第76話 ただよう香りをかいだり
あおいが洗面所の入り口に立っていた。
「あおい、まだ寝てなかったの?」
「本読んでたから。芽生、……どうした?」
二回聞かれて初めて、わたしは自分の目から涙が出ていることに気がついた。
「……泣いてるか。わたし」
「うん」
「勝手に目から出ているだけだから、気にしなくていいよ」
「…………」
あおいは小さく、ふうん、と言ってリビングに行ってしまった。
ふうん、って。
ちょっと笑ってしまう。それで納得するのもズレてるな。変なやつ。可愛い。
洗っても洗っても、いっこうにすっきりする感じがない。しばらくして手を洗うのをやめた。きりがない。
メイクを落として、顔まで洗ってから、雑に化粧水を顔に浴びせた。乳液をつけた手のひらで肌を押さえながら、マッサージをする。強く擦らないように、指の腹でたたくように。飲んだから明日はむくみが出るはずだ。本当はマッサージ用のオイルを使ってきちんとしたマッサージをしたかったが、面倒すぎた。疲れを感じて洗面所を出る。
リビングがオレンジの香りになっていた。
テーブルに飲み物が用意されていた。わたしの席に。さっきまでリビングでこぽこぽと音を立てていたのは、そういえばポットの音だった。あおいはやりっぱなしだったらしい夜ごはんの食器を洗っている。
「別に飲まなくていいけど」
熱い紅茶はあおいらしく、ティーパックをそのままマグカップに突っ込んだだけのものだ。その香りがリビング中に漂っている。
「飲む」
柑橘のいい香りで気分がさっぱりする。
「いいにおいする」
「…………」
あおいがとん、とテーブルに砂糖の瓶とスプーンを置いた。
あおいは目を合わせずにまた流しに行き、わざわざ食器を布巾で拭きはじめた。いつもは水切り籠に置きっぱなしにして乾燥させるのに。
頬をまだ、水分が流れる感触がある。
「勝手に目から出てるだけだから。別に何かあってとかじゃないから。気にしなくていいから。……気持ちと関係ないから」
「そっか」
あおいは明るめの小さな声で言った。さっきの「ふうん」と同じ声質。
納得したんじゃないんだ。触れないようにしてくれている。多分、心配している。
「オレンジの香りっていいね?」
わたしはなるべく明るい声で話す。
「アロマのお店の人がね、オレンジの香りを選ぶ人はストレスが溜まってるとか言ってて。それで、疲れた時用に、オレンジの紅茶を買ったの。とっておきだから、効くよ」
声が、あまりにも優しく響いた。わたしはその声を本当に綺麗な音楽のように感じた。きゅうんと音をたてて胸のなかを小さな星がいくつも転がったような気がした。
「ありがとう」
そう言う間も、わたしの目から涙が滲んではこぼれていた。どうして涙が出るのか、本気でわけがわからない。飲んだからかな。疲れたからか。反応疲れしてオーバーヒートしてんのかな。酒が入ったせいで、ちょっとの刺激で泣き上戸になってるのか。泣き上戸ってこういう感じなんだな。勉強になった。
外面的には、泣いていることになるんだろう。普通の口調で話すわたしに、あおいはそれ以上、なにも聞いてこなかった。
何にも話してくれないし。
おつぼねぷりんの言葉を急に思い出す。
話したくないのは、弱い情けない人間だと思われたくないからだ。情けない人間に好かれるとか、余計にあおいはイヤだろうから。
こいつの前で完璧な女ぶってるが、本当のわたしは完璧どころじゃない。完璧でいたいだけだ。
――だってわたしは、あおいから見たら、きっと気持ち悪いから。わたしが照島みたいに寄っていったら、照島よりきっとずっと気持ち悪いから。
わたしは、完璧なくらいじゃなければ。そうでなければ。
せめて素敵でありたい。
弱いから同性に甘えたいんだと思われたくない。男に見向きもされない容姿だから女に走ったと言われたくない。病んでるからレズビアンになったと思われたくない。
いつも余裕で、頼りがいがあって、髪もメイクも体型も服も完璧で、仕事もばっちりこなせて、人にもなにかをしてあげられるような――ほんとうはそういう自分でいたかったのに。
くだらない――ばかみたいなことにこだわって、くだらない。確かに、わたしは情けない人間に違いなかった。こんなわたしでは、わたしはわたしを誇れない。
セクシャルマイノリティ関連の掲示板や書き込みを見ていると、なんらかの精神疾患を抱えたままでいる人も一定数いるような気がする。というか、多分、割合が高い。自殺率も、そうでない人よりも高い。
たぶんそれは、人生で強烈な心痛を味わった人の寿命が平均より短かく出ていたり、発達障害を持つ人が、社会との摩擦を感じるにつれて精神疾患も持つようになったり……それと同じように、「平均」をいじってしまうような負荷があることを示している。もちろん、青春を謳歌しているような人たちも、いるのだろうけど。
どんな人だって色々な理由で病む、その苦しさを、たしかに昔からの違和感や孤独がかさましはしている。人によっては「かさまし」どころじゃなく、かさのほとんどがそれかもしれない。
それを、そとから見た人間に、病んでいるから恋愛のしかたをまちがえていると言われたくない。
弱いからレズビアンになったんじゃない。
いつもなら素敵なはずの、幸せなはずの気持ちが……いつもなら運べる大切な宝ものを詰めた鞄が、ただ少し……他の大きな荷物が落ちてきた時に、ほんの少しの差で膝にくる、それだけの。
少しだけ……あおいの視線で想像した自分が、好きな人に喜ばれない、ただそれだけのことが。いまわたしのすべてをわかった上で支えてくれる人がいないことが、ただ、時々。少しだけ、負荷がかかって、時々、しんどいだけ。
だめだ。別に感情的になっていないつもりなのに、涙が止まってくれない。
負けたくない。負けたくない。
どんなときでも理想の自分でいたい。
わたしは、これを、ただの負荷だ、と言いたくない。失くしたくない。
あおいとの幸福な時間を失くしたくない。あおいを好きな、わたしにとって一番あたたかい気持ちを失くしたくない。人間を信じるに足ると感じられるような、こんな、息苦しいほど人を大切に感じる感情を、自分の中から失くしたいなんて思えない。
あおいを好きでなければ、あおいの置いた砂糖の瓶まで愛しいと思わない。この世界がこんなに愛しいとは感じない。体の中が、こんなにもオレンジの香りでいっぱいにはならないから。
わたしにはあおいが眩しすぎる。それは、あおいが完璧だからじゃない。ズボラで、抜けてて、深夜に焼き鳥食べに行こうとするほど気まぐれな。そんなこいつが、いつでもわたしの目を惹きつける。
どんなに完璧にしたところで、わたしは、結局、おにぎりを潰したまま冷凍するようなこいつが好きなんだ。
それでもあおいに綺麗だと思われたい。わたしは。
「脇腹に肉がついてきてさ」
「え?」
「完璧にコーディネートして出かけるんだよね、わたし」
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