(3)

 唸り声すら上げずに、涎を垂れ流しながら迫り来る妖の動きは、見た目を裏切らず獣そのもの。狭い座敷を走り抜け、目を隠された妖は、両手足を付いて迫り来る。

 だが、明らかにおかしな動きを妖はしていた。

「おいおいおいおい。何なんだよ、こいつ」

 引き攣った笑みを浮かべて光来が網目衆たちの胸の内を代弁する。

 事実、誰もが同じことを考えていた。

 妖は、網目衆たちにまるで興味を示さなかったのだ。

 仕留めようと仕掛ける網目衆たちの間をすり抜け、隙あらば喜与三郎の命を奪わんと肉薄する。

 それを柊たちはひたすら防ぎ、距離を取らせようと奮迅する。

 しかし相手はどこまでも速かった。右に左に縦横無尽。四人の連携によって何とか退けられてはいるものの、危うい場面は何度もあった。

 それでも妖は、標的の邪魔をする網目衆たちに狙いを変えたりはしなかった。

 どこまでもどこまでも。隠された目隠しの向こうから、たった一つの標的――喜与三郎だけを狙ってくる。

 普通であれば、まず目障りな網目衆たちを排除しようとするはずだった。だが、妖は殴られようが蹴られようが、時に捕悔に宿した札の効果で焼かれようが、ただひたすらに喜代三郎に迫った。

「ぐっ」

「源次さん!」

 突如現れた妖に執拗に狙われて、完全に状況に置いて行かれ呆けていた喜代三郎を突き飛ばし、身代わりになった源次が背中を切り裂かれる。

「ひぃいいい!」と情けない声を上げて畳の上を這う喜代三郎。

 その背中に向かって妖が畳を蹴れば、

「させるか!」

 柊は力の限り捕悔を投げつけた。

「キュアアア」

 耳に突き刺さるような悲鳴を上げて、空中で姿勢を崩して暴れ回る。

 柊の投げつけた捕悔は、ものの見事に妖の左の肩甲骨の辺りに深々と突き刺さっていた。

 喜代三郎のすぐ足元で、妖が痛みに苦しみのたうち回る。

 右手で引き抜こうと試みるも、長い爪が災いして引き抜くことが叶わない。

 そこを好機と捕えた清吾と光来が、次から次へと捕悔を突き刺せば、

「キュアアアアアアア」

 堪らず耳を塞ぐほどの断末魔を上げて、妖はピクリとも動かなくなった。

「やった……のか?」

 逃げられたら堪らないと、動きが止まるまでしっかりと抑え込んでいた光来が、手から伝わる振動が消えたことで思わず呟けば、

「そう、みたい、だな」

 ぜいぜいと息を吐きながら、「俺も年取ったな」と、どさりとその場に座り込む清吾。

「うぅぅぅ、終わったんなら傷の手当てしてくださいよォ」

 情けない声で弱音を吐く源次に、待ってろと声を掛け、清吾が重い腰を上げて足を進める。

 その背中を目で追って、柊は見た。

 卑屈極まる上目遣いで、にやりと笑っている四之助の顔を。

 見た瞬間。柊の背中をぞわりと悪寒が走り抜けた。

 四之助を捕らえているソハヤには四之助の顔は見えない。

 喜代三郎の方を見ている源次にはそもそも見えない。

 ざっくり背中を切り裂かれた源次の傷に、妖に襲われたとき用に配布されていた人形に切られた紙を張り付けている清吾にも、それを冷かしている光来にも。

 故に、


「まだです!」


 叫んだのは直感。

 驚いた面々が柊を見やるときにはすでに柊は身を翻していたが、

「ぎゃあああああ!」

 首筋に噛み付かれた喜代三郎が、恐怖の断末魔を上げていた。

 柊の手は、わずかに妖の纏う着物の裾に届かなかった。

 戦慄と緊張が網目衆の動きを止め、三本の捕悔を躰から生やし、刺さった周辺を炭と変え、ボロボロと崩れさせながらも、妖は喜代三郎の体に足を付き、まるで童が親に抱き縋るかのような形でゴクリ、ゴクリと不気味な音を響かせた。

