第147話 お財布事情に問題があったり
入り口を入ってすぐに、大きな生け簀があった。いくつかの水槽に分かれて、ふぐや蟹などが入れられている。脚の長い大きな蟹に興味がわいて、思わず水族館にでもいるようにじっくり見てしまう。
「全席個室でございますので。お履き物はそのままでどうぞ」
やたらと品の良さそうな着物姿の店員がやってきて、脱いだ靴を棚に入れてくれる。
通された個室は木の香りがした。和室だが、テーブルと椅子が設えられている。ここなら、高齢で膝が痛くなっているような人でも楽に座って食べられるだろう。ただ、とにかく店の雰囲気が……高級そうだ。
フグって、そういえばあまり食べたことないけど、高いんだっけ。
「あなた、蟹とか、何かアレルギーはあるの?」
「特に何もナイデス……」
席について固くなっていると、小林がメニューを開いた。
「このコースでいいわね?」
コース? コース料理を食べるのか。
メニューを覗いてみる。
「うへぇあぇ……」
「なに、変な声を出して」
「いちまんろくせん……えん」
目が回りそうな値段を目にして、くらくらしてきた。これ、一人、一万六千円か⁉︎ たけーよ! 財布に一万円しか下ろして来なかった!
「あの、ちょっとそこのコンビニで、お金下ろしてきます」
「ばかね。何も言わずにこういうお店に連れて来たんだから、さすがに私が出すわよ」
そう言ってさっさと小林は店員を呼び、一万六千円のコースを指さした。
「電話で予約した通りで大丈夫です。このコースでお願いしますね」
※
「きれい……!」
濃紺の陶器の皿に乗った、透けるフグ刺しを見て、思わず声を上げた。幾何学模様といってもいいほど精密に並べられた薄い刺身は、水の上で花開く蓮のようだ。
「プロポーズのときなんかは、ハートに並べてくれるんですって」
「そうなんですか。可愛くもできるんですね。私、初めてでなんです。フグ食べるの」
平たい皿に立体的に美しく盛り付けられた前菜や、淡い黄色の柚子が散らされた海老しんじょう椀。トパーズのように光を反射しながらプルプルと揺れるフグの皮の煮凝り。大皿から小鉢に至るまで、見とれてしまうような料理を目にして、「美味しそう」という気持ちと「眺めていたい」という気持ちが戦いを始め、しばらくして私のお腹から、くぅ、と小さな急かすような音が漏れた。
小林に多分、聞こえた。
「二人しかいないんだから、たくさん食べてちょうだい」
いただきます、と呟いて、どうやって食べるのかわからず、小林を盗み見る。
小林が箸をとる。
あれ……。
「どうしたの。食べて」
「あ、いえ」
小林の箸の取り方が、やたらと綺麗だったのだ。
小林は小皿のたれにもみじおろしを入れ、フグにたれをつけると、アサツキと一緒に口に入れた。
あ、やっぱ綺麗だ。
小林はお椀や小鉢を持つときも、必ず箸をいったん綺麗な仕草で置いていた。椀も両手で丁寧に扱うことになり、やたらと所作が美しいのだった。会社ではあまり気付かなかった。
少しだけ小林の真似をしてみた。渡し箸とか迷い箸はしないようにずいぶん親に言われてきたけれど、箸を持ったまま椀を片手で取るのが癖になっている。それがダメなのかどうかは良くわからない。
たれをつけて……アサツキも一緒に、と。
ぎくしゃくと、淡く光るフグを口に運ぶ。
淡泊で癖のない味だった。もっちりとした嚙み心地だ。たれと合っていて美味しい。
「美味しい、さっぱりしているのに、美味しいです、これ」
「でしょうね」
能面のような顔で小林は言った。
「唐揚げありますね! これ、フグの唐揚げでしょうか?」
「でしょうね」
能面は同じ返事を繰り返した。
「で、反省はしたの?」
「…………」
そうだった。これは反省会だった。
「次からどうするの?」
「作った後と、郵送前に、もう一度目を通す癖をつけます」
「じゃなくて」
小林はフグのひれ酒に口をつけ、音もなく飲んだ。
指先揃ってるな。これはまじで綺麗だな……。
ぼんやりと見惚れていると、小林の綺麗な細い指が酒を置いた。見上げると、小林は背筋をまっすぐに伸ばして不機嫌そうに私を見ていた。
なんという隙のないお説教ポーズ……。
「この一万六千円のフグに誓いなさい。『不具合とフグ隊はもう間違えません』って」
これは……。
「あなたのせいで、私が何回復唱させられたと思ってるの? 間違えたのはあなたなのに」
「ゴメンナサイ」
「ゴメンナサイは要らないわ。今日、何回も復唱させるから」
うへぇ……!
「このフグに誓って……」
小林の肩がなんとなく震えている。顔は能面のままなのに。
「不具合とフグ隊はもう間違えません」
「もう一度」
「このフグに誓って、もう不具合とフグ隊は間違えません……」
小林の口の端が少し上がった。
「もう一度」
うわ。もう勘弁してくれ。せっかくのフグの淡白な旨味が、小林のアクの強さに消されていく……。
「フグに誓って! 不具合とフグ隊はもう間違えません!」
小林は眉間に皺をよせ、しみじみと噛み締めるように、二回ほど頷いた。
「あの……もういいですか」
「やっと、ちゃんと嫌そうな顔になったわね。それでこそ記憶に残るのよ……じゃ、もう一度」
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