第八章『【揺り籠刀】を手にする者たち』

(1)


(無茶だ!)

 柊は内心で悲鳴を上げていた。

 自分たちと椿たちを遮っていた妖たちが消え失せて、ようやくまともに見えるようになった椿は、どう見ても疲労困憊に見えていた。

 ずっと気の抜けない状態だった。油断のできない状態だった。常に動き回っていなければならなかった。肉体的にも精神的にも限界が来ていておかしくはなかった。

 初めから終わりまで、どれだけの時が流れたものか。

 そんなことは柊には分からない。計る物がなかった。

 ただ、これだけは言えた。自分が逆の立場であったなら、絶対にもう動けるわけがないのだと。

 それでも、柊に背を向け、注意を一切払っていない男は、容赦なく椿を襲わせた。

 何故こんな男が今の今まで大人しくしていたのか。素知らぬ振りをして当たり前のように日常を過ごしてこられたのか。

 怖気が柊の心を、意識を震わせた。


 ――下手すれば俺たちは隣にいる奴に起きている問題も気が付かない。


 つまりはそういう事なのだと、境土の言葉が蘇った。

 すぐ傍にいても、薄壁一つ挟めば何をしているかなど分からない。

 優しい人だと思った。気さくな人だと思った。気前の良い人なのだと思った。

 相手の思惑など知りようがない。相手の印象などその瞬間でしか刻まれない。

 出会ったその瞬間を取り繕ってさえいれば、いくらでも赤の他人を騙すことが出来る。

 下手をすれば、障子一枚挟んだだけで、身内と言えども本心を、本性を、知ることなど出来ないかもしれない。

 だからこそ、相対するときだけ無難に接すれば、誰も何をしているか察することなど出来はしない。故に、誰も気が付かなかった。気にしなかった。気付けなかった。

 結果が、これだった。

 男は、疲労困憊の椿を精神的に追い詰めるためだけに追い打ちをかけ、嗤っていた。

 椿は再び妖斬妃を身に纏い、舞っていた。

 本当は立てないはずなのに、歩けないはずなのに。太刀を持ち上げることすら難しいはずなのに。到底笑うことなど出来ない状況で、椿は笑みを浮かべて舞っていた。

 先ほどと同様に、疲れなど一切見せぬ動きで舞っていた。

 鞘で受け止め、殴り飛ばし、斬って突いて、蹴り飛ばし。

 粗野で乱暴そうに見えながら、見入ってしまうほどに美しい円舞。

「しかしすげぇな」

 自分で仕掛けておきながら、仕留められることなく立ち回る椿を見て歓声を上げる男。

 完全に無防備な姿を晒している男。

 どうにかしてやりたいほどに憎かった。後ろから襲い掛かってやりたいほどに憎かった。

 もしも今この身が自由に動いたなら……

 思ったところで体は動かなかった。

 声なき嗤い声が聞こえて来るようだった。

 無駄な抵抗だと弄ばれている。いつでも柊の心など喰い切れるのだと言わんばかりに、今この瞬間も意識を残してもらえているのだということは嫌でも知れた。

 それが堪らなく悔しかった。

「諦めろ」

 と、不意に男が呟いた。

 初め柊は、妖斬妃と共に舞いながら、干支の姿を模った妖たちを屠って行く椿に向けて呟かれたのかと思った。だが、

「虚しい抵抗をしたところで、結果は同じ。嬢も坊も。徒労に終わるだけ」

 どこか空虚な物言いが、自分にも向けられているのだと知らされた。

「あんなに苦労して、痛い思いをして、辛い思いをして、たとえあいつら全部を倒せたとして、一体その先に何があるって言うんだか」

 聞き間違いでなければ、勘違いでなければ、その言葉はひどく同情めいて聞こえた。

「身内を殺されて憎いのはまぁ、解からないわけじゃない。でも、敵討ちをしたいって言うなら話は分かるが、【揺り籠刀こいつら】取り戻して回ってる意味が解らん。妖の脅威から人々を救うために必要なもんだって言ってるが、そもそも妖は人の想いが凝り固まったもんだ。何の因果か、どういう仕組みか知らねぇが、人間が生み出しているものだ」

