(2)


「ひぃぃっ!」

 という、情けない悲鳴と共にどさりと尻もちを付いたのは、年の頃は三十前後の、なんとも貧相極まりない男だった。もしかしたらもっと若いのかもしれないが、どこか疲れたような怯えと陰りのある顔つきが、男から若々しさを根こそぎ奪っていた。

 ある意味予想外の反応に、清吾も光来も一瞬呆気にとられ、「だ、大丈夫か?」と訊ねたのは清吾の方。

 すると四之助と名乗った男は、慌てふためいて廊下に膝を折って座ると、

「す、すみません! すみません! すみません!」

 凄まじい勢いで頭を下げて謝り倒した。

 そこに、脅威を感じる要素は欠片もなく、

「清吾さん?」

 光来が半ば途方に暮れたように助けを求め、清吾も思わず低く唸り。

「あんた一体、こんな時間にこんなところへ何をしに来たんだ?」

 とりあえず、着流し姿に一振りの刀を腰に差した四之助に改めて問えば、四之助は恐る恐るといった様子で頭を上げると、

「せ、先月から、こ、今月に掛けて、ど、道場に通う、な、仲間が、殺されている事件。も、もし、順当に行くと、今度は喜代三郎様が狙われるのではないのかと、お、思いまして。び、微力ながら、お手伝いできることがあるのではないかと、馳せ参じました」

「――と、言ってるが、本当に知り合いか?」

 とにもかくにも確認をと、逡巡した末に清吾が座敷の奥の喜代三郎に問い掛ければ、

「その話し方……」と呟いた喜代三郎は、ようやく誰か合点が行ったらしく、大股に座敷を横切ると、

「貴様のような軟弱者に守られるなど佐藤家の恥だ! よくぞその体たらくで手伝い云々などと抜かせるものだな!」

 自尊心が傷つけられたとばかりに、憤怒の表情を浮かべて大股に廊下へ出ると、

「貴様なんぞ、一体何の役に立つというのだ!」

 頭ごなしに怒鳴り付けた。

 それだけで、四之助はびくりと首を竦めて、すみません。すみませんと頭を下げる。が、

「貴様のような、吹けば飛ぶような男が俺の身を案じて来るなど、そんな話が広まって見ろ。道場でどれだけの恥を俺が被ると思っている!」

「す、すみません。すみません。すみません」

「あああああもう! その心にもない謝罪をやめろ! 謝るぐらいならば初めからやるなと何度言ったら解かる?! いい加減に耳障り目障りだと何度その身に教え込めば覚えるんだ?! 貴様はうつけか? うつけ者なのか?」

「す、すみま――あ、すみません。あ……」

 どうしても謝ってしまう四之助が、気の毒なほどに眉尻を下げて途方に暮れた――いや、怯えた顔をする。

 それがまた、喜代三郎にしてみれば目障りなのだろう。更に怒鳴り付けようと息を吸い込んだとき、

「いい加減にするのはあなたの方ではありませんか?!」

 柊は四之助を守るように喜代三郎の前に立ち塞がると、真っ向から反論した。

 お陰で、喜代三郎の額には青筋がくっきりと浮かんだ。

「なんだと、小僧。小僧の分際で生意気な口をきくな!」

「生意気で結構! 己の弱さも顧みずに、仲間を守ろうと勇気を振り絞ってやって来てくれた者に対する不誠実さ。いい加減に目に余ります!」

「何が目に余るだ! 誰が仲間だ! こいつが俺と同じだと思うか?! 肩を並べられると思うか?! 自分の意志もなく、どこの道場でも長続きせずに、流れ流れてお情けで置いてもらっているだけのこいつが? 使いっ走りの一つも満足にできない落ちこぼれどもの一人が、何を勘違いしてのことか、俺を心配して手伝えることはないのかと抜かしたんだぞ?! 目を瞑っててさえ勝てるような弱小のこいつが、一体何の手伝いができると言うんだ! 馬鹿にするのも大概にして欲しいものだ!」

「それでも! そう言われることが分かっていながら、この方はあなたを心配して来てくださったのではありませんか! この方の他に、一体どなたがあなたの心配をして来て下さったというのです?! ただの一人もいないじゃないですか! みんな、我が身可愛さで安否を気遣うこともしない状況で、よくも肩を並べる仲間がどうこうと言えますね!」

