第14話 リップを貸したり

 苺が乗っているのを見たあおいの目が、輝いた。

 ああほら、作ってよかったんだ。だって、あおいは、苺が好きなんだから。わたしは、苺を乗せてやったんだから。

 だから、別にプリンを作ることに、こんなに罪悪感を感じなくたっていいはずなんだ。


 でも、スプーンで食べさせることについては? 

 それはわたしの欲望であって、あおいのじゃない。


 いつもどおりプリンを出したが、わたしはじっとあおいを見てしまう。


 あーん、をやらないと、プリンの時間のシアワセ度は五十パーセントはダウンする。「イケナイ事してます」感も下がる。


 罪悪感にやられたばかりのわたしを元気にするのは、どっちだろう。あーんするのと、しないのと。あおいにとっていいのは、どっちだろう。

 

 シェイクスピアの有名な台詞がわたしの中にこだまする。

 To be or not to be, that is the question.


 あーんすべきか、せざるべきか。それが問題だ。


 シェイクスピアに失礼?


 こういう葛藤は、劇にしたっていいぐらい、生きるか死ぬかに匹敵するぐらい、大きな問題なんだぞ!

 だってあおいがちょっと笑いかけてくるだけで、その日の疲れは全部ふっとぶんだ。おかえりのニッコリ、それだけで嫌な事も全部ふっとぶんだ。

 そのあとのプリンの時間、これでまた脳がとろけるんだぞ? 嫌な事どころか理性も全部ふっとびかねないんだぞ?


 あおいの笑顔は超ド級。そのあおいのニッコリと、わたしの脳のトロトロを天秤にかけて、トロトロを選びかねない自分の悪魔性、利己的な心、これを to beこのままに していいかって問題なんだから。


 人として愛を胸に楽しく生きるのか、人でなしとして下心を胸に愉しく生きるのか。そういう主題、聞いたらシェイクスピアだって脚本にする! 絶対する。


 きっとセリフはこうだ。ロビーに赤い絨毯が敷いてあるような大劇場で、二階建て三階建ての客席を埋め尽くす観客の見守る中、役者の声が朗々と響き渡るのだ。


 わたしは人なのか、人でなしなのか。人として生きるべきか、人でなしとして生きるべきか――。


 わたしの邪で幸せな時間。


 このままであり続けるべきなのか、それとも……。

 あの一文を、「生きるべきか、死すべきか」と訳していいのか、わたしはよくわからない。でも、このままでいいのか、どうなのかといった葛藤が込められているのはよくわかる。

 あおいさえ、あーんを望んでくれていたら、身体の全てが to be! と叫ぶだろうに。いやむしろこのまま爆発してお家断絶して果てるエンドで良い。


 その時、あおいが、信じられないことを言った。


「あーん、みたいなこと、したかったりする?」


 わたしはすぐに返事ができなかった。


 ……なんで、いま、わざわざそれを口にだして言った?


 あおいはわたしをまっすぐに見ている。スプーンを持ったまま、あおいは私を見て、明らかにプリンに口をつけずに待っていた。わたしが、そうしたいなら、わたしのスプーンから食べるという意味だ。


 あーん待ち、だと……!? 誘っている……だと……?


 ふぉぉぉおあああ!!!


 可愛い可愛いやばい可愛いなんだこの生き物。


「……したい」


 わたしはこの可愛い生き物に、プリンをやっぱりわたし自らの手で流し込むことにした。


 ハムレットなんて授業できいた有名なセリフいっこしか知らない。ロミオとジュリエットなんてあらすじしか知らない。にわかのわたしの頭に浮かんでいた、お偉いシェイクスピア先生は、一瞬にして脳内から消え失せた。やつはだいぶ前にもう骨になったんだ、骨に肉の世界を語らせてどうする! あおい、プリン、あおい、プリン、あおい、プリン、すべての高尚な単語は全部それに置き換わって塗りつぶされた。


 椅子ごと移動して、自分の皿も寄せる。

 いつもより近くで、じっくり、プリンを食べさせてやろうじゃないか、いいよね? 合意だよね? あーん合意だしね? いいよね?


 あおいはわたしに素直にスプーンを渡す。当たり前のように。


 ふおおお! 神様! 習慣ってなんて素晴らしいのでしょうか。わたしはせっかく作った最高の習慣を、みずから手放すところでした。

 もうぜったい強固なものにします、当たり前にします、理由をつけてでもそうします。


「あんた、食べ方雑だからね。わたしの作ったプリンなんだから、崩すのもわたしがするし」


 ほらほらほら。わたしが作ったプリンだから、崩すのもわたし! 理由があるからね、仕方ないね!


