第106話 帰らされたり
「あおい、真っ青じゃない?」
「大丈夫? ちょっと顔色悪いよ。休んできたら?」
同僚が話しかけてきたが、大丈夫、と答える。
「小林とミーティングしてたでしょ? 何か言われた? 何か嫌な事あったんなら聞くよ?」
ひそっと耳元で囁かれるのは、気遣いの言葉だった。
違うんだ。何か言ったのは、私なんだ。嫌なことを言ったのは、最悪なことをしたのは、私のほうなんだよ。
「何も、言われてない。ありがとう。ほんと平気」
デスクに戻って、気分を落ち着かせるために、机の上に出しっぱなしだった書類をまとめる。これは、できれば今日か明日やる書類。こっちはもっと先でいいヤツ――いきなりにゅっと顔が出てきて、ひゃっと声が出る。
皆堂のややギラッとした光る眼が私を見ていた。至近距離で私の顔をじろじろと眺めている。居心地が悪い。
「課長!
大きな声で、皆堂が叫ぶ。
いつも一対一では「先輩」と呼ぶのに、人前では「藤森さん」と呼ぶんだ……意外な感じがする。
そういえば、皆堂が「先輩」と呼ぶのは私に対してだけで、年上の同僚を呼ぶのはいつも名前呼びだ。
課長は私の席までやってきて、私をじっと見つめた。
「大丈夫だよね?」
「大丈夫です」
「大丈夫じゃないでしょ! 顔色悪すぎ。帰宅ですよ帰宅!」
皆堂はさっさと結論づけて、課長にそうでしょ? と迫って睨みつけた。
「うん、まぁ……確かに顔色悪いかな。体調悪いなら、業務はほかの人に引き継いで、帰ろうか……」
課長は結局私に帰宅するように言った。今日中に絶対にやらないといけない仕事は、今日はない。皆堂はにっと笑って、「ほい先輩、ほい帰宅」と私を急かして押し出した。
家に早く戻りすぎたせいで、やることがない。鏡をチェックし、メイクを落とした。
そんなに顔色悪いかな。
冬の乾燥のせいで突っ張りやすくなってきた肌に化粧水を浸み込ませる。
乳液が無い……。昨日最後を使って、今日帰りにドラッグストアに寄るはずだったんだ。買いそびれた。
ごめんとつぶやきながら、芽生の乳液を借りた。後で借りた報告しとかないと。
いつもモノを借りるのは私ばかりだ。芽生が私のを時々使ってくれれば、申し訳なさもなくなるんだが、ヤツは私と違って物の管理もしっかりしている。在庫を切らすこともない。
芽生の乳液を借りると、なんだか芽生のしっとりとした肌に直接癒される気がした。
――私、ちょっと、やっぱキモくないか?
好きでもないはずの芽生でこのありさまだよ!
ものを借りた申し訳なさと相まって、よけいに気分が沈んできた。
リビングでオレンジのお茶を入れる。ふわんと上がってくる香りを浴びて、部屋を眺める。
――寝起きとかパジャマ姿とかも見ていて、お風呂上りとかも見てて、プリンあーんとかして。
無理だろ。
じくじくと胸が痛んできて、修学旅行中の大浴場で、唯花の裸を見たことを思い出す。
唯花がどういう顔をしていたかは覚えていない。
ただ、綺麗だと思った。いやらしい気持ちには全くならず、というか、ならないうちに、一瞬で私は目をそらした。
そして、その一瞬だけで、唯花の裸体は私の目に焼き付いた。
何度もキスしたいと、抱きしめたいと感じていた。それでも、裸を見たときには何もしたいと思わなかった。
思わなかったけど――ただ、焼き付いた。
唯花以外の裸は、見ようと見まいと、どうでもよかったし、興味もなかった。覚えてもいない。唯花だけが、一瞬だろうと、裸だろうと裸じゃなかろうと、ずっと私の意識に焼き付いていた。
私に好かれているのをわかっていて、意識してたら、お風呂で一緒になるの、唯花、嫌だったかもな。そりゃ意識するわけにいかないよね。意識したら一緒にいられないからね。
「ふう……」
吹っ切るように、部屋を眺める。
ビーフシチューの箱が目に入る。のろのろと棚まで体を引きずっていき、箱を手に取った。
作ったな、ビーフシチュー。
言ったんだよな、唯花。おうちにお邪魔して、一緒にビーフシチュー作ったとき、言ったんだ。魔法使いになったみたいだって。色が変わって、魔法みたいだって。ねるねる系のお菓子かよ。
「ビーフシチューは、色が変わって! ちゃらららっちゃら~~ん」
バカみたいにはしゃいだ日のことを思い出す。
野菜かごに積んである玉ねぎを二つ手に取って、皮をむいてまな板に押しつける。濡れた包丁でゆっくりと刃を入れた。
現実は魔法ではない。ビーフシチューは別に好きな色に変わるわけじゃない。玉ねぎは切れば涙が出る。
プリンマニアさん。……プリンマニアさん。
私は今日、あなたに、なんの報告もできない。
ひとこと話せば、必ずだれかを傷つけるような気がする。考えていることが、ぜんぶ間違っているような気がする。
軽く炒めてから、下茹で野菜のパックを鍋に突っ込んだ。最近は下処理済の野菜が売っていて便利だ。ビーフシチューは短時間で完成する。
出来上がってしまうと、またやることがなくなった。こんな日くらい、丁寧にジャガイモの皮むきからやればよかったかもしれない。
いつもとは違う重い自己嫌悪が体の底に溜まっていた。課長や小林は、本当に誰にも言わないでいてくれるだろうか。ちらりとも言わないでいてくれるだろうか? 月影さんの件で私が話したことを。焦りの感情が体を乗っ取っていく。
月影さんの話のあとに、あんな話、しなければよかった。
なんで、あんな話、出してしまったんだろう。
もし、害のあるものを人に注入してしまったことに気付いたら、こんな気持ちになるのだろうか。
どのぐらいリビングのテーブルに伏せて、マグカップの模様を眺めていただろうか。足音が近づいてきて、人の気配が玄関の前で止まった。
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