第13話 リップを借りたり

 芽生は持ち直したらしい。

 翌日の夜ごはんの後、プリンが出てきた。苺が乗っていた。


 私が自分でそれを食べ始めようとすると、芽生がこちらをじっと見ている。


「あーん、みたいなこと、したかったりする?」


 じっと見ているということは、そういうことなんだろう。元気がなかった彼女への、せめてもの手助けとして、私から聞いてあげた。いつもは勝手にスプーンを取って食べさせてくるのに、何も言わないから、ちょっと不思議な感じがする。


「……したい」


 芽生はそう言って、椅子を持って、私の横に移動してきた。

 どきっとした。

 なにも、移動してまですることか?


「あんた、食べ方雑だからね。わたしの作ったプリンなんだから、崩すのもわたしがするし」


 芽生のプリンに対するこの執着って、なんなんだろう。

 こいつ、@purinmaniaプリンマニアさんよりよっぽどプリンマニアだよな。

 スプーンを渡す。


「なんか、介護されてるような気がしてきたなぁ」

「はい、あおいおばあちゃん」

「やめろ~。心が老いる」


 うふふ、と芽生が笑う。


「あーん」


 プリンを私の口に入れる時、芽生は私の唇や目をじっと見ている。いつもよりもだいぶ熱量が高い気がして、急に私は、スプーンをペロペロする芽生を想像した。


「は、」


 顔が熱くなった。喉がやけに乾く。急いで水を飲もうとした。グラスにぶつけそうになった手を、芽生がおさえた。


「こぼすよ」


 私の手を、おさえたままで。


「ほら、落ち着け?」


 私のもう一方の手に、芽生はグラスを持たせた。

 グラスの水を飲み干す。カラコロと氷が音をたてる。冷たい水が喉を通っていく。

 飲んだあとの私の唇を、芽生は黙ってじっと見つめている。そのまま、芽生がまたスプーンを唇に近づけてきた。


 え。ちょっと、今日、なんか、これ。


 プリンがなめらかに喉を通っていく。


 芽生は、グラスを倒しそうになったほうの手の甲に、自分の手を乗せたままにしていた。


「美味しい?」


 なんで手を握ったままにしてるんだよ!

 言いたいのに、言う気にならない。

 芽生のせいだ。手を握りっぱなしになんかするから。味がわからない。


「たぶん……」

「風邪ひいた? 声がかすれてる」


 たしかに、芽生は、かわいい――。


 プリンマニアのせいだ、あんなこと書くから! かわいいとか。――感覚が狂う。プリンマニアさんが、スプーンペロペロに妙な意味づけなんかしたからだ。意識しすぎだ、これは、まずい。


 私はうっかり、「自分の書いたもの」に影響されて、芽生を意識するはめになってしまっていた。


 芽生は今度は自分のプリンの皿からひとさじすくうと、私の唇を見ながらプリンをつるんと吸った。

 今日の芽生の視線には魔力がある、目をそらせない。芽生の目にゆらゆらと浮かぶ密かな光が、私をとらえてしまっている。

 妙だ、心臓が、いつもと違う動きをする。

 芽生はもうひとさじ、私の唇の前にスプーンを持ってきた。

 自分の皿と、私の皿のスプーンを交互に行き来する右手。左手はでも、ずっと私の手の上に置いたままだ。

 なんだか妙に部屋の温度が高い……。


 なんで手を握ってんの?

 言ってやろうかと思い、しかし、私は自分に実験を強いる。

 手を握られて、意識してしまっているこの感じ――相手が芽生だというのは気に食わないが、これは、きちんと感じておいて、あとで百合小説に生かさねばなるまい。


 相手が芽生だというのは気に食わないが。


 大丈夫。これは、プリンマニアが変なこと書くから、脳がバグを起こしているだけで、すぐさめる――。


 プリンを全部食べ終わると、芽生は私の手を離した。


「握っちゃってた」

「あ、ほんとだね」


 いま気が付いたふりをした。


「あんた、ちゃんと周り見たほうがいいよ。コップ倒すとか子供かっての。貸しが今、三百四十三になったから」

「わかったよ!」


 そんなことにまで貸しを作るのか、このドケチ女。ってか借りが二つ増えてる? グラス倒さないように面倒見てやったのと、プリン作ってやった、この二つが増えたのか。

 握られていた手が熱く感じるのがほんと腹立つ。外見だけはいいから。ほんっと腹立つ。


「なんか、違うね、今日」


 芽生が言う。


「なにが……?」

「反応? ああ、言おうと思ってたんだけど、ちょっと、皮むけてるよ。あおいの唇。いたそう」


 保湿用のリップを、私は、生理用ナプキンのバケツをひっくり返したときに、水浸しにしてしまっていた。まだ買っていなかった。うっかりしていたらこれだ。


「リップだめにしちゃった」

「貸すよ」


 芽生は自分の化粧ポーチを持ってきて、そして、ちょっと迷ったように止まった。食器棚に一瞬目をやった。


 潔癖症だもんな。人にリップ貸すとか、嫌なんだろう。


「いいよ、悪いから」

「イヤ? わたしのリップ使うの」

「イヤってわけじゃないけど」


 嫌なのは芽生のほうだろうに。


「痛そうだから、塗られとけ」


 芽生は近づいてきて、私の肩を押し、顔をこちらに向かせようとした。


「ほら。こっち向く」


 芽生が私の唇に直接リップを塗り込もうとするのを、手で防いだ。


「芽生のリップが汚れる」

「いいって」

「潔癖症の人のリップ借りられないよ。直接塗るんじゃなくて、指に塗って、そこから貰うよ」


 芽生の動きがぴたりと止まった。


「指に、塗って……?」

「うん」


 芽生は少し迷ったように目を動かし、それから椅子を指差した。


「……じゃ、座って。こっち向いて」


 芽生が、自分の指にリップを塗った。

 あれ? 芽生がやるのかな……ああ、まぁ、いいか、甘えるか。

 芽生がリップを塗った指を私の唇に押し付ける。ゆっくりと伸ばす。芽生の指を唇に感じている間、近すぎる距離に、私は自然と目を閉じる。


「たてに、ね」


 小さなかすれた声が、耳をくすぐる。


「ヨコ…横だけじゃなくて、縦にも、」


 芽生の声が上ずっている。


「塗るんだよ、ちゃんと……」


 リップの塗り方まで押し付けてくんなよ。女子力マウンティング発動か? 喜んでいるのか? 

 目を閉じて塗ってもらっていると、苦しそうな呼吸が聞こえてきた。


「芽生?」


 芽生は、はあはあと呼吸を乱してしまっていた。


「どうしたの……?」


 芽生の背中を撫でる。これ……過呼吸かな。

 芽生は、過呼吸になったことがある。会社で何か、あったからか。やっぱりちょっと調子悪いんだ。


「袋持ってくる」

「いい、大丈夫。そういうのじゃない。過呼吸じゃなくて、いや過呼吸だから、そういうのだから、過呼吸じゃなくて過呼吸だから。大丈夫だから」


 だいぶ混乱している。

 ほんとに大丈夫かな。


 芽生は片手で自分の顔を覆ったまま、息切れした呼吸のペースを少しずつ戻していった。


 もう一度背中を撫でようとした。


「触らないでくれる?」


 ビシッと叱られた。

 なんだよ! 心配してるのに!

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