第117話 記憶が入り込んできたり

 プリンを食べる時だけ、体の距離が近い。頬に触れられると近さに面食らうのに、プリンの時間は近いのが当たり前になってしまった。いつの間にか慣れさせられてしまっている。

 シャインマスカットをスプーンに一粒乗せて、彼女は言った。


「わがまま娘さん。どうぞ?」


 なんでこいつは、こんなに私を甘やかす?


 ふわんと香るような笑顔に、目が惹きつけられて、戸惑う。笑ってみせたのが私の為だと感じたからかもしれない。視線が完全に私に注がれている。


 いつから、こんな優しい空気をまとうようになった?


 

 ノートパソコンの上を滑る指が、今さっき実際にあったことをなぞっていく。「わがまま娘さん。どうぞ」、のセリフだけ削除する。桜のわがまま行為を書いていないから、前後がつながらない。「どうぞ?」だけでいいか。


「ど、う、ぞ……」


 入力したとたん、芽生の声が蘇ってきた。口内に触れたマスカットの触感や、差し出されたスプーンの鈍い光まで思い出す。


 口に含んだ粒が口の中でシャリンと音を立てる。芽生の視線のなかで、酸素を含んだような果物の味わいが私の血液に息を吹き込む。体が急に軽くなる。

 スプーンの上の緑が、芽生の柔らかそうな手の中で光を帯びていた。味わっている私を、じっと満足そうに見つめる目。目が合うと、芽生が笑った。いつものリビングが、急にまぶしく感じて、涙が出そうだった。


「……あれ?」


 入力してた。


 これじゃ日記だ。芽生って書いちゃってるし。どこからどこまでが創作で、どこからが自分の感覚なのかが、曖昧になってくる。あぶねえな。


 しかも美化してるし。シャリンてなんだよ。おしゃれに書いたつもりか。「シャリン」じぇねえよ。シャインだよ。シャインマスカットだよ。


「芽生の」と書いてしまった部分を、ひとつずつ、「彼女の」「和美の」に直していく。ついでにシャリンも直しておく。


 ――口に含んだ粒が口の中でシャインと音を立てる。


 なんか……合わないな? シャインってなんだっけ、擬音語? ほかにもっとこう……ザシュッ? 思い浮かばない。まぁいいか。もう頭も働いてないし。後で推敲すればいいから次行こう。


 ――彼女の差し出すスプーンが特別に見えて、


 そこまで書いて、息を吸って、吐く。ゆるゆると胸の奥から感情が昇って来る。もういちど深呼吸をした。


 あのスプーンは、ずるいだろ。


 今日、芽生がプリンを買ってきたのは、たまたまだったんだろう。

 でも、自己嫌悪にぐったりとして、大人とは思えない言動をしたあとに訪れたあの時間、差し出されたスプーンは、食べるという本能の世界に私を戻した。私を、ただの生きものに戻した。


 会社でしたことを忘れて、私は、何も考えずに芽生の前にいた。子供みたいになってしまっている私に、ただの生きものとして、食べろ、息をしろ、と言われているみたいな……。


 学校はお休みね。トマトなら食べられる? プリンは?


 風邪を引くと、母が、茶碗蒸しやプリンを食べさせてくれた。早く元気になりなね、と言って。幼稚園のときは抱っこで食べさせてくれたし、小学校にあがっても、時には、にいにが膝に乗せてくれた。


 実家の台所に窓から差し込んでくる一条の光。朝の光の中で洗われたトマトが、母の優しい手の中で水を撥ねさせていた。 


 あの鮮烈な景色のなかで、私は、たった数日学校に行けないことで遅れる勉強のことや、自分が何者なのかを考えたりはしなかった。学校の宿題の作文に書く「しょうらいのゆめ」の事を考えていたんだった。

 幼い世界観のなかでは、人間は死なず、サンタクロースは北の国にいて、たしか、杖を持った神様もいた。お菓子屋さん、宇宙飛行士、アイドル、学校の先生、美少女戦士。モンスターと戦うカッコいいヒーロー。将来の自分を想像するときに、「それは無理だから」といちいち自分でツッコミを入れる事も、伸びていく想像の世界まで狭めてしまうようなことも、しなくて済んだ。

 こういうのを、幸福な子供時代というのだろう。私は、いちゃいけない存在ではなかったし、そんなこと感じたこともなかったんだ。


 そのままの自分を許されたあの世界は、幼い私に周りが用意してくれ、守ってくれた世界だった。

 もうとっくにそういう世界を失う年になって、狭くなっていく世界の息苦しさに、足をばたつかせたくなる。……なんのために、小説書いてるんだよ。現実が満たされないからか?   


 いつからだろう、居心地が悪くなったのは。


 高校時代、ぼんやりと唯花の事を考えていたときに、リビングでテレビに映ったシーンに、母の声が重なった時かもしれない。


「あら、気持ち悪いわね。早く消しちゃって」


 早く消しちゃって。


 ……テレビを?


 うちの親は毒親ではない。傷つけようとして私を傷つけたことは一度もない。

 なんの悪気もない一言が、こんなに長く娘の耳に残っているとは思いもしないだろう。 

 悪気はない、悪気はない……何度も唱えるあいだ、単語はいつの間にか「消えちゃって」へと響きを変え、私の中にゆっくりと深く刃を潜り込ませていき、唯花の笑顔にぎゅぅと胸が揉み込まれる時にたまに刃先を覗かせた。

 実家を出て、こんなに経つのに、思い出して息を止めている自分がいる。


 母を責める気持ちにはならない。いまさら言うには時間が経ちすぎている。何も悪くない、母は……実際に感じた事を口にしただけ。自分が人にうっかり言わない自信もない。


 悪気のない、たった一言。

 たった一言の、悪気のない……。


 本当に、今日の私は、変だ。

 どうして急にこんな事を思い出したのか。 

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