろしいですか。ありがとうございます。はい、それでは。すぐにお送りいたします。ハイ、ご連絡ありがとうございます。ワタクシに至らない部分がございましたこと、ご不快な思いをさせてしまいましたこと、本当に申し訳ございません!」
ちらっと向けられる同僚の視線から、やってしまったのが自分だということが容易に想像できた。
受話器を置いた小林まどかはプリンターに大股で歩いていき、
「藤森さん、ちょっと」
とこわばった声で私に声をかけると、私の机にプリントしたものを置いた。
「な……直して、すぐに……データ送って!」
「すぐ確認します!」
悲鳴のような声で経緯を捲し立てられると思ったら、小林はそのままトイレの方向に大股で向かって行った。
机の上には、おととい私が作って郵送した、調査報告書の表紙があった。調査で出た不具合をピックアップしたものだ。うちの会社では、建物関係の各種調査も行っている。現場の調査員が撮った写真と手書きの文を見て、私が報告書にした。表紙の中央に記載された文字を見て、
「おふっ……」
腹の底から変な声が出て、口を押えた。
――「フグ隊報告書」。
よりによってデカデカと、太字でくっきりと印字されていた。
「あとで謝ったほうがいいよ?」
同僚が脇の下を突いてきたので、また変な声が出る。
「小林、吹いちゃってさ。わかってんのか復唱しろ! って言われたみたいで、『フグ隊報告書を、不具合報告書にお直し致します』って二回復唱させられてた。復唱も復讐って間違えて言って突っ込まれててさ。笑っただろ笑っていませんで揉めてたから。それであの通り」
「…………」
やべぇ。
「……これは、ぁぁ……」
小林に心から申し訳ないと思ったのは、この日が初めてかもしれない。
申し訳ありませんでした、以外の何の言葉も浮かんでこない。
「先方も、吹いちゃうぐらい心の余裕があればいいのにねぇ!」
「私が……ワルイデス……いやまじで」
これは……あれだ。
玄関でうとうとしただけで出勤した、寝不足の日に作ったやつだ。なんの言い訳にもならないが。
すぐに報告書の表紙を修正し、PDF化し、先方宛のメールに貼り付け、お詫びの文章を推敲して送信する。送信したその手で電話をかけ、先ほどの担当者を出してもらう。
よりによって担当は、電話でやり取りをすると大抵何かしらの説教をしたがるので有名な、癖のある相手だった。初めて電話を取った時「会社名をフルで言うな、株式会社とか要らない、株式会社抜いた社名と名前だけで充分なんだ。手短に電話を取れ」と新人の私に説教をしてきたのがこいつだ。取引先要注意人物とまではいかないが、社内では新人には必ず「気をつけて」と周知される、やや面倒な相手なのだ。
まさかヘラヘラ笑いながら謝るわけにはいかない。が、これは……。
笑ってはいけないと言われると余計に笑いたくなるものだ。これ……自分も復唱したら危険なやつだ。意識して、心を無に……無にするのだ。
ただ「間違えた」ということ、先方に要らぬ手間と時間をかけさせてしまったことに意識を集中しなくては。
「報告書をお作りしたのが私でして、はい。大変申し訳ありません。いま、取り急ぎデータをお送り致しました、ご確認頂けますか?」
「何度もご確認するのはそちらの仕事だと思うんですけどね? こちらも先方へ提出す・る・ん、で・す・よ! どう考えたっておかしいだろ。読んでみろ、前のやつ。声に出して」
……きた。
悪いのは私だけど、こいつも、もう、ちょっと楽しんでないか?
心を無にして、隊列をなしたフグを頭から追いやる。代わりにプリンを想像して脳を甘さで麻痺させる。
「不具合の部分を、フグ隊でお作りしてしまっておりました。正しくは不具合報告書です。今後気をつけるように致します。はい。お手数おかけしまして、申し訳ございませんでした」
「はい、もういいです。今度から気をつけてください、ね!」
そういって向こうの電話が切れた。
「すげーな」
隣に皆堂が立っていた。電話途中から聞こえてきてた忍び笑いはこいつか。
「ピクリとも笑わねーの、すげーわ。フグの破壊力ハンパねぇな。流石にヤシに同情したわ」
「うう」
唸って、部長にも報告と謝りに行った。部長は押し殺した声で「気をつけるんだよ」と言っただけであった。
「小林先輩に謝ってくる」
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