 ゴクリと一つ鳴るたびに、背中が、躰が大きくなる。

 ゴクリと一つ鳴るたびに、喜代三郎の断末魔が弱くなる。

 血を吸っているのだと察した時には、柊は妖の腹部を思い切り蹴り飛ばしていた。

 ぶぢり――と、怖気を伴う音を立て、小さな布切れのようなものを口にくわえたまま蹴り飛ばされる妖。

 残された喜代三郎は、そのまま呻き声の一つもなくばたりと倒れ、

「気をしっかり!」

 と、駆けつけた柊が膝を付いて声を掛けるも、すでに事切れていることが見て取れた。

 恐怖に引き攣った恐ろしい顔だった。

 印象など最低最悪。襲われていたのだとしても、逆恨みなのではないかと誰もが思っていた。

 刀で切りつけ、獣に喰わせる。

 よほど『源心流道場』の徒党に対して恨みを抱いている者が、腕の立つ者に依頼して報復しているのかもしれないと。

 だとすれば、自業自得と放っておいてもいいようなものだが、他の家人までが巻き込まれているともなれば黙ってはいられない。気持ちは解らんでもないがやり過ぎだと。捕えて罪を償わせようと思っていた。


 だが、まさか、この件に妖が関わっているとは思わなかった。

 備えはある。万が一、妖が関わっていた場合、己の身を守るためにと、様々な効能を齎す札を持たされていた。

 殆どその札を使うことはない。頻繁に妖と相対することはない。下手をすれば一生妖と対峙することなどない網目衆だっていないわけではない。配布され、身に着ける義務を得ていたとしても、内心では小馬鹿にしている者もいないわけではない。

 それでも、妖はいた。いることを柊は知っていた。柊と思いを同じくする網目衆の多くは知っていた。

 この世には妖と呼ばれる存在が確かにいることを。それを生み出す者がいることを。

 それらに対抗できる力を得るために網目衆になる者も多いということを。

 それでも、今回のことに妖が関わっているとは思っていなかったのだ。

 油断していたと責められるものではないということは重々知っていた。

 人々の中で妖や妖怪、幽霊の類は絶対にいるともいないとも言えない存在であるという認識はあるものの、普通に暮らしていて出くわすことは殆どない。

 出会えば最後、大抵は命を取られる。

 そうなってしまえば真相は闇の中。

 瓦版屋が面白おかしく掻き立てはするも、心の底から信じる者はそうそういない。

 たとえ、本当に妖が関わっていたとしても、人々が知るときは妖を臭わせる単語は綺麗さっぱり消されている。

 故に、妖が犯人だとする考えは、よほどのことがない限り除外されているものだった。


 だが、その甘い考えが今回喜代三郎を死なせてしまったというわけではない。

 札の巻かれた捕悔を三本打ち込まれ、炭化も始まっていて、一度は完全に身動きすら出来なくなった状態で、再び動き出す妖を柊は見たことがなかった。

 大抵は完全に仕留められるまで妖は暴れるが、身動きが完全に止まれば後は程なく塵と化して消えて行く。少なくとも今回のように死んだふりをする妖など遭ったことがなかった。

 それは今回この場にいた網目衆皆に言えたことなのだろう。

 だからこそ、誰もが完全に油断していた。全て終わったものだと思っていた。

 しかし、妖は生きていた。

 生きて、喜代三郎の首筋に喰らい付き、その生き血を啜り上げ、今、愕然としている網目衆たちの目の前で、炭化し始めていた躰を修復。一回り二回りと躰を大きくして、捕悔を生やしたまま唸り声をあげていた。

 それを見ただけで柊は察した。

 先ほどまでとは違い、今、目の前にいる妖の標的は自分たちだと。

 嫌でも顔が引きつった。

 あからさまな殺意が向けられる。

「本当に、残念だ」

 笑みを含んだ四之助が口を開く。

「あの男の傍にさえいなければ標的を移されることもなかったのに。ですが、幸いなことにここの家人たちが命を失うことはないということだけはお約束します。アレは、私の目に映ったものしか殺しませんから」

 それはつまり――


「妖刀使いだったのか?!」


 四之助を拘束しているソハヤが悲鳴染みた声を上げたのがきっかけだった。

 グルアアアッ!

