第108話 オレンジの香りがしたり
乗り換え駅で寄り道したせいで、いつもより帰りが遅くなった。
苺よりもシャインマスカットのほうが高かったから、トッピングでだいぶ迷った。
自分だけシャインマスカットにして、あおいが苺だと、自分だけ高いのを買うみたいだし――
かといって、あおいは苺のほうが好きだろうし。欲しがってないものを買うのは無駄遣い極まりない。
でも、季節のものを食べたいことだってあるよね?
シャインマスカットのほうをあおいの前に置いて、「苺も買ってあるけど、苺がいい?」と聞こう。
あおいが苺を選んだら、わたしの分のシャインマスカットを半分あおいの口に突っ込めばいいのだ。そうだ、そうしよう!
おつぼねぷりんに、だいぶ暗い事を言ってしまった。気分を上げる必要がある。
こういうのは、落ち込んでいたって仕方がないのだ。考えれば考えるほど、わたしの気持ちをあおいに言うなんて、そんなことはまず、ないわけだから。開き直れ。
わたしがどんな気持ちでプリンをあーんしようと、あおいが苺の乗ったプリンが好きなのは間違いないからな!
フルーツ食べるときのあおいって、なんでいつもあんなに可愛いんだろうな。は〜〜。もうなんだか、にやにやしてきた!
プリンのことばかり頭にあったせいで、夕飯のメニューを決めかねていた。あおいが冷蔵庫に置いたまま賞味期限を切らしそうになっている
あおい麻婆豆腐も好きだよな。ほんっと美味しそうに食べるんだよな。頭撫でたくなる。早く帰りたい。
玄関について、鍵を開ける前に、気が付いた。小窓から光が漏れている。試しにドアノブを回したらドアが開いた。
――は? またかよ!
やっぱりこいつ、ルームシェア解消とか無理だろ。一人暮らしとか冗談じゃないぞ? 雀並みの警戒心を持てとは言わないが、ハトレベルはやばいだろ。
「ちょっと……ちゃんと鍵かけなよ!」
小動物系の自覚を持て! 何回言えばわかるんだ?
「おかえり」
あおいのだるそうな声を聞いて、鍵の事を追求するのはやめた。
食事前は鬼門だ。喧嘩っぽくなりやすい。鍵をかけてくれるなら、うるさがられても構わない。でも何度言っても直らないんだから、今すぐ言っても同じだ。
プリンを食べて、お互い気持ちがゆったりしてから、もう一度言う。
「ただいま。今日のプリンはね」
わたしはいったんプリンの話をするのをやめた。部屋の空気がおかしかった。
「……どした?」
「なにが?」
あおいはテーブルに伏せたまま、固く張り付いたような表情で顔だけこちらに向けていた。
「……なんか」
「顔色悪い?」
低めの声。
「うんまぁ……」
顔色というか……顔色以外も明らかに悪いんだけどこれ。
会社でも言われた。あおいはなんでもない事のように言った。
ずっとこの状態なのか? 会社からずっと?
「だいぶへんな顔してるよ。まるで、」
人でも殺してきたみたいだ。言おうとして、やめた。なんとなく、言わないほうがいいような気がしたからだ。
なんでそう感じたんだろう。本当に殺ってきたんだったらどうしよう。
袋を冷蔵庫に入れ、甜麺醤の有無を確認したところで、冷蔵庫にあったあおいの下茹で野菜パックがないことに気がついた。
コンロの鍋はそれか?
赤いほうがおいしそう、という理由であおいに買われた鍋は、置いてあれば驚くほど目立つ。
「もしかして、なんか作ってくれてる?」
「うん」
なかみを見て、いきなりお腹が減った。
「ビーフシチューおいしそうじゃん」
「うん」
声がおかしい。今日のあおいはなんだ? だいぶテンション低い。大丈夫か?
「ん?」
寄っていくと、あおいはわたしを見上げた。
「体調悪いの」
「そう見える?」
「だから聞いてる」
あおいは風邪の時に目が潤む。いまは、それとも違う。だるそうなのに、妙に乾いたような目をしている。
「悪くないよ。なんかやる事なくてぼーっとしてた」
「あおいがやる事ないって言うの、初めて聞いたよ」
あおいから、覚えのある香りがする。なんだっけこれ。
「乳液借りた。ごめん」
「使ってていいよ」
答えて、わたしはあおいの額に手の甲をつけて熱をはかる。
「体調は悪くないって」
こういう時、百合小説ならおでこくっつけるんだよな。実際はしねえよそんなこと。
……熱はないか。なんでこんなにぐったりしてるんだ? アレルギー的な? 乳液合わなかった?
指で頬に触れる。そこまでが自然にできる限界だ。
あおいはおとなしく世話をされている子供みたいに見える。黙って頬を触れられたままじっとしている。わたしが世話したり様子見たりするの、当然だと思ってくれてる?
「痒くない?」
「わりと合うよ」
大丈夫……か?
見つめていると、あおいはふいに目を閉じた。
またいい匂いがしてきて、香りの正体がわかった。
この香り。
あれだ。オレンジの紅茶だ。
――オレンジの香りを選ぶ人はストレスが溜まってるとか言ってて。それで、疲れた時用に、オレンジの紅茶を買ったの。
なにかあった?
あおいが目を閉じてしまうと、無遠慮になれる。わたしはあおいの顔をすみからすみまで見て、あおいに何をしてあげられるかを探す。
なんでこいつは、大人しくしてるんだろう。わたしに素直に触られたままになるんだろう。
近くで嗅ぐと、オレンジの香りは、あおい自身の体温と匂いが混じったような香りになる。くらくらして、あおいが自分から手を触れてきてくれたのを思い出す。
「…………」
どきどきして、あったかくて、柔らかいあおいの手。
わたしの手も、あおいをほぐして、温められればいいのに。
いつもなら、ここまで近づけば多少はわたしのテンションが上がるのだが、今日はいまいち上がらない。あおいが調子悪そうだと、心配のほうが上回る。
見ているとあおいの頬に少しだけ血色が戻って来たように思えた。
「顔色、少し良くなってきた……」
両手であおいの頬を挟んだ。しっとりとした肌がぴたっとわたしの手の平に吸い付く。
改めて見ると、肌きれいだな。あまり手をかけてないと言っていたけど、余分なもの塗らないほうが肌は健康でいられるのだろうか。
ああ……。
感触が甘く柔らかすぎて、すぐにやめることができない。
テーブルに置かれたままのあおいの指先まで可愛いの、どうにかしてくれないかな。
これ、ほんと、つまり、なんかもう、接吻……チュー……キスしたりとか、キスしたりとか口づけしたりとか。想像ぐらいしたっておかしくないだろ。
…………。だめかな、あぁぁぁああぁ。可愛い。ダメだよな。ぎゅー、とかは……? なんだよわたし。邪すぎるだろ。
心配してるのに! どうかしてる。
こんなに目を閉じて長く黙られると、キスをせがまれている気分になるから不思議だ。たぶん、あれだ。百合の読みすぎだ。
「……なんで目、閉じてんの」
未練がましく聞いてしまったせいで、あおいはぱっちりと目を開けた。
「眠い。さっさとビーフシチュー食べて寝ようかと思ってる」
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