第105話 最悪なことをしたのがわかったり

「LGBTQ」という単語を出すのに、かなりの勇気が要った。


 何言ってんだこいつって思われたらどうしよう。


 課長年配だし、ニュースとか見てるし。「LGBT」まではわかっても、Qとか+とか私がつけて、なにそれって調べられたらどうしよう。ものすごい活動家だと思われるかな。敬遠されたり?


 ……私もそうだと思うかな。


 どくどくと心臓が暴れはじめる。

 膝の上で握った手が震え始めているのがわかって、手の甲に爪を立てた。


 思ったら、どういう顔をする?


「月影さんがそうだからという意味?」


 いきなり立ち上がったせいで椅子が床を擦って甲高い音を立てた。

 課長と小林は音に驚いたようだ。身体をひき気味にしてこちらを見ていた。


「いえ、ちが、そうじゃないです」

「月影さんはそういうことなの? そうか。逆にそうだとわかれば、そういう対処をするよ。本人の意向を聞いたり、周りの理解を得られるよう声かけしたり、更衣室をわけたり、色々できるよ」


 あっ……。

 まずい。


「今のは、忘れて、忘れてください」


 そもそも、私が勝手に連想しただけであって。


 本人のことを何も知らないくせに。

 これじゃ、事実でないことを吹聴したも同然だ。


 もし、たまたま事実だったとして、それはそれで、本人の了解もとらずに、勝手に周りに言ったことになる。


 私が一番嫌いな、勝手な想像で噂話をするようなことを、してしまっている。


 ――下手にいろんな共通の知り合いに相談されると、わたしは困る。


 プリンマニアがまさに言っていた言葉が思い出されて、血管が凍りつくような気がした。


「月影さんとは、ほとんど話したこともないんです。私にとっては、ほんと、知らない人に近いんです」

「ほんと? 月影さんからそういう話を聞いたんじゃなく?」

「勝手に私が、月影さんじゃなくて、社外のぜんぜん別の人の話を聞いて、考えただけです!」


 立ち上がったままで一気に言った私に、課長は身を引き気味にしたまま、手のひらで椅子を勧めるしぐさをした。


「最近、いろいろ、ニュースで取り上げられたりはしてるけど」


 課長は私をなだめるように低い声で言う。


「簡単に言っちゃだめだよ。もし月影さんがそうだったとしても、あなたは当事者でもなんでもないでしょ? 本人が何にも気にしてないことを、周りが勝手に想像して差別だのなんだのと騒ぐのは違うと僕は思うんだ」


 周りが勝手に想像して騒ぐ。……確かに、私がやっているのはそれだった。本人の預かり知らぬところで、勝手に噂話をして。

 そんなつもりはなかったけど、そんなつもりだったかどうかは関係ない。結局は一緒だ。


 自分だったらどうだろう? 何も言ってもいないのに自分がやられたら。


「正直言ってね。本人が声を上げたわけでもないのに、それが原因で社会人として必要な教育を受ける機会を奪うとしたらね、」


 課長は語気を弱めた。内容がきついことを心配して、きつい口調で言わないように抑えたのだ。


「それこそ、逆に差別だよ」


 ――それこそ、逆に差別だよ。


 そう……なのか……。


 これは、私が当事者だと言ったら済むことなのか? 私が当事者だろうが関係ないのか? 私が何かを妨害してることになるのか。そうかもしれない。


 わからない。なにが正解なのか。


 当事者です。

 そう言うことを、頭の片隅で一ミリも考えないわけではなかった。


 ――そうだとわかれば、そういう対処を。周りの理解を得られるよう声かけしたり、更衣室をわけたり。


 たぶん、この時、私は心の中でプリンマニアに助けを求めた。

 あの人だったら、何を言うだろう?


 プリンマニアを思い出したら、急に、昨日チャットした内容が頭の中に蘇ってきた。


 ――毎朝顔をあわせて。


 寝起きとかパジャマ姿とかも見ていて、お風呂上りとかも見てて、プリンあーんとかして。無理だろ。


 小林が私の顔をじっと見ている。その目が私の目を通して、考えていることを透かし見ようとしているようで、急に怖くなる。


 更衣室で一緒になる同僚の顔が、歪んだ表情で映像になる。

「えっマジで? キモっ!?」の言葉が、皆堂の声で再生され、ぐるぐると、芽生や、同級生たち、そして唯花の顔が浮かび始める。


 肌をサーッと冷たいものが覆っていく。感情が高ぶるのを抑えようとしてわざと深い呼吸を繰り返す。


 怖いよ、鬼がくるよ、鬼はきっと笑いながら石を投げてくる、ここからいなくなれって、きっと石を投げてくる。やめて、痛い、痛い、痛――。


「ちょっと、大丈夫?」


 またか。また、私はここに戻るのか。


 私は、こんなに自分が怖がっている、人の輪の真ん中に、自分以外の人間を。

 月影さんを。

 私が相談を受けたわけでもないのに。月影さんのことを何も知らないのに。

 自分が恐れているような場所に、引きずり出してしまうような。そういうことをしようとしてたんだ。

 自分は安全な場所にいるままで。自分の身代わりに。


 余計なことは何もせず、見守る。――余計なことは何もせず。

 余計なことをしない、というのは、大切なことだったのに。


「私の、勘違いです。勘違いで月影さんの間違った噂になっては困ります。今日話したことは、絶対に無かったことにしてください。すみませんでした」


 課長は私の様子をじっと見て、うん、と頷いた。そして、私の欲しかったはずの、「何もしない」許可をくれた。


「でも、気持ちはわかったから。君はいいや。あの二人には、君からもう言わなくていいや。わかった」


 君からもう言わなくていいや、わかった、という言葉に突き放されたような感覚を覚えた。そう感じた自分自身のことも、私はもう、嫌でたまらなかった。

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