 太い声で叫び声をあげて、妖が網目衆を目がけて畳を蹴った。

 畳が抉れて、矢のごとき速さで直進する妖を、柊たちは避けるしかなかった。

 対抗するための唯一の武器は妖の背中に突き刺さったまま。

 捕悔に巻かれた札が妖の躰を炭化させ、それによって効力を失った捕悔は、既に妖にとって何の効力もない。

 それでも、鋭い爪や牙を受け止めるぐらいの役には立った。

 生身の体で、獣の凶器を受け止めるのは愚の骨頂。

 故に、

「随分とうまく逃げられるものだね、羨ましい」

 わずかな嫉妬が含まれた羨望の眼差しと声の主は四之助。

 ソハヤは今すぐに妖を止めろと締め上げていたが、それは無理な相談だと一笑にふされていた。

「別にあの妖はわたしの言うことを聞いているわけではないんだよ。ただ、目的を遂行してくれているに過ぎない。だから止めることも出来ない。すまないね。君たちは良い人そうなのに。本当に、残念だ」

「お前っ!」

 と、ソハヤが更に締め上げを強くしたところで、四之助は卑屈な笑みを辞めることはなかった。それはともすれば、今にも泣きださんばかりの顔にも見えたが、それを確認できる網目衆は誰一人いなかった。

