第四章『動き始めしものたち』
(1)
「おや?」
金森神社近くの長屋の一室で、驚きの含まれた男の声が上がった。
誰もが寝静まっているはずの時間だった。
現に行燈の明かりを灯している部屋は一つもない。
それでも、男は起きていた。起きて、明かり一つない暗がりの中。神社の出店で売りに出す木彫りの干支を彫っていた。
当然のことながら、あり得ない状況ではあった。
到底人の目で、完全なる暗闇の中、木彫りの干支など作り出せるものではない。
元々盲目であれば不可能ではないかもしれない。
だが、盲目でなければ普通は出来ない。
それでも男は彫っていた。
シュ。シュ。シュ。シュ。と、木を削る音は、現に驚きの声が上がるまで、男の部屋で聞こえていた。
ただし、その音を聞いているものは同じ長屋に暮らすものの中にはいなかった。
聞いていたとすれば――
「ああ、いや、それほど気にするほどでもないさ」
闇の中、明らかに蠢く『何か』たちに、男は笑みを含めて答えた。
「単に、くれてやった奴が消されただけのこと。ただ――」
と、男は一旦言葉を切る。
「気配が違ったな。アレは戍狩たちの使う白刀に消されたわけじゃない」
では、何なのか。
「探るか……」
闇の中でにやりと男が笑うと、ピリリとした緊張感が膨らんで。
「ああ。そうしてくれ」
と、男は満足そうに応える。
刹那、暗闇の中に生まれていた気配が四方八方に飛び散った。
「もしかしたら、噂は本当なのかもしれない」
その気配を察しながら、男は楽しげにクククと喉を鳴らし、誰もいなくなった室内で独り言ちる。
「曰く。我が子を取り戻すために母が捜し回っている――。
だとすれば、とうとうここまで来たのかと感心すればいいのか、まだ諦めていなかったのかと呆れればいいのか。よくぞ来てくれたと喜べばいいのか。しかし、あいつらも馬鹿なことをしたもんだ」
男の声に侮蔑が交じる。
「少し考えれば分かったこと。欲をかかずにそれなりに楽しんでおけば、後にこんな面倒ごとが起きなかったものを、よりによって襲ったのが火炎の本家とか。甘言に踊らされたからこんなことになったんだ。しかしな」
闇の温度がぐっと下がる。
「騙されて調子に乗ってたあいつらも馬鹿は馬鹿だが、正直腹に据えかねてるのも事実――」
男は卓上に小刀を置くと、すぐ傍に置いてあったものに手を伸ばし、言った。
「もしも本当に、アイツがお前を取り返しに来ていたのだとしたら、お前は泣いて喜ぶのだろうな。
だが、お前にはどうにも出来まい。今の主はオレなのだからな。精々オレの手で感動の再会ぐらいは果たしてやるが、その後はお前の力で叩き折ってやるから楽しみにしていろ」
直後、男の手をびりびりとした刺激が伝わったが、
「無駄だ無駄だ。まだ諦めてないのか? お前には何一つ自由などない。呪うなら自分を呪え。母に倣って愚かな真似をした己をな。さて、その刺激は背中を丸めて彫り物をし続けて来た首に与えると丁度いいんだ。さすがに眠くなってきたし、オレの安眠のために役立ってもらおうか」
明らかに尊厳を馬鹿にして、男は《それ》に頭を乗せて本当に横になった。
「あ~これだこれだ。実に気持ちがいいものだ。この振動も、お前の怒りも。お陰でいい夢が見られそうだ」
そして男は、瞼を閉じて、正真正銘の眠りに落ちる。
それはすべて男の部屋の中で起きたこと。
隣の部屋の住人も、向かいの部屋の住人も、男が何者で夜な夜な男の部屋に何が集っているのかを知りはしない。
知っていれば、とても同じ長屋になど住めてはいなかっただろう。
男は、同じ長屋の住人たちにとって、ただの木彫り職人でしかなかった。
掌に乗る可愛らしい十二支の木彫りたち。
それを二束三文で売りさばき、稼ぎの少ない者たちにとっては子供たちにいい土産が出来たと喜ばれ、周りの者からすれば生活が成り立つのかと心配される。気立てと気前のいい青年だと思われている男は、闇の中、これから起こるであろうことを想像し、自然とニヤける己を止めることが出来なかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます