(2)

 柊は、椿が捕らわれ噛み付かれた様を階段の上から見ていて、心の臓が止まる思いをしていた。

 何故自分は椿の元ではなく、この男の元にいるのかと。

 今すぐ椿を助けに行きたいと。

 絶対的に不利な状況でありながら、椿の快進撃は凄まじいものがあった。

 息を飲み、目が離せなかった。

 もしかしたら、本当にすべての妖を倒してしまうのではないのかと期待した。

 だが、その動きが徐々に徐々に鈍って行くのを柊は見ていた。

 だから助けに行きたかった。蹴りつけられ蹴り上げられた時も、危ないと危険を教えてやりたかった。

 だが、出来なかった。動けなかった。

 柊の体は、既に妖に乗っ取られていた。

 無様だった。情けなかった。悔しかった。

 何故自分が、憎むべき妖の依り代となっているのか。これほどまでの屈辱があるものかと呪いさえした。

 その度に、妖は囁いて来た。

 所詮お前は弱いのだと。弱いせいで何も守れないのだと。

 悔め悔やめと。呪え呪えと。所詮貴様も我らと同じだと。

 無力で弱い雑魚でしかないのだと。

 その度に柊は否定した。

 自分は違うと。何もできずに見ていることしか出来なかった自分とはもう違うのだと。

 その度に妖は嗤った。耳障りな声で嗤った。

 正確には、言葉ではなかった。嗤い声ですらなかった。

 ただの気配だった。気配がそう言っているように柊には聞こえていた。

 妖に乗っ取られてさえいなければ、自由の身であったなら。今頃は椿を助けてやれていたかもしれないのにと、心の中で拳を握る。

 椿の悲鳴が聞こえて来たのはその時で。

 椿のことを守りたいと思っていた柊は、恩を返したいと思っていた柊は、役に立ちたいと思っていた柊は、その日一番の絶望に捕らわれた。

 しかしその時、柊は聞いた。

《まだだ!》

 と言う聞き覚えのない男の強い声を。

 そして聞いた。

《一体誰を抱きしめているのか解かっているのかェ?》

 決して張り上げているわけではない、わずかに怒りの含まれた艶やかな声を。

 到底聞こえて来るわけのない声を。

 それでも柊は聞いた。

 そして、見た。

 椿を背後から羽交い絞めにしていた妖の腕がボトリと落ちる様を。

 椿の姿に被る妖艶なる美女の姿を。

 刹那、

「ほぉ。アレが噂の【妖斬妃】さまか」

 上から感心したような声が降って来る。

 その声が聞こえたわけではあるまいが、長い睫毛に縁どられた金色の瞳がちらりと向いた。

 それだけで、息を止めるほどの鋭い殺意が飛んで来る。

 思わず震え上がるほどの見えない刃に当てられて、柊は硬直し、男は『ほっ』と気の抜けた声を上げていた。

 妖斬妃がニッと口の端を上げて目を細め、

《さあ、舞おうぞ》

 すらりと真紅の太刀を掲げたのはその直後。第二幕は切って落とされた。


   ◆◇◆◇◆


《さあ、舞おうぞ》

 妖斬妃が告げて刀を掲げただけで、ザッと音を立てて妖たちが退いた。

《どうした? 何故引き下がる? 妾を捕らえたいのではなかったのかェ?》

 しなを作って問い掛ける。

 大きく開けられた白い首と胸元を見せつけて、妖斬妃がくるくると太刀を回して、流し目をくれてやる。

 途端に、目を向けられた妖たちがさらに後退。

 妖斬妃と椿を中心に空間が生まれる。

 クスクスと妖斬妃が笑って眺め見て。

《大丈夫かえ?》

 口元を動かさずに椿に訊ねれば、椿は額に脂汗を浮かべ、どくどくと流れる左の首筋を押さえながら膝を付いていた。

《じゃからさっさと代われば良いものを。何故そのように意地を張った》

 問われて椿は涙目になりながら唇を噛む。

《しょうもない娘よなぁ》

 呆れた声を一つ上げ、

《どれ。血止めぐらいは出来ようぞ》

 すらりと伸びた一つの曇りもない白い手を、そっと椿の手の上に重ねれば、椿はその冷たさに一瞬びくりと首を竦めた。

 それでも椿は重ね合わされた手のひらから温かいモノが注ぎ込まれるのを感じていた。

 首の噛み傷が熱を持つ。

《どうじゃ? 動けそうか?》

 誘うように問われ、椿は数度左手に力を込めた。

「少し痺れは残っているような気はするが、行ける」

《呼吸はどうじゃ》

「大丈夫」

《また、強情を》

 クスクスと笑い声が降って来る。

 全てお見通しだということは分かっているが、

「大丈夫!」

 あえて椿は言い切った。

《ならば立て。太刀を握れ。そなたから離れて戦うことは容易じゃが、今のそなたからさらに体力を奪うわけにもいかんからのォ。相手は雑魚ではない故な。それに。これが終わってもまだ終わりではなかろうし》