 必死だった。ただただ必死だった。

 その鋭い爪に捕らわれぬように。一噛みで四肢でも肉でもごっそりと奪われて行きかねない牙から逃げるために。

「めっちゃ、きっつ!」

 負傷した源次を担いだ光来が弱音を上げる。

「す、すまん。光来。生き残ったら酒を奢る」

「一か月分な!」

 担がれて逃げ回られているだけと言えばそれだけだが、背中の傷が生む痛みは容赦なく源次の気力を削っていた。

 清吾と柊は、最も不利な二人から妖の注意を引き付けるために奮闘した。

 柊は無手で。清吾は源次から札を巻き付けた捕悔を預かって。

 妖が源次を背負った光来を狙い、それを清吾が捕悔を使って受け止めて、動きが止まったところを柊が襲撃する。

 五人の中では素早さは随一の柊ではあったが、妖の動きはそれを上回るものだった。

 相手は妖なのだ。人間ではない。

 避けるのも常にギリギリ紙一重。時に間に合わず半纏や皮膚を引き裂かれた。

 それは清吾も同じだった。

 最年長の四十代半ば。まだまだ若いものには負けないと豪語しても、疲労は着実に清吾を蝕んでいた。

 徐々に徐々に追い詰められ、傷つけられ、

「光来! 俺を下ろせ!」

「出来るか馬鹿!!」

「でも、このままじゃ清吾さんが!」

「絶対に下ろすなよ! むしろそのまま逃げろ! 逃げて助けを求めて来い!」

 責任を感じた源次の訴えを即座に却下し、有無を言わさず清吾が命ずれば、光来は早かった。

「ちゃんと生き残っててくれたら、鴬屋の大福奢ります!」

「うちの奴の分も含めて一か月分な!」

「はい!」

 返事一つを残して、脱兎のごとく座敷を後にする。

 だとしても、四之助は止めたりはしなかった。

 ただただ気の毒そうな笑みを浮かべるだけ。

 その意図が分からずに、刹那柊は眉を顰めるが、事態はよそ見を許してくれるようなものではなかった。

「清吾さん!」

 柊が強襲すれば、妖は飛びのき、二人と妖が対峙する。

 柊も清吾も、完全に息が上がっていた。

 焦りだけが募っていた。

 決定打がない。武器がない。防具もない。

 ソハヤがまだ捕悔を持ってはいるが、ソハヤから捕悔を借り受けた後に、四之助が何かを仕掛けたら、ソハヤに自分を守る術はない。

 借りるわけにはいかなかった。

 だったら一体どうするか。

「まだ行けますか、清吾さん」

 無理を承知で訊ねれば、

「正直無理だな」

「……」

 正直過ぎる答えが返って来て、思わず柊は絶句した。

「いや、そこはもう少し、なんかこう、頑張れることを言ってもらいたかったです」

「言うだけは簡単だがな、体が本当についてこない。お前がこれを使うか?」

 と、捕悔を差し出されるが、

「いえ、万が一のことを考えると、清吾さんが持っててください」

 まだ余裕のある柊が持つわけにはいかなかった。

「じゃ、もう少し頑張れ」

 別に二人の会話を待ってくれていたわけではないだろう。

 だが、一区切りした瞬間に、妖は柊を目がけて突撃してきた。

 びりびりと殺意が吹き付けて来る。

 尻込みしそうな己を叱咤して、ギリギリまで引き付ける。

 視界の端で、ほぼ同時に清吾も妖目掛けて動き出したのも見えていた。

 そう。見えていた。だからこそ、

「?!」

 突如目の前に迫っていた妖の姿が忽然と消え、

「ぐわっ」

 横でくぐもった悲鳴が聞こえたとき、柊は動揺した。

 視界に飛び込んで来たのは鮮血の赤。

 自分目掛けて突撃して来たはずの妖が襲ったのは、柊ではなく、柊を救おうと駆け出していた清吾。

 その胸元がざっくりと袈裟懸けに裂かれていた。

 ゾッとした。

 体温が一気に引き下げられたような衝撃に、

「うわああああああああっ!」

 柊は叫び声をあげて、止めを刺そうとしていた妖に体当たりをかました。

「清吾さん! 清吾さん!」

 大きく間を取った妖を視界に入れながら、清吾を抱き起す柊。

 自分の体が震えていた。歯の根が合わない。

 まるで他人の体のように、思うように懐から治療札を取り出せず、必要不要に関係なく取り出した札を清吾の傷口に押し当てる。

「清吾さん! 清吾さん!」

 ごふりと口から鮮血を吐き出して、清吾は言った。

「に、げ……ろ」

 柊は頭を振った。何度も何度も嫌だという代わりに頭を振った。

 その手に、血まみれの清吾の手が乗る。

 押し付けられたのは捕悔。

 柊は、しっかりと受け取った。

 零れる涙を拭ったせいで、清吾の血糊が頬を汚すも、柊は受け取った。

「死なないでくださいよ」

 震える声で懇願し、柊は立ち上がる。


(またか――)

 という思いが嫌でも柊を染め上げる。

 六年前。無力な子供だった。

 妖など見たことなどなかった。

 平和な村だった。少し変わった村だった。

 それでも柊は幸せに暮らしていた。

 その村に、突然見たことのない異形のモノたちが溢れ返り、蹂躙が始まった。

 刀を手にした男たちが嗤っていた。

 男たちの言葉に従って、異形のモノたちが――妖たちが殺戮を繰り広げていた。

 目の前で沢山の人が殺されて行った。

 父親も母親も、柊を守って殺された。

 赤・赤・赤・赤。

 至る所が赤色に染め上げられて、柊は頭から血にまみれていた。

 鉄の臭いが最も古い記憶。

 それらが強制的に引き摺り出される。

 怒りが頭の中を熱く煮え滾らせていた。

 怒りに我を忘れかけていた。

 憎かった。憎くて、憎くて、堪らなかった。


(殺してやる)


 もう、無力な子供ではなかった。

 もう、都合よく誰かが助けてくれるのを待っているだけではなかった。

(絶対に仕留める!)

 殺意を滾らせ、柊は妖に挑む。

 怒りは柊の身体能力を引き上げていた。

 妖の攻撃を最小限の動きで避けて、捕悔を見舞う。

 それでも俊敏性は妖の方が上だった。

 致命傷まではいかないまでも、決して浅くはない傷を負い続けていれば、やがて柊の動きにも鈍りが見え始め、

「柊!」

 ソハヤの悲鳴染みた声が、朦朧とし始めた柊の耳に響き渡るも、その目に映るのはソハヤではなく、大口を開けた妖の姿。

(ああ。終わりなのか)

 泣き出したい気持ちで現実を受け止める。

 そう思い、視線だけは絶対に逸らすまいと、ともすれば泣き出しそうな顔で睨み付けたときだった。

「え?」

 突如妖の躰が縦に真っ二つに裂け、その間から、信じられないものを見た。

 長い紫色の髪をざっくりと簪で纏めた、蝶のごとき艶やかな着物を纏った美しい女人を。

 それを見て、柊は信じられない思いで呟いていた――

「妖斬妃?」

――と。

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