第77話 野グソ化しそうだと思ったり


「美人じゃないなりに、美容に気をつかって、だれに後ろ指さされてもいいようにってさ。わたし綺麗だし、仕事もできるし、オマエより完璧だし、って思えるようにしてるんだよね」


 ……してたかったんだよね。


 あおいは自分の分も紅茶を注いできて、座った。


「でも、時々、無駄にあがいているだけみたいに感じるよ。ただいい匂いの紅茶を楽しむような、そんなことで、こんなに気分が変わるなんてね」


 あおいの置いてくれた砂糖。

 わたしは本当は、こんな深夜に飲み物に砂糖は入れない。習慣にしたくない。一瞬の気の緩みで体型が緩むのだ。それでも、置いてくれた砂糖が、あおいの触った瓶とスプーンが愛しくて、今日ばかりは砂糖を入れたい。

 角砂糖をふたつ摘んでカップに入れ、スプーンで混ぜる。一口飲むと、さっきストレートで飲んだときよりも「オレンジらしい」味がした。紅茶の熱さに体から力が抜けていく。


「芽生を後ろ指さすひとなんているの」

「さされるようなことすれば、そりゃさされるよ」


 あおいは意外そうな目でわたしを見ていた。


「誤解してくる人間の誤解をいちいち解いて回ったら、人生一回じゃ間に合わない。しょうもない消耗したくない。完璧でいたい」


 そう。普段のわたしは完璧のつもりで生きてる。そんなキャラになりきっている。

 自信があろうがなかろうが、あると言い切る。完璧だと思い込むことで魔法みたいに実現できることも多いから。

 あおいの前で、わたしは、甘えない自立したカッコいい人間でありたかった。


「向こうのほうが立場強いのにさ。嫌がらせみたいなことを言った。わざと」


 あおいは黙って紅茶を飲んでいる。


 ポタポタと涙が落ちている。いやほんと、なんでわたし泣いてるんだ。カッコいい人間でありたかった。はずなのに。


「怖かった。ヘンなことも言った。そんな事言うんだって顔してた」

「まぁ、いつもなら卒なく流せるからね、芽生は」

「好きな人に振り向いてもらえないより、嫌いな人に寄ってこられるほうがキツい」

「…………」


 寄られれば、振り払わなくてはならない。野グソと認識している照島を、もっと深く、人間として感じてしまったら、わたしはこの嫌悪感をどうしていいかわからない。


「嫌いって感情に慣れない。好きな気持ちは、わたしを幸せにしてくれるのに。嫌いな人は別のベクトルで頭をいっぱいにしてくる。嫌い同士なら問題ないのに。寄ってこないから……寄ってこられるとキツい。わたしは優しくないって話」

「……ごめん、ちょっと全部はわからないかも」

「いいよ」


 オレンジの香りは本当に心地がいい。飲まなくても、香りだけでもいいかもしれない。


「芽生って好きな人とかいるの」

「…………」


 なんと答えようか、ぼーっとあおいの顔を見ていたら、あおいはすぐに質問を撤回した。


「言いたくなければいい。ごめん」

「なんでそう思うの」


 言いたくないから言わないというより、聞きたくないだろうから言わないっていうのが近いんだけど。


「今聞くことじゃなかった」

「べつに、聞かれても嫌じゃないよ。言いたくなったら言う」

「…………」


 今は言いたくないと言っているも同然だ。あおいは黙ってしまった。


「……好きな人に弱音吐くときってさ。わたしの場合、色々あきらめてる時なんだな。きっと」


 今夜のわたしは、照島への拒否反応のせいで、受け入れられない感覚を実感してしまっている。

 あおいは首をかしげてわたしをじっと見た。わたしはちょっと笑ってしまう。こいつは、自分のことを言われているとは、微塵も思わないんだろうな。


「どんなにカッコよくなったって、無理なものは無理なのにね」


 湯気に手を当てて、オレンジの香りを両手に纏わせる。


「手が気持ち悪くてしかたない」

「手?」

「手を握られた」


 また手を洗いたくなってきた……。


「男の人?」

「うん。まぁ、そう」

「芽生の手を握ったの?」


 二日酔いが早めにきたかな。頭がガンガンし始めた時、あおいがわたしの手を握った。


 え? なにこれ? なにこれ?

 あおいから、あおいから手を握っ……!


 あおいは黙っていたが、急に言った。


「私の手は嫌いじゃない?」

「嫌いだったらプリン食べる時に握ったりしないよ」

「そうだと思って」


 目が合うと、そのままあおいは目を逸らした。


 あおいの手は、小さくて、やさしくて、ふわふわとやわらかい。急にドキドキしてきて、身体が揉み込まれるような気がした。痛いと感じるレベルのその感覚に、声が出ない。


 好き。……好き。……好き……!


 自分の手が口直しになるとわかってやってるなら、とんだ小悪魔なんだけど!


「…………」


 わたしはあおいの手を握り直した。恋人繋ぎに。喉から押し出すようにして声を出した。


「これ、された」

「この握り方は、嫌いな人にされたら、そりゃ、イヤだよ。イヤでいいんじゃないの」


 心臓がドキドキして喉から出そうだ。私はゆっくりと恋人繋ぎから普通の繋ぎ方に戻した。


「あおいは、イヤだった?」

「べつに」


 あおいは顔を背けたまま、手を繋がれたまま、もう一方の手で紅茶を飲んだ。


「嫌だったら私は言うよ」


 ドクン、ドクンと脈を打っていたのが、なぜか腰にズキン、ズキンと来始めて、血管って触覚あったっけとぼんやり考える。


 ――嫌じゃ、ないのか……。


 じわじわと血が沸くような感覚が体を上ってくる。手を繋ぐだけで気持ちいい。

 もう一度恋人繋ぎにしたい。


 もう一度やったら照島と同じかな。そもそも、わたしがいつもあおいにやってることって、セクハラでは? 野グソはわたしでは??


 ――嫌だったら私は言うよ。


 頬も、胸も、下腹部までが炙られるように熱くなってきて、ああこれはだめだ、と考える。


 嫌じゃないなら、もう一度恋人繋ぎしていい? もっと強く握っていい? ――どこまでしていい?


「ヤバい」


 口に出ていた。


「ヤバい。酔ってる」

「そうだろうね」

「ちょっと色々話しすぎたみたいだね」

「映画でそのセリフ出てきたら、私、消されるよね」


 あおいはちょっと眉をあげて、口をとがらせた。


「ふくっ」


 自然に笑いが出た。

 あおいってほんとに――いいな。


「うふふ。……いいね。消すか」


 わたしはあおいから手を離した。指でピストルを作ってあおいに向けた。


「少しおしゃべりが過ぎたようだな」


 撃つ真似をする。

 あおいはぐふぇっと言ってテーブルに倒れてくれた。


「ゆるキャラだと思って油断したようだ……」


 伏せた机の合間から、芽生だわ、という呟きが聞こえた。

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