 あーんは? って聞いてきたって事なんだよこの子はもう、初めて自分からあーんで食べさせてって言ってきたって事なんだよも〜〜、もうもう!


 も〜〜! か〜わ〜い〜い〜!!


 あーんって言いまくって頭の中であんあん何度も言わせんぞ可愛いなコラ。

 理由があって合意もある、もうこりゃくつがえらないね!


「なんか、介護されてるような気がしてきたなぁ」

「はい、あおいおばあちゃん」

「やめろ~。心が老いる」


 文句を言いながらも、あおいはわたしが差し出すひとさじを待っている。


「あーん」


 つん、とプリンであおいの唇をつつく。あおいの唇と触れたプリンが、わたしの感情といっしょにゆらめく。

 あおいはゆらめいたそれを、ぱくりと幸せそうに食べた。小さな舌で唇をなめた。


 近いと……くっそエロいな。エロすぎだ、こいつ。


 じっと見つめていると、あおいの目が急に揺れた。あおいの手がコップを取ろうとしたのか急に動く、コップを倒しそうな勢いで。


「こぼすよ」


 わたしはあおいの手を掴んで、落ち着かせるように上から押さえた。


「ほら、落ち着け?」


 コップを手に持たせてやる。

 あおいは押さえられていないほうの手でコップを受け取って水を飲み干した。唇が濡れて潤って光っている。


 どうしてそんなことをしようと思ったのか。


 わたしは、少しだけ、ほんの少しだけ、いつもとは別の煩悩で動いた。……というか、正確にいうと、動かなかった。わざと。

 あおいの手を押さえた左手を、そのまま、彼女の手の甲に乗せたまま。わざとそのままにした。


 どうしてそんなことをしたのか、わからない。ただ、落ち込みから回復したばかりのわたしはいつもの数倍浮かれていて、一度限界まで押し付けられたばねが急に抑えを失って飛び跳ねるように、自分の心の浮き上がりを制御する余裕がなかった。


 とくとくと溢れそうになる血の流れを感じながら、わたしはスプーンであおいの口元にプリンを持っていく。


 ただ、少しの差なのに。離すはずの手を、離さないというだけの。それだけなのに、あおいの目を見つめることが、視線が返ってくることが、血液を沸騰させていく。


 手を、振り払わないでいてくれる。


 あおいがプリンを受け入れようと唇をうすく開いた。その唇に触れたいという欲求が体の中心にもやもやと集まってくる。あおいの唇がスプーンを優しく咥えた。ぞくっとわたしの喉元が痺れる。ああ、わたしもプリンに口をつけたい。


「美味しい?」

「たぶん……」


 あおいがかすれた声で答える。その唇にすこしだけささむけて皮がめくれた部分があるのに気が付いた。潤してやりたい。彼女の唇を舐めたら――舌先でそのかさついた部分を舐めたら、潤せるのではないかとわたしは想像した。


「風邪ひいた? 声がかすれてる」


 わたしの視線を、あおいはどう感じているのだろう。

 いったん唇で感触を味わってから、プリンを自分の唇から滑り込ませて、味を楽しむ。

 今度はスプーンから零れ落ちそうなほど、大きなかたまりにして、わざとすくう。わたしは、あおいが大きすぎるプリンを食べにくそうにするのが好きだ。なんでそんなに大きくすくうんだよ、と怒ったような困ったような目をしながら無理やり口に入れようと首を傾ける姿が。プリンがプルルンと揺れて、それを落ちないように気を付けながら唇で食むあおいが。あおいの唇で切られたプリンの残りが、スプーンの上で揺れるのが好きだ。


