第8話 お局小説を読む余裕はなかったり
わたしはあおいにプリンを作るのを、今日もやめた。
……今日は朝からなんの用事もなくて。美味しいプリンでも作って、たまには生クリームとフルーツでも乗せようかと考えていたのに。冷蔵庫にはそのための苺も入っているというのに。
放り出された昨日の鞄には、カバーをかけられた百合コミックが読まれずに入っている。わたしはうずくまって布団に丸まっている。
金曜はるんるん気分だった。待ちきれないものと会える。昨日のわたしは、浮足立っていた。
本屋で百合コミックを買おうとして、そういえば可愛いしおりが欲しかったと思い、レジ横にしおりが売っているのを思い出して近寄った。レジ横の壁にそって、切り絵のしおりが並んでいる。私はしゃがんで、下のほうを見ていた。
うさぎ、ツリー、花。切り絵って繊細。どれにしよう。
百合小説に、切り絵のしおりって合うよねぇ! うふふ!
文学を好む女学生が通うお嬢様学校には、「芽生、タイが曲がっていてよ」と言いながら世話を焼いてくれるお姉さまがいる。そのお姉さまから、特別な妹にだけ渡される、たったひとつの切り絵のしおりをはさんで読書するのが、そう、ここでのたしなみ……。
その時に、聞こえてしまったのだ。店員の会話が。
「ビーエル本をさぁ、よく女子が買ってくじゃん。ああいうの、最初はびっくりしたけど、ここで働いたら慣れて何にも感じなくなってきたんだよな」
ビーエル本。BL、ボーイズラブ。
男同士の同性愛を描いた作品をそう呼ぶ。
「ああ、前にも言ってたねぇ、前田クン」
女の子の甘ったるい声が聞こえる。店員同士なのだろう、女の子のほうはカップルに進展したいんだろうな、そう思わせる声だった。
「でもさ、こないだ、男が買ってったんだよ。ちょっとびっくりしたよ」
「えー、でも、百合コミックも、女の子がよく買ってくよ。あたし慣れたよ」
「なんか感じねぇの?」
「感じないよ~」
本屋の店員って色々、慣れるんだな。女の子は続けた。
「でも、友達が買ってたらちょっと嫌かな。一緒に住んでる子がいるけど、その子が買ってたらと思うとちょっとねー。他はヘーキ」
――友達が買ってたらちょっと嫌かな。一緒に住んでる子がいるけど、その子が買ってたら。
「…………」
わたしは、しおりを買う気分が萎んで、そのままレジに百合コミックを出した。前から楽しみにしていた漫画の新刊だった。せっかく来たのだから、買って帰りたい。
でも、楽しみだったはずの、金曜夜に読んでいい気分になるはずだった新刊を、どうしても読む気が起こらなかった。
家の中で、丸まったまま、わたしを元気にする新刊に手を伸ばさない。まるで、自分の心に食事をさせない罰を与えているみたいだな、と考える。
あおいも、鞄の中身を見たら、ひくんだろうか。
一緒に住むのはいやだと、言い出すだろうか。
あの子が一人暮らしを始めると言い出したとき、わたしは真っ先に、男との同棲を疑った。生活力も自活力も無いあおいが急に、理由もなく実家を出るなんて。理由があるとしか思えない。
「なんで?」
問い詰めるわたしに、あおいは言った。
「家にいると、息がつまるから」
「でも、あんた、寂しがりやじゃん。女子力ないじゃん。やっていけるの? 一人で夜寝れるの? わたしホラー映画送りつけるよ?」
あおいは苦笑した。
「誰か一緒に住んでくれる恋人でもいればね。でも、いないから、一人で頑張るよ」
男との……同棲では、ない! 恋人、ナッシング!
「それなら、……それなら、」
わたしは、必死のナンパ師みたいだ。それならキミ、俺はどう。
「それなら、わたしはどうかな」
「芽生と?」
「わたし、女子力あるしね、なんでも一人でできる、あんたと違って」
あおいは首を横に振った。
「いいよ、芽生、潔癖症でしょ。私とは相容れないよ」
踏ん張った。わたしはそこで、踏ん張った。よくがんばった。
「部屋をわければいいんだよ。リビングは綺麗に使ってほしいけど、あおいの部屋はあおいがどう使おうと何も言わない。ゴミ袋山積みとか、うじがわくとか、そのレベルじゃなければ、あんたの部屋に口ださないよ。お互いの部屋には絶対入らないって約束で、どう?」
これは、今思えば、わたしにとっても大事な約束だった。
わたしの部屋には、沢山の百合コミックがあり、何冊かの百合小説があった。同性愛のガチ悩み相談の本もあった。
現実では癒されきることのない悩みや願望を、他の人が書いたものを読む事で、わたしは自分の中に、飲み下していた。私と同じような悩みを感じたことがある人が書いたものを読むことで。
本棚には、カーテンをつけて、すぐには見えないようにしている。でも、もしあおいが部屋に入ってくるようになったら、カーテンを引けばすぐにわかってしまう。
ガチ悩み相談の本があるから、たぶん言い逃れできない。
わたし別に女の子好きとかじゃないけど、百合は好きで〜、とか言える本棚ではない。
完全にガチな本棚だ。
だけど、本当は、わたしは、自分の中だけで飲み下し続けたいわけではなかった。ずっとそのままでいたいわけではなかった。誰かと話したかった。誰かとつながりたくて、でも現実にはそんな勇気はなかった。
だから、ネット小説で、百合を読んでいる。
そしてたぶん、おつぼねぷりんさんに対して、過剰な興味をもってしまうのは、そういう、同じ感覚を持つ誰かとつながりたい気持ちが、そうさせるんだ。
あおいの唇に対して、あおいに対して、わたしは罪悪感をもっている。
あおいにプリンを食べさせる時に感じる快い背徳感、あの正体は、罪悪感だ。
勝手にこんな気持ちをもってゴメンという……そして、背徳感と絡んだ快感には、多少の攻撃心もまた、見え隠れしていた。わたしをこんな気持ちにしやがってという。
ゴメン、でも、するから。
この、罪悪感を破ってあおいにプリンで触れる時間に、言い訳がしたくて、わたしは押し売りのような事を言う。
卵がいくらだった、砂糖買い足しておいた、皿洗っておいた、フルーツは私の奢りだから。
お礼といって、あおいは少ない給料からデパ地下のデザートを買ってくれる。
違う。違うんだ。それは要らない。
私が卵の値段がどうとか言ってるのは……だからつまり……プリンを食わせるのを許せと。わたしが買った材料でわたしがプリンを作ってやった、片付けもしてやった、だから、ゴメン、許せと。
想像のなかで、あおいの唇を味わうことを許せと。
そういうことなのだ。
あおいがプリンを食べてくれる時点で、お礼は済んでいるので、余計なお礼をして欲しくないのだ。
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