 口元に薄ら笑いを浮かべながら淡々と紡がれる言葉に、呟きに、柊は困惑を極めた。

「だったら。こんなものに頼るんじゃなくて、そんなもんを生み出す人間をどうにかした方が早いとは思わないか?」

 そんなわけがあるかと、柊は怒りをぶちまける。

「実際。どんな善人も一皮めくれば皆同じ。表立って見せないだけで、腹ん中は真っ黒さ」

 そんなことはない! と否定する。

「理由は何であれ、人は他人に怒りを抱く。劣等感を覚える。それが積もり積もれば恨みに変わる。悪意に変わる。正義を翳したところで、他人にとっては悪意と変わらないこともある」

 そこは反論できないものがあった。事実、妖に乗っ取られていたとしても、柊は境土に劣等感を抱いていた。あれだけ世話になったにも関わらず。今も世話になっているにも関わらず、自分の実力のなさを棚に上げて、境土を羨んだ。境土がいなければと願ってしまった。

「そんな気持ちが寄り集まって生まれるのが妖。一つ一つは気にするまでもない癖に、気が付けば綿埃になってる埃と同じで、いつの間にか人の目にも見えるモノになっていやがる」

 やけに分かりやすい例えだと、不覚にも柊は思ってしまった。

「そんな綿埃みたいな連中をさらにまとめてしっかりとした型に嵌めて形にしたのが多少動けるようになる妖だろうさ。そうなってからの掃除はまぁ、面倒だ」

 心底うんざりした口調だった。

「まとまってくれてるから掃除は一見楽そうだけどな。今度はしつこい。箒で掃けば箒に張り付くし、雑巾がけすれば塊になってくっついて来る。アレ取るの面倒なんだよなぁ。はたいても何しても取れないし、水で洗っても取れない」

 やけに庶民的な台詞を口にされる。

 少なくとも、状況的にはそんな世間話をしているようなぬるい状態ではない。

 妖の数は目に見えて減っていた。

 その分、椿の疲労も蓄積されて行っているのは確実なこと。

「だから掃除は小まめにしろって言われるんだよな。長屋で隣に住んでる夫婦の娘さんに。解っちゃいるんだが面倒だって言えば、自業自得ですって叱られて――なんて話すると、坊はきっと今驚いてるんだろうなぁ。こんなことしてる奴が、長屋で普通の暮らしを営んで来たのかって」

 図星だった。

「きっと図星だろ」

 振り返ることなく肩を震わせクククと嗤う。

「そりゃァ、この人間なりしてたら人の生活も人並みにはするさ。もともと俺は干支の木彫り職人だからな。それが何の因果か妖に取り憑かれて、これまた何の因果かその力を逆に取り込めちまった。要はあれだ。【妖憑き】ってやつだな。そうなったのが今から何十年前だ?

 初めはまぁ、何が起きたのか分からなかった。別に好き好んで妖憑きになったわけじゃねぇからな。それに、初めから妖憑きになったわけでもねぇし。意味わかんねぇだろ?」

 分からなかった。

「初めは完全に妖に喰われたんだよ。喰われた認識はあった。でもな、気が付いたら自分の意識を取り戻してて。で、今みたいに妖連中を操れるようになってたわけだ。それこそ初めは何が起きたのか自分でもよくわかってないからな、訳の分からねぇ妖連中が寄って来て俺を襲おうとする。その内回りが気味悪がって、妖狩りに追いかけ回されて、何度死ぬ思いしたか分からねぇ。でもな。そのうち疑問が湧いたんだ。どうして俺が逃げ回らなくちゃならないのかって。別に悪さをしてるわけじゃないのにって。妖憑きだからって殺されるいわれはないってな」

