第107話 帰ってきたり


 ごそごそとカバンを探るような音。


「ああ、鍵……」


 開いてるよ……。

 芽生に届くほどの大きな声は出なかった。部屋に明かりが点いていることに気がついたのだろう。鍵を回さないままドアが開いた。


「ちょっと……ちゃんと鍵かけなよ!」


 お小言はやめてくれ。今日だけやめて。お願い。


「おかえり」

「ただいま。今日のプリンはね」


 玄関で靴を脱いだ芽生が言葉を切って、動きを止めた。


「……どした?」

「なにが?」


 芽生がじっと私の顔を見ているので、目を逸らす。


「……なんか」

「顔色悪い?」

「うんまぁ」


 芽生まで言うなら、本当にひどい顔をしているんだろう。


「会社でも言われた」

「だいぶへんな顔してるよ。まるで、」


 芽生は何か言おうとしたが、私の表情を見てやめたようだ。リビングを横切ると冷蔵庫にレジ袋と見覚えのある紙袋をそのまま入れて、ちらっと鍋を見た。


「もしかして、なんか作ってくれてる?」

「うん」


 芽生がご飯を作る番だったけど、なんとなく。

 そう言うと、芽生は鍋の蓋をとって、なかみを確認した。


「ビーフシチューおいしそうじゃん」

「うん」


 生で食べる食材を芽生が買ってきていても、ビーフシチューなら、冷蔵庫に入れて明日食べればいいし。


 テーブルの木目をなんとなく見つめていると、その木目の上に芽生が手をついた。


「ん?」


 見上げると、芽生の顔がいつもより近くにある。思った以上にその目に心配するような光がちらついてるのが見えた。


「体調悪いの」

「そう見える?」

「だから聞いてる」


 精神状態は良いとは言えないが、別に体調は悪くない。どう言ったら芽生は納得するだろう?


「悪くないよ。なんかやる事なくてぼーっとしてた」

「あおいがやる事ないって言うの、初めて聞いたよ」


 やる事がない、わけはない。本だって漫画だって、読んでないものが溢れている。映画だって観ていないものばかりだ。

 プリン小説だって更新してない。


 ただ、今日の私は、そのどれもやる気がない。


 芽生は私の額に手の甲をつけた。

 こういう時、百合小説ならおでこくっつけるんだよな。実際はしねえよそんなこと。


「体調は悪くないって」

「みたいだね」


 肌が触れたせいで、思い出した。


「乳液借りた。ごめん」

「使ってていいよ」


 芽生はふいに、指さきで頬に触れた。

 ドクンと不自然な動きをする脈の存在を感じて、芽生を見ないようにする。


「痒くない?」

「わりと合うよ」


 近い距離で私を見つめている芽生と目が合ってしまったら、もっと不自然になってしまいそうで、目を閉じる。


 芽生の、柔らかい呼吸音が近くに聞こえる気がした。


「…………」

「…………」


 いつまで頬に触れているつもりだろう。


 そのまま頬を擦り付けてしまいたくなる。ちょっと待てよ。危ういな、これ。


 いつまでやってんだ、とツッコミを入れようと思うのに、なんとなく、それが言えない。じわじわと顔が熱くなってきた。


「顔色、少し良くなってきた……」


 芽生はそう言って、両手で私の頬を挟んだ。手で温めればいいとでも思っているのか。心配してくれているんだろうが、近いんだよ。近いんだよ、芽生。


 くそ、ほんといつまで……。


「……なんで目、閉じてんの」


 聞こえるか聞こえないかくらいの小さな声が耳に入って、身を捩って芽生の手を退けた。


「眠くて。さっさとビーフシチュー食べて寝ようかと思ってる」


 大嘘をついて、椅子から立ち上がり、芽生から離れた。

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