 意味ありげに呟いて、妖斬妃が階段の上で高みの見物を決めている男へ視線を送る。

《久々に共に舞おうぞ》

 促され、椿は立った。

 妖斬妃が刀身を水平に頭上に構え、左手を前に突き出せば、椿も同じように構えを取った。

《さあ、目を瞑れ。呼吸を整え、妾を感じよ》

 心地よい声が耳朶に届き、椿は頷く。

 それまでの乱れ切った呼吸が嘘のように落ち着いていた。

 石でも括りつけられていたかのような足の重さも体の疲労も嘘のように消えていた。

 だが、それが嘘だということを椿は痛いほどに知っていた。

 疲労は消えたわけではない。今この時だけ妖斬妃が肩代わりしているだけだということを。

 これが終われば、更に倍になって返って来るということを。

 それでも椿は構わなかった。

 それが自分の今の実力だと噛み締めるために、思い知るために必要なことだったから。

 ありもしない妖斬妃の心の臓の鼓動が聞こえて来るようだった。

 必要としない妖斬妃の呼吸が感じられるようだった。

 心を落ち着け無心となる。ただただ静かに。波紋一つない水面のごとく心を鎮め――

《行くぞ》

 誘う言葉に促され、頷き再び目を開けたとき。金色の瞳の椿は動き出す。


 椿は走る。その場に妖斬妃を置いて。ただまっすぐと。

 そこで妖は前に出る。相手が妖斬妃ではなく椿だと知って。

 だがそれが間違いだったことを、妖は後悔することなど出来なかった。する暇さえなかった。

 空洞となっている中心で、妖斬妃が一歩足を踏み出せば、合わせるように椿も一歩を踏み出し、妖斬妃が袈裟懸けに斬りつければ、時同じくして椿も一気に斬りつけた。

 そのまま流れるように左足を滑らせて一回転。長い黒髪を翻し、小振袖を翻し、一閃。

 伸ばされた手を左手の鞘で打ち払い、下から上に切り上げる。

 椿は回るくるくると。

 時に身を沈め、時に身を反らし、伸ばされる手から逃れつつ、鞘と太刀が妖たちを翻弄する。

 鞘で穿ち、刃で引き裂き、夜よりも暗い血しぶきを撒き散らし、濡れては敵わんと離脱する。

 トントントンと軽く飛ぶように後退し、にやりと笑う。

 その妖艶な笑みに、小馬鹿にしているような笑みに、妖たちの頭に血が上る。

 なりふり構わず引き寄せられるように殺到し、初めに掴み掛って来た妖の腕を飛びのいて躱した椿が前進。妖の躰を踏み台にして駆け上がる。

 前のめりになった後の妖の肩を、頭を、容赦なく踏みつけてその身を宙に踊らせて、回転しながら落下。落下の力も乗った一刀は、首筋から心の臓にまで達する深さまでざっくりと斬り裂いて、断末魔の声すら上げられぬままに倒れ始める妖の、その背を足蹴に再び跳躍。

 妖たちの頭上を美しい放物線を描く背面飛びで飛び越えて、落下しつつ背中を向けている妖の首を切断。着地しながら体を反転させて身動きできなくなっている妖を十字に斬りつけ、すかさず逆手に持ち直して背後に突き出す。

 引き抜き様に駆け出して、一閃。反転して上から下に一刀両断。

 そこに、それまでの椿の戦い方はなかった。

 武骨でぶつ切りだった動きは皆無。

 全ての動きが流れるように繋がっていた。

 無駄がなく、それでいて美しかった。

 力技ではなかった。離れてみれば太刀の軌跡が留まることなく流れていることに気が付いただろう。無理もなく。無茶もなく。全ての動きが次に繋がり、あたかも妖自身が自ら斬られに行っているように見えただろう。