 本当の話なのかと、柊は疑った。

 何故今そんな話をしだしたのかと身構える。

「俺は各地を転々としながら、それでも木彫り人形作って生きて来た。そうしてないと目を付けられるからな。外見が変わらねぇから、それこそ転々としてきたが、自分らを殺すには特別な武器が必要だってことを知った。でもって、その武器を作れなくしちまえば、二度と逃げ回ることもなくなるって誘われた。だからあの時、俺も奴らについて行った。自身の中に妖を飼い、思うがままに操れる【妖刀使い】たちにな」

 自らが生み出した妖たちを倒されている様を目を細めて楽しみながら、世間話のように話は続く。

「でも俺は、村には入らなかった。ついて行ったはいいものの、その場で抵抗されて殺されたら嫌だったからな。だから俺は村の入り口で待つことにした。阿鼻叫喚ってのはああいうことを言うんだろうなぁ。凄まじかったなァ」

 他人事のように話されて、柊の頭に血が上った。

「沢山の人間が殺されて、同じぐらいあいつらも殺されて。俺も行けば良かったって思うようになってたよ。要はあれだな。血が騒いだってことなんだろうな。なんたって俺はそのときは妖憑きだったからな。品行方正な人間様の皮を被っているだけで、やっぱりあんな光景見せられたら躰が疼いたわけだ。聞こえて来る悲鳴に漂って来る血の匂い。それまで人間の血肉を喰らいたいなんて思ったことなんかなかったさ。今でもそんなに思わねぇがな。その時の俺はそうだった。喰いたくて喰いたくて、腹が減ってた。そこにな。あいつは来たんだ。こいつと」

 と言って【揺り籠刀】を叩き、

「こいつを」

 と言って、自分の頬を叩き、

奴らがな」

 柊は内心で目を見開く。

「そいつらな、恐怖に顔引き攣らせて血相変えて逃げて来たんだよ。まずい、ここには【妖斬妃】がいたってな。【妖斬妃】ってなァ何だって聞けば、相手は教えてくれたさ。べらべらと早口で、喧嘩を売っちゃならない相手だって。報復されるって。だから俺は、話を聞き終えた後にそいつを喰ってやった」

 意味が分からなかった。

「だってそいつ、追いかけて来られることをやけに恐れてたからさ。なんだか美味そうで、ついがぶっとな。今じゃとても考えられねぇが、そいつを喰い尽くしたら、そいつの妖刀も刀に戻って消えちまったんだが、どうしたもんだか、俺はその刀すら喰らっちまった。今になって思い出してみれば、あり得ねぇことだとは思うんだが、その刀が俺に『喰え。喰え』って言ってた気がしたんだよなぁ。そしたら顔が熱くなってな。気が付いたら顔半分が変わっててな。アレは驚いた。左右で顔が綺麗に違うんだ。前髪伸びきるまでは布巻いて火傷したってことにして苦労したぜ」

 柊には返す言葉がなかった。

「自分に何が起きたのか分からないまま、とりあえず俺はこいつを持って逃げた。同族喰い殺したって知られたら、今度は俺が狙われると思ったからな。思わずこいつを持ってきちまったのは、まぁ、弾みだな。綺麗だと思ったのは間違いないが、手放せないと思った。で、そのまま持って逃げ帰って。後々になって色々知った。あいつらが襲った村の話。自分が持ち帰って来た刀の話。でもって、妖斬妃が『子供』と称する【揺り籠刀こいつら】を取り戻すために旅に出たことを。だから俺は準備した。いつやって来てもいいように、コツコツと時間をかけて目立たずに。俺だって殺されたくはねぇからな」

 だったら素直に返せばいいじゃないかと訴える。

「まぁ、この流れから行けば、素直に返せばいいじゃないかって坊は思ってるんだろうが、話はそんな簡単なもんじゃねぇんだな。俺はこいつを気に入っちまった。こいつで遊んでると楽しいんだ。飽きねぇんだよ。こんな面白れぇもんをみすみす返したくなんかねぇ。だから俺は、こいつを手放さずにいられるように、誰に悟られることもないように秘密裏にそっと手駒を増やして来たんだ。