「そ、それは! 来たくとも、い、行きたくとも、貴様らが屋敷から出るなと止めたからだろ!」

「それでも、本当に自分たちが狙われているかもしれないと思えば、互いに心配するのが仲間のではありませんか? それなのにあなたは、不満は並べても他の仲間のことを心配する言葉は一つも発しませんでしたよね?!」

「そ、そんな心配をする必要がないから……」

「でも、これまで四人も殺されています。あなたが言う『肩を並べられる仲間たち』が。その方々が、あなたを含めた生き残った皆さんより弱いのであれば、幾分心配する必要もないかもしれません。ですが、すでに襲われた方々の実力の方が上だったら? 本当に心配する必要はありませんか? 確かに、心配したところでどうにもならないかもしれませんが、それでも本当に気心の知れた仲間であれば、心配するのが普通です。もしくは、一堂に集めてまとめて守ってくれればいいのではないかと提案することだって出来たはずなのに、それすらしない。何故ですか? それとも、仲間と口にしていても、いなくなればなったで清々するような関係だったのですか?!」

「っ、そ、それは!」

「そんな、見栄を張るだけの関係より、こうやって自分の命の危険も顧みずに助太刀しに来てくれるよう方に目をかけてやればいいものを!」

「そんな無駄なことが出来るか!」

 やかましいとばかりに喜代三郎が右手を振り抜いた。

 それは柊の顔面スレスレを勢いよく通過していったが、柊は瞬き一つせずに睨み続けた。

「ぼくはむしろ、この方の勇気を尊敬します。本当は怖いはずなのに、ここにいるだけで体が震えているはずなのに。来たところであなたに感謝されることはないと分かっていながら、それでも駆け付けたその心意気を尊敬します。それが解からないあなたのことを、ぼくはむしろ軽蔑します!」

 と、喜代三郎に対する不満から、一方的な価値観を押し付けている自覚を持ちながら柊が言い放ったときだった。

 茹でダコのごとく怒りに顔を赤く染め上げた喜代三郎が何かを発する前に、

「君は、なんていい子なんだ」

 歓喜に打ち震えたような小さな声が、その場を支配するかのように静かに響いた。

 声の主は、柊の背後にいた。

「四之助……さん?」

 肩越しに柊が振り返ると、四之助はハラハラと涙を流して肩を震わせていた。

「こ、こんな私のことを君のように褒めてくれた人は他にはいない。だ、だから、余計に残念でならない」

 顔を覆って俯いて。紡がれた言葉の意味が分からずに小首を傾げたときだった。


「そんな男を守るために来なければ、命を失うことなどなかったのに」


 空気が、一変した瞬間だった。

 涙に濡れた顔に浮かぶ卑屈極まりない笑みが怖気を呼び――

「柊!」

 清吾が叫ぶのと、柊が喜代三郎を押し倒すのは殆ど同時だった。

 うおっと間の抜けた声を上げてその場に押し倒される喜代三郎。

 その頭上を、小柄な何かが通り過ぎ、座敷の中へストンと落ちる。

 唯一事態に追い付けていない喜与三郎以外の網目衆たちは見た。

 行燈によって照らされた橙色の世界に、足と両手を着いた低い姿勢の影を。

 まるで童のように小柄な体躯の、しかし、明らかに童とは異なる存在を。

 畳に着かれた足は犬のような足だった。

 畳に着かれた手は、異様にやせ細った上に鋭い爪が生えていた。

 本来頭のある場所に、頭はあった。獣のような頭……元が何色なのか行燈の明かりの中でははっきりしないものの、ボロボロの布で鼻から上をぐるぐる巻きにされた犬のような頭を持った何かは、人の子のようにボロを纏い、長い舌を垂らして、そこに、いた。

「な、何なんだ? あれは……」

 半ば呆然とした喜代三郎の問い掛けに、怒りと憎しみを込めて柊は答えた。

「あれは、妖です!」

 直後、網目衆たちは一斉に動いた。

 揃いの半纏の懐から、数枚の札を取り出すと捕悔とくへと巻き付け、瞬時に構える。

 清吾と光来が妖に向かって畳を蹴り、柊は未だに起き上がれずにいる喜代三郎の前でもう一人の網目衆である源次げんじと共に構え、残りの一人であるソハヤが四之助を拘束した。

 だが、迫る清吾と光来を嘲笑うかのように、二人の間をすり抜けて妖は柊と源次に向かって来た。

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