(2)
「な、んで?」
自分の目の中に飛び込んで来た光景に、柊は驚きのあまりそんな間の抜けた言葉を発することしか出来なかった。
昨夜、思いがけず妖と交戦し、危うく命を落とすところだった柊。
まさに九死に一生を救ってくれたのは、かつて妖の群れから間一髪で助けてくれた【妖斬妃】と呼ばれる女人――の姿が被って見えた、同じ名を告げた一人の娘だった。
自分が、姿は違えど同じ名の女人に二度も命を救われた事実と、仲間が駆けつけてくれたことに対しての安堵感から、不甲斐なくも意識を失った翌朝。
目が覚めて初めに思ったことは、清吾のこと。
清吾は、一命は取り留めている状態ではあるものの、まだまだ予断は許されない状態で、傷に触るから面会謝絶だと光来に告げられた。
自分がもっと強ければと、己を責める柊を、光来は慰めた。
アレはどうにも出来なかったと。たとえ、妖を仕留めることが出来る白刀を持っていても、人の速さを越えて来るようなものにそうそう太刀打ちは出来ないと。
事実、白刀を帯刀している戍狩の中ですら、妖とまともに交戦できる者は多くないと言われている。
無理もない。剣術の稽古はあくまでも人間が相手なのだから。妖相手に稽古が出来れば訓練にもなるのだろうが、いない以上はどうしたところで人間相手の動きしか身につかない。
ましてや、石を投げれば妖に当たるほど頻繁に妖と遭遇することもない以上、経験値を稼ぐことも難しい。
だからこその光来の慰めだったが、柊は唇をかんで強く強く、拳を握り締めた。
『清吾さんのことは俺が見てるから、お前は一回家に帰れ。オヤジさんが心配してるかもしれないからさ』
頭を乱暴に掻き撫でて促され、咄嗟に残ると口に出そうとして踏みとどまり、柊はその場を後にした。
自分がその場に止まると主張したところで何もできないということは明白で。
だとすれば、柊はすぐにでもお世話になっている叔父の元へ帰り、昨夜のことを話したかった。
自分が村を出てこの町に来た理由を唯一知っている叔父に、自分が生きて今ここにあるきっかけを作ってくれた存在と再会できたことを知ってほしかった。
知らせたところで何がどうなるわけでもない。
ただ、知らせたかった。二度も救ってもらった命を、どうすればその存在のために役立てることが出来るのかと。
そして、教えてもらいたかった。どうすればもっと強くなれるのかと。
目の前で、妖に殺される人間を見るのは嫌だった。救えない自分が嫌だった。
六年前とは違い、それなりに動けるようになっていると思っていた。使える人間になっていると思っていた。
だが、違った。いきなり妖が相手だと知っても、足が竦むことはなかったし、体が動かなくなることもなかった。致命傷を負うこともなかったし、それなりに耐えることも出来た。
だが、足りなかった。全然足りなかった。一人であれば生き残れたりはしなかった。時間稼ぎも満足にできなかった。何より、清吾に致命傷を与えるようなことにはならなかった。
体力が足りなかった。持久力がなかった。技術がなかった。速さがなかった。何もかもが足りなかった。未熟だった。悔しかった。一瞬の隙を付かれたことが、一瞬でも隙を作ってしまったことが。
だからこそ、指示を仰ぎたかった。かつて戍狩として第一線で活躍していた叔父に。
村を出て、この町に連れて来られた泣き虫だった柊が、強くなりたいと泣いて頼んだ最初の師匠に。
叔父がいたからこそ、柊は網目衆となれた。網目衆には誰も彼もがなれるものではなかった。少なくとも、最低一人でも戍狩の推薦と保証がなければなれるものではなかった。
柊は、最強の駒を身内に持っていた。村であんな惨劇が起こるまでは知ることのなかった身内。何故叔父が村を出たのか、その理由を柊は知らない。ただ、村を出ていてくれたおかげで、戍狩になってくれていたおかげで、柊は泣き暮らすだけの人生を歩むことはなくなっていた。