 飛んで火に入る夏の虫。

 誘い出されて飲み込まれ、沈められる姿を見ながらも続いてしまう愚かな妖たち。

 あたかも魅了されたように、面白いように沈められて行く妖たちは、最小の動きで致命傷を与えられたものも少なくなく、次々とその躰を、命を、捧げて行く。

「ほう」

 柊の上から感心した声が降って来る。楽しげな声が降って来る。

 残念ながら、その気持ちが柊にも解っていた。

 離れて見下ろしていたから気が付いたこと。

 椿の動きが、何者も寄せ付けない妖斬妃の円舞と連動していたということを。

 まるで月光が集められているかのようだった。

 ぽっかりと開けた空間で月明かりに照らされた妖斬妃は舞う。輝きを増す真紅の刀身が描く軌跡が更に妖斬妃の妖艶さを引き立てる。

 錯覚だということは重々承知の上で、柊の耳には聞こえていた。

 妖斬妃の舞に合わせる楽の音が。笙や鉦や琴の音が。鈴や太鼓や相槌が。

 斬り結ぶ相手が居ないにも関わらず、妖斬妃の一振り一振りに合わせて肉を断つ音がする。

 聞こえるはずのない音だった。届くはずのない音だった。

 それでも柊の耳には届いていた。

 椿の動きを見ていたから。

 いや、本当は見えていない。

 椿の体は小さかった。対して妖たちの体は大きかった。

 たとえ高見から見下ろしていたとしても、その姿は陰になる。

 それでも柊の目には見えていた。

 不思議な感覚だった。

 妖斬妃の姿に椿が重なって見えていた。

 見えない中で、椿がどう動いているのかが分かっていた。

 同時に、妖斬妃が妖たちを屠っているのも見えていた。

 一体、一体、妖が消えてゆき、ボロボロの折れた刀が地面に散らばる。

 視界が広がる。合間から椿が見える。

 美しかった。妖斬妃のような妖艶な笑みを浮かべ、髪を振り乱し、袖を翻し、赤い軌跡を宙に刻んで、新たな獲物を誘い斬る。

 そんな中、勇気ある妖が妖斬妃に狙いを定めて襲い掛かるが、妖斬妃はしゃがみながら後退。空を掴んだ妖が躍起になって掴み掛るも、妖斬妃の口元には余裕の笑み。

 右に左に避けられて、前に後ろに避けられて。たたらを踏めば背中を押され。姿勢を崩して倒れ込み、手近にあった仲間の残骸を腹いせに投げてやれば、容易に弾かれ――

 離れた場所で妖斬妃が横に一閃太刀を振り抜けば、すぐ傍に接近していた椿の太刀が首を刎ねた。

 次から次へと仲間が消えて行く中で、両の手で数えられるほどになった妖たちが、背中合わせになった椿と妖斬妃に向かって殺到する。

 二つの花が咲き綻ぶかのようだった。

 華麗に美しく、優雅に鋭く容赦なく。入れ代わり立ち代わり、剣を揮う。まったく同じ動きを背中合わせに繰り広げる。

 妖斬妃が大きく一歩を踏み込み、椿も倣う。

 突き出した太刀が同時に妖を貫き、引き抜き様に反転すれば、互いの獲物を下から上に斜めに斬り上げ、返す刀で次の妖を斬りつける。

 数歩前に歩み出て、鏡のように瓜二つの動きで妖の銅を薙ぐ。腕を落とし、首を刎ねる。

 向き合い、二人の間に入っている妖たちに飛び切りの笑みを向ける。

 妖たちは、逃げ出した。

 椿と妖斬妃は追いかけた。

《鬼ごっこは大好きじゃ》

 生き生きとした顔で妖斬妃は追いかける。

 地を蹴り、宙を舞い、距離を縮め、迫る気配に堪らず振り返りかけた妖の背中を――いや、肩口から反対の脇腹までをざっくりと断ち切る。

 悲鳴すら上げられずに、妖の躰の上下がずれ落ちて。ぼろぼろの刀を残して霧散する。

 残りは三体。

 妖斬妃と椿は同時に刀を投げていた。

 狙い違わず相手の背中に飲み込まれる。

 背中を押されたかのようにドッと前のめりに倒れる妖に、殆ど同時に辿り着いた二人が、妖の背中に足を乗せ、逆手に持って引き抜き、容赦なく延髄を貫き直す。

 残り一体に同時に振り返り、追う。

 妖は逃げる。

 だが、妖斬妃が追い付く方が速かった。

 行く手を塞がれ、慌てて進路を変えれば、そこに待ち受けていたのは満面の笑みを浮かべた椿。

 ギョッとしたのが離れた柊にも伝わって来た。

 躰が強張ったのが見て取れた。

 そんな隙を見せたらどうなるか。

 足を止めてはならなかった。逃げ続けなければならなかった。

 足を止めたら最後。

《もう終わりかェ? つまらぬのォ》

 と言う声が聞こえて来たような気がした。

 妖斬妃と椿に挟まれた妖は、正面と背中を八の字に斬りつけられ、前後から容赦なく太刀によって貫かれた――一拍後。

 パンと、弾かれたように霧散した残骸に月光が辺りキラキラと輝く。

 それが、椿を包囲していた妖たちの最期だった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る