(3)

 全てが片付いたと知ったとき、疲労は思い出したように椿を襲った。

 立っていられずその場に座り込む。両手をついて肩で荒い息を吐く。

 体中が重かった。腕を上げることなど出来なかった。立ち上がることなど出来なかった。

 少なくとも、今すぐには無理だった。

《大丈夫かェ?》

 問われても返事など出来なかった。

《無理なようじゃのう》

 危機的状況にもかかわらず、妖斬妃は笑っている。

 何がそんなに楽しいのか分からない。

 正直とても恨めしい。この程度で動けなくなる自分が腹立たしい。

 初めから妖斬妃のように動ければ良いと思うのに、体が全くいう事を聞かなかった。

 今のように妖斬妃に体を操られるのではなく、自分の力で舞えるようになりたくて、連日妖斬妃の食事に付き合っていた。妖斬妃がこの世に具現化し、自由に動いている間は椿の体力と精神力を削いで行くと知っても、その動きを習得したくて自由にさせていた。

 その付けが回って来たのだと言っても過言ではない。自業自得だった。想定していなかったわけではない。ただ、想像以上に消耗してしまっただけのこと。

(大丈夫。大丈夫)

 焦りながらも言い聞かせる。急いで呼吸を整えろと言い聞かせる。

 傷は負っていない。少しでも体力を回復させるために呼吸を繰り返す。

 その耳に、パチパチパチパチと乾いた拍手の音が聞こえて来た。

 見上げれば、階段の上の男が、パチパチと手を打ち鳴らしていた。

 座っていた腰を上げ、一段一段下りて来る。

 その後を柊がついて来る。

 雲が月を覆い隠し、世界が闇に呑まれる。

 それでも椿の耳には男が階段を下りて来る音が聞こえていた。

 一段一段。一歩一歩。その距離が縮まって。

 風が雲を吹き流し、再び月光が地上を照らしたとき、

「えらくいいもん見せてもらったよ」

 その声を聴いたとき。

 椿は全身が粟立つのを感じた。

 心の臓が大きく脈打った。

 あり得ないと思ってしまった。

 聞き間違いだと思ってしまった。

 思わずにはいられなかった。

 それでも、月明かりは容赦なく照らし出した。

 長い前髪で左の顔を隠した男の顔を見た瞬間。椿は大きく目を見開いていた。

 何故?! と、頭の中いっぱいに疑問が浮かぶ。

「一時はどうしようかと思うぐらいに粗野な刀使いだったが、どうしてなかなか女らしい動きも出来るじゃねぇか」

「な、んで?」

 少し小馬鹿にした口振りで、二間と離れていない距離で立ち止まる男を見上げ、椿は自身が震えていることを自覚した。

 疲労から来る震えではなかった。体の内側から震えていた。

(夢でも見ているのか?)

 心までが震えていた。

《おや?》

 妖斬妃までが面白そうな声を上げる。

 そのせいで椿は、自分の考えていることが間違いではないのだと知った。

「おいおい、どうしたよ。二人揃って人の顔食い入るように見やがって。俺の顔に何かついていやがるかい?」

 男が自身の顎をさすりながらにやけた顔で問い掛けて来る。

 その顔が。その声が。その話し方が。嫌でも椿の心を搔き乱した。

 脳裏に否が応にも浮かぶ姿があった。

 人をからかい馬鹿にして、そうかと思えば褒めて味方をする優しい兄の姿を。

 あの日、妖に喰われたはずの兄の姿を。

 その顔は兄の物だった。

 その声は兄の物だった。

 その話し方は兄の物だった。

「な、んで?」

 問い返すしかなかった。問い返さずにはいられなかった。

「なんで貴様がその顔をしている?!」

「あ? その顔?」

 叫ぶように問われた男は、表に晒している顔を不思議そうに撫で、

「なんだ? 嬢はこの顔を知っていやがるのか。って、そうか。そりゃァ知ってるか。いや。知ってるとは限らねぇか?」

 一度手を打ち納得しかけ、すぐに否定して頭を傾げる。

「でも、【妖斬妃】を連れ回してるんだから村の奴ら……の可能性の方が高い気もするが、長いこと適合者なんてものはいなかったって話だった気もするし……。嬢って何者だ?」

「私は椿! 【火炎】一族の長の末娘。そういう貴様は何者だ! 何故兄上の顔をしている!」

「兄上?」

 怒りでどうにかなりそうになりながら、地面に爪を立てて誰何すれば、男は殊更惚けた口調で首を傾げ。

「ああ。あの日、いきなり顔半分が変わっちまって、一体こいつは誰なんだと思っていたら、そうか、そうか。嬢の兄だったか」

 と、腕を組んで頷いて、ワザとらしく納得して見せる。

 それがどれほど椿の神経を逆撫でするものか。

 やはり、偽物でも気のせいでも似たようなものでもなかったと知り、頭の中が沸騰しそうなほどに煮え滾る。

 目に見えぬ殺意が吹き荒れる。

 それでも男は嗤っていた。楽しくて楽しくて仕方がないとばかりに。

「だからこいつもさっきから暴れてるのか。そうかそうか」

 と、空色の鞘に納められた【揺り籠刀】を軽く振り、一人で勝手に納得して見せる。そして、「そうかそうか」と繰り返し、肩を震わせ嗤いを強めれば、

「だったら、あの嬢がこれ以上苦しむ姿は見たくはないよなぁ」

 刀を掲げて問い掛ける。

 まるで【揺り籠刀】に封じられた妖を嬲るような言い様だった。

「そうだよな。そうだよな。元の持ち主の妹が苦しむ様は見たくねぇよな」

 誰にも聞こえない声に対して、更に男は楽しげに嗤う。

 それを見て、椿が怒り狂う気配をも察して嗤う。ちらりと見やった視線が物語る。

 早く動けと自分自身を叱咤する。

 その目の前で、男は言った。

「でも、これで終わりじゃねェんだなァ」

 地面に【揺り籠刀】を突き立て、柄に両手を乗せて顎を乗せ、これまで椿が見たことのないおぞましい笑みを浮かべて男は言った。

「念には念をってな」

 男の言葉を合図に、市松柄の布の下からポロポロ、コロコロ、手のひらにすっぽり収まるほどの丸っこいものが落ちて来た。

 それは、誰も手を触れていないというにも拘らず、自分自身で転がり立ち上がる。

 それは木彫りの可愛らしい干支人形だった。

 それが、男の足元を埋め尽くすほどの干支人形が、一旦ピタリと制止すると、次の瞬間には一斉に激しく震え出し、一気にこの世に具現化した。

 木彫りの人形の大きさではない。現実的な大きさの獣ではない。身の丈は五尺ほどの凶悪な面構えの獣たちが、涎を滴らせて現れた。

 これから何が起こるのか察しがつかない方がおかしかった。

 椿の体から血の気が引く。顔が引きつる。

《おやまァ》

 と、この期においてもどこか呑気な声を上げる妖斬妃に、負けぬほどに冷たい笑みを浮かべて男は告げた。

「さあ。妖斬妃円舞。第三幕の幕開けだ」

 悪夢は容赦なく、椿へ向かって雪崩れ込む。



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