叔父を頼り村を出たいと言ったのは柊。そして、強くなるために弟子入りしたのも柊。網目衆となり、実戦経験を積ませて欲しいと懇願し、鍛えて願いを叶えてくれた叔父に、もっともっと強くなる方法を伝授してもらいたかった。
師事したからと言って、明日に強くなれるわけではないことは百も承知のこと。体力も持久力も速さも技術も、一日で身に付くものではない。日々の日課となっている鍛錬を欠かしたことはなかったが、今まで通りのことをしているだけでは足りないのだと突きつけられた。
もしかしたら、自分の限界はここまでなのかもしれないという恐ろしい考えが膨れ上がるが、それを無理矢理に押し込めて、まだまだ伸びしろはあるはずだと期待を込めて、そう言ってくれることを祈るような気持ちで、朝、棒売りや職人たちが行き来する往来を柊は急ぎ――そして、「聞いてください叔父さん!」と、勢いよく暖簾を出していない状態の蕎麦屋の入り口を開けて、「おう、柊。昨日はなんだか大変だったらしいな」と、やはり、情報がどこから入っているものか、すでに昨夜のことを知っている様子の叔父が、労わりの籠った眼差しを向けて出迎えてくれたことに安堵したのも束の間。
その手の中の盆の上に乗っている蕎麦を、本来客などいるはずのない時間帯にも関わらず、卓に付いている客に出している途中の叔父を見て。
そのすぐ傍に座る、頭の上で黒髪を一つに束ねた季節外れの桜が描かれた薄桃色の小振袖に藍色の袴姿を見て。恐ろしい既視感を覚え、それが、昨夜の記憶と結びついたとき、柊は『なんで』と問い掛けずにはいられなかった。
「柊。お前一体どうした。なんだその顔」
と、半ば驚いた様子で叔父――境土が訊ねれば、昨夜【妖斬妃】と名乗った娘の肩がピクリと動く。
だが、柊にしてみればどうしたもこうしたもなかった。
「な、何で……、ここに、その人が?」
夢を見ているのかと思ってしまった。
そうと思わなければ辻褄が合わなかった。
体が打ち震えて、思わず後ずさるほどに信じられない光景だった。
ずっと会いたいと思っていた存在だった。感謝を伝えたい存在だった。
昨夜は突然過ぎて間の抜けた問い掛けしか出来なかった。
似ても似つかぬ外見の、同じ名を持つ娘。
六年前に救われた、あの美しい浮世離れした存在に会うことはないと思っていたが、同じ名を有する娘と、こんなにも思いがけない場所で早々に再会できたことを、すぐには受け入れることが出来なかった。
「この嬢ちゃんがどうかしたのか? つか、とりあえずどっかに座れ。お前だって怪我してんだろ」
と、気づかわしげに境土が声を掛ければ、柊は弾かれたように動き出した。
逃がしてはならない存在だった。
これを逃しては、次がいつになるか分からない。いや、そもそも次があるかどうかも分からない。だとすれば、ここで、今目の前にいるこの状況で、動かずにいるのは愚か者のすることだと言わんばかりに、柊は【妖斬妃】の横に立つ境土の元へ勢いよく駆け寄って、
「妖斬妃さま! 昨夜は命を救っていただき、誠にありがとうございました!」
「って、おい、柊?!」
突如境土の足元に膝を折り、勢い良く頭を下げる。
「六年前。とある鍛冶師の村が妖の群れに襲われたときも、あなた様と同じ名の女人に命を救っていただきました! もしや何か、その名を持つ女人について知っていることはございませんか?! もしも知っておられましたら、どうか教えてください!」
もしかしたらもしかしなくとも、知ったことかとばかりに無視をされると思っていた。
昨日の今日で何を言っているのだと迷惑がられるかもしれないという覚悟は出来ていた。
だが、予想に反して答えは返って来た。ただし、
《聞いたか椿よ。この者、そなたと同郷だと申したぞ》
声だけでとても艶のある楽しげな声だった。
そしてそれは、幼いながらにも強烈に耳に残っていた、あのとき助けてくれた女人の声と同じもの――だが、それよりも何よりも、その声が口走った耳慣れた名前が、衝撃となって柊の体を貫いた。
とても聞き慣れた名前だった。
いや、もしかしたらよくある名前だと言われれば確かにそうだと思わなくもない。