 まぁ、こんなこと言っても信じられねぇかもしれねぇが。俺は罪のねぇ人間には一切手は出してねぇし、出させてねぇ。むしろ、追い詰められて困ってる奴らの手助けをして来たんだ」

 おお。やっぱりすげぇな――と、話の合間に歓声を上げる男は、目を細めて告げた。

「俺はな。坊も仲間に欲しいと思ったんだ」

 驚くほどに優しく熱のこもった声だった。

 突然の告白に、柊は動揺した。

 全く予想外の言葉だった。

「初めて会って解かったぜ?」

 動揺する柊を無視し、聞いていることを前提に男は続ける。

「坊は素直で真面目でまっすぐな男だってな。曲がったことは気に入らないし、一生懸命で一途だって。だからきっと、理想も高くて、それに追い付かない自分の現実に歯がゆい思いをしてるんじゃないかって。だからきっと、自分よりうまく立ち回ってる連中に嫉妬もするし、そんな嫉妬する自分に凹んでるんじゃないかって」

 図星だった。反論の余地すらなかった。

「だから、楽にしてやろうと思ったんだよ。妖憑きは悪じゃない」

(悪じゃない?)

「その力を取り込みさえすれば、自分の力に出来るんだ。そうすれば、守りたい奴のことも守れるようになる。出来ることが増える。思い描く自分に近づける。

 そう。俺は今までそういう奴らに力を与えて来た。虐げられたり罵られたり、煮え湯を飲まされたりして来て、復讐したくとも力がなく泣き寝入りしていた奴らに、復讐するだけの力を与えて来た。結果、奴らは妖の力を自分の物にして復讐を果たした。これはな、一種の世直しなんだ。俺なりの世直し。余計な被害者が増えなけりゃ、妖の種は生まれない。力を得た連中は俺の指示に従うし。俺は無関係な人間を襲わせたりはしない。むしろ野良の妖を食らわせて治安維持にさえ務めてる。誰にも迷惑を掛けずにひっそりとこっそりとな。

 だから俺はな。坊にもそんな仲間の一人になって欲しいんだよ」

 それは甘い誘惑だった。

 耳を貸してはいけない誘惑だった。

 一瞬でも柊は考えてしまった。自分が力を手に入れて、椿の隣で共に並んで戦っている自分を。椿を助け感謝される自分を。妖斬妃に褒められる自分を。境土たちに認められる自分を。

(ああ、いいな)

 考えることを止めることは出来なかった。

(そうなったら、どれだけいいだろう)

 故に、柊は見落としていた。

 男がニヤリと勝ち誇った笑みを浮かべたことを。

「だから受け入れろ。そいつは坊の敵じゃない。そいつは坊の味方だ。否定するな。拒絶するな。抗わなけりゃ苦しむことはねぇんだからな。坊はあの嬢を助けたいんだろ? だったら急げ。間に合わなくなるぞ」

 冷静な判断が出来れば気が付けるはずだった。

 男が恐ろしく矛盾したことを口にしていることを。

 だが、柊にはもう考える頭などなかった。囚われていた。もっと強くなっている自分に。強くなるための近道を与えられたことに。

 飲み込まれても己の力に変えればいいだけ。

 そうすれば、椿と妖斬妃の一番近くにいられる!

 心が高揚した。なんて素晴らしいことなのかと思った。

 視界がじわじわと闇に飲み込まれて行く中、柊は期待に胸を膨らませていた。

 自分の中の妖が、ようやく無抵抗になった柊を受け入れて喜んでいるのを感じていたとしても、抗おうとは思わなかった。

(自分ならできる。きっとモノにできる)

 何の根拠もないというのに、柊には自信があった。

 視界が闇に閉ざされる。

 それでも柊には恐怖心は湧かなかった。安らぎすら覚えていた。

 それを打ち破ったのは、

「うおっ!」

 男の悲鳴と、闇さえ塗り潰すほどの鮮烈な赤光だった。


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