「握っちゃってた」


 プリンが全部なくなってから、わざとらしく手を離す。あおいは気づいていなかったようだ。あ、ほんとだね、とつぶやいた。


「あんた、ちゃんと周り見たほうがいいよ。コップ倒すとか子供かっての。貸しが今、三百四十三になったから」

「わかったよ!」


 貸しが三百四十三になっても、たとえ千を越えても、わたしはきっとあおいに頭が上がらない。


 それにしても、手を握られていても気づかないとか、いくらあおいでも迂闊すぎやしないか? つけこまれるぞ。わたしに。


「なんか、違うね、今日」


 あおいの頬にはいつもより赤みがさしていた。ぼんやりとしてしまっている。反応と動きがさすがに鈍すぎて、突っ込みたくなる。


「なにが?」

「反応? ああ、言おうと思ってたんだけど、ちょっと、皮むけてるよ。あおいの唇。いたそう」


 風邪をひいたり、鼻炎症状が出ていたりするようなとき、あおいはよくこういう顔をする。目がうるんで、ぼーっと上気したような、夢にうかされているような、そういう、見ている側が誤解するような表情。鼻で息ができなくて口呼吸になっているようなときに、そういう顔をする。口呼吸で乾燥したのか。あおいのいつものプルプルの唇の皮むけが、痛そうだった。


「リップだめにしちゃった」

「貸すよ」


 自分の化粧ポーチを持ってきた。わたしはコンパクトな化粧品が好きだった。小さな鞄ででかけるほうがカッコいいから、そうしている。リップも小さくていい香りのものを選んでいる。食器棚に一瞬目をやった。


 わたしのミニリップは――あの食器棚の爪楊枝より。


 ――確実に


 もしわたしが、リップであおいの唇に触れたら、爪楊枝よりも、近い。


「いいよ、悪いから」

「イヤ? わたしのリップ使うの」

「イヤってわけじゃないけど」


 じぶんのリップが、触れてはいけない禁断の木の実のように光をあびて表面を輝かせている。


「痛そうだから、塗られとけ……ほら。こっち向く」


 直接リップを塗り込もうとするのを、あおいは手で防いだ。


「芽生のリップが汚れる」

「いいって」

「潔癖症の人のリップ借りられないよ。直接塗るんじゃなくて、指に塗って、そこから貰うよ」


 なん……?


「指に、塗って……?」

「うん」


 爪楊枝……、約、六センチ。

 ミニリップ……、たぶん、四センチくらい。


「……じゃ、座って。こっち向いて」


 あおいを椅子に座らせ、待たせる。

 自分の指にリップを塗った。


 いいのか。これ。

 ドッドッドッドッと心臓が暴れている。


 直塗り……、直塗りって何センチ……?


 リップを塗った指をあおいの唇に押し付ける。きゅんと体の中心に甘酸っぱい刺激が走る。さっきの苺だ、体の中で苺が転がっているんだと考える。

 指でゆっくりと伸ばす。


「たてに、ね」


 言い訳のように説明しようとする自分の声が、遠く聞こえる。呼吸のしかたがわからない。

 唇がやわらかく、わたしの指に押されてかたちを変える。わたしの指のかたちに。唇を潤す禁断のクリームはわたしの指から浸みるように入り込む媚薬のようだ。あおいが目をとじてそれを受けている。


「ヨコ…横だけじゃなくて、縦にも、」


 声が上ずって、言っていることが全部うそくさく聞こえる。前下がりのボブのまっすぐの黒い髪が、目を閉じたあおいの撫でつけたくなるような長めの睫毛が、その表情が、あまりにも素直で無垢に見えて、自分が唾を飲む音が聞こえたとき、わたしは自分をなんて生々しい生き物なんだろうと思った。


「塗るんだよ、ちゃんと……」


 はぁ、はぁ、と誰かの鼻息が聞こえる。


「芽生?」


 ――わたしの鼻息だった。


「どうしたの……?」


 あおいがわたしの背中を撫でている。


「袋持ってくる」


 過呼吸と勘違いしたあおいの声に凛々しさが混ざる。


「いい、大丈夫。そういうのじゃない。過呼吸じゃなくて、いや過呼吸だから、そういうのだから、過呼吸じゃなくて過呼吸だから。大丈夫だから」


 ばかすぎる!


 あおいに聞かれた。わたしが昂っている状態なのを。


 片手で自分の顔を覆う。酒を飲み過ぎた後みたいに、自分の呼吸音がうるさく聞こえる。最悪なのは、わたしが酔っていないということだ。酔っていない耳にはその息の音は鋭すぎて、自分で気づかないふりができない。


 背中を撫でようとするあおいの手。


「触らないでくれる?」


 触られるとよけい、ハグとか、変な妄想にいくからやめてくれ。いまだけやめてくれ。ずっとプリンでがまんしてきたものを、それ以外があるなんて気づかせないでくれ。


 わたしはまた、あおいに冷たい言い方になってしまったのを、多分あとになってから反省する。


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