だが、その声が発した短い言葉は勘違いだと言い切るには難し過ぎた。
柊は、弾かれたように顔を上げ――機嫌の悪そうなその横顔を見た。食い入るように見た。
切り揃えられた前髪。ふっくらとした頬に穏やかな喋り方をする愛らしい女童だった。村の有力者である【火炎】一族の末娘。ただの村人である柊が声を掛けるなどもってのほか。
それでももっと幼いころには、何も知らなかったころには、一緒に畑仕事を手伝ったものだった。優しい女童だった。一緒にいることが何よりも楽しかった。刀が好きな女童だった。
何故そんなものが好きなのかと、むしろ刀が恐ろしかった柊は不思議でならなかった。
柊の知る椿は言った。
『よくみるときれいなのです。はもんのひとつひとつがみんなちがって、おなじにみえて、でもちがって。じっとみていると、はなしかけてくるようなきがするのです。しっていますか? かたなははじめから、あれほどうつくしいものではないのですよ? もとはいしくれのようなものから、あのうつくしいかたちになるのです。とぎしや、ほりしや、さやをつくってくれるたくさんのひとたちのてをへて、あのうつくしいすがたになるのです』
いつもうっとりと聞かせてくれていた。
一度は作っている様を見てみたいと。
でも、女は工房に近づいてはいけない決まりになっているから見に行くことが出来ないと。
その度に椿は言った。
『ひいらぎはいいね。おとこのこだから、もっとおおきくなったらみられるんだから。つばきもおとこのこにうまれていたらよかったのに』と、最後はいつも項垂れて羨ましがられた。
柊は幼心に、いつか椿に自分の打った刀を捧げようと思うようになっていた。
自分の打った刀を褒めてくれるのを想像するだけで心が躍った。
だが、その日は起きた。父も母も兄たちも。叔父も叔母も友人たちも。沢山の人間が死んだ。
椿が暮らす屋敷も襲われたと後日知らされ、その姿が消えたことを知らされて、生きる気力も失った。それでも立ち直れたのは、単に小さな怒りだった。蝋燭のごとき小さな怒りの焔。
突然襲って来た妖たち。理不尽に駆り尽くされた家族の死。何より、想いを寄せていた椿の死を受けて、柊は誓ったのだ。
強くなりたいと。強くなると。
自分を助けてくれた【妖斬妃】のように、颯爽と妖たちを狩れるほどに強くなりたいと。
村の仲間たちと椿の無念を晴らしてやると。
そして、騒ぎを聞きつけたらしい叔父からの文を受け、柊は村を後にし、叔父である境土の元へやって来た。
その、強くなるきっかけをくれた二つの名を、今ここで耳にして、柊は否が応にも期待した。
こんな奇跡があるのかと。
ただ、椿の横顔からはとてもとても、かつて言葉を交わしたあの椿の面影を見て取ることは出来なかった。
唯一の共通点と言えば、切り揃えられた前髪だけ。
だが、それでも、似ていなくとも、面影を探せなくとも、柊の胸は苦しくなるほどに締め付けられていた。
死んだと思っていた椿が生きていた。
生きて自分の命を救ってくれた。
六年の月日が経っていた。赤の他人かもしれない。
それでも、聞き覚えのある声が告げていた。
《椿よ。この者、そなたと同郷だと申したぞ》と。
だとすれば、確かめずにはいられなかった。
「……椿、さま……なの、ですか? 本当に?」
問う声が震えていた。
直後、驚いたように椿は柊を見た。
そして、
「お前、なんで嬢ちゃんの名前を? 今の声が聞こえたのか?」
何故か動揺も露わに境土が問い掛けて来て。
何がそんなに驚かれることなのか戸惑っていると、
《そなた、意外にも素質があるのかもしれぬなァ》
ふわりと誰かに背後から包まれて、間近に聞こえる艶のある声に体を硬直させれば、ひょいと覗き込んで来た顔を見た瞬間、
「よ、妖斬妃さま?!」
仰け反るように柊が悲鳴を上げた。
事態は既に、柊の理解の範疇を越えていた。
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