第3話

 【架け橋】

生温い風が教室を抜けて行く。

 揺れるカーテンを眺めながら、女子のスカートみたいだな、と卯一郎は思った。

残暑の生暖かい風と匂いが嫌いではない。

 8月も下旬、日中はまだまだ暑いが、夜は気温が大分下がってきた。今日はエアコンの温度を少し上げて寝れそうだな、とぼんやり考えていると、鳴鳥が話しかけて来た。

         

「よっ、エロエロ大魔神」

 授業が終わると小鳥遊鳴鳥(たかなしなとり)が卯一郎の席まで来る。すんなり伸びた足の白さと、ソックスの紺色のコントラストが美しい。

「なんだその呼び方」

 鳴鳥は構わず机に尻を乗せる。卯一郎はその膨らみに気付かないふりをした。

「さっきの授業もサエコ先生、凄かったね。いつかあんたにテストの答案、横流ししてくれるよ、きっと」

「そりゃ助かる」

 なるべくそっけなく答える。

 自分が英語教師の冴子先生にひとかたならぬ好意を寄せられていることはわかっている。はじめは優しい先生だと思っていた。それがやがて度を超すようになってきた。指名とボディタッチが多すぎるのだ。今では鳴鳥のように気付いているクラスメイトも少なくない。

 興味のない表情をしているが、現役男子高生の卯一郎からすれば、30前後の女教師はそれなりに魅力的だ。来るなら来てみろ。受けて立ってやろうじゃねえか。

……いや、やっぱりちょっと困る。

 鳴鳥は片方の口角をあげる。

「あと、それまでに『弾けない』ようにね。これが一番大事」

鳴鳥は面白そうに笑って言ったが、卯一郎は少し不謹慎に感じた。

目を細めて非難の視線を送ると、鳴鳥は軽く肩をすくめた。

 うちの高校は県内でもまあまあ上位の進学校だ。ほとんどが国立大を目指して、一年から大学受験の為の学校生活を送る者が少なからずいる。

すると受験レースからコースアウトする者も少なからずいるのが現実だ。

中学の成績優秀者が、進学校に入学してついていけなくなるケースは珍しくない。勉強についていけなくなった生徒が、やがて勉強も受験も学校生活も放棄する事は、さして珍しい事ではなかった。


それが最近、成績の良し悪しやいじめとは関係なく、不登校や家出が頻発して問題になっている。


 それまで問題なく登校していた生徒がある日突然、来なくなる。誰にも何も告げず、相談した形跡もない。

成績も、部活動も、友人関係も、何の問題のなさそうな生徒が学校からも家からも突然姿を消す。

よくある話だ、と卯一郎は思う。

表面上に問題が見受けられなくとも、本人が何らかの問題を抱えているなんて、よくある事だ。

警察へ失踪届ではなく誘拐事件として相談する親族がほとんどらしいが、多感な十代の若者がある日突然居なくなったと言っても、警察は親身に対応してくれないのが現状だ。

 その内、そうやって学校へ来なくなった生徒を誰が言い始めたのか

『はじける』と表現するようになった。

哀しい言い方だと思う。シャボン玉に例えているのだと、鳴鳥から聞いた。

はじけて、消える。

いつか、同級生の記憶からも消えるのだろうか。

「周りから期待され過ぎちゃって、ストレス溜めて溜めて、爆発しちゃうのかな」

 前髪を弄りながら言う鳴鳥は、学年成績20番前後の、上の中位クラスだ。

特にそれ以上、上を目指せと家族からも教師からも言われないし、本人も目指そうと思わないそうだ。頭は良いが良過ぎない、可愛らしいが可愛い過ぎない。本人曰く、人生だいたい80〜90点くらいの奴が要領良くお得に人生を泳いでいけるんだそうだ。

この先もずっとそうなのだろう。


「期待され過ぎ?」

鳴鳥は顔を近づけて声を潜めた。

「水泳部の早川さん。県大会で優勝して、国体に出る予定だったじゃん。でも、先月からずっと病欠で授業も部活も休んでて、どうしたんだろう、って皆心配してたんだけど、家出だったって」


 言われて、窓から対角になった校舎の屋上から下がった、

『国体出場おめでとう 早川瑠美さん』

の垂れ幕を見た。

「悩んでるの、誰も気が付いてあげられなかったのかな。可哀想だよね」

「……本人が周りに気付かせないように、振る舞ってたのかもな」


 優秀な生徒は文武両道な事が多いし、スポーツ推薦や一芸推薦で入学する生徒もいる。早川さんはスポーツ推薦だったか。実績も成績も結果を残し続けなければならないプレッシャーは相当のものだろう。

 ふと、こんな話、2年になってから何度聞いたか考えた。記憶を辿って指を折る。

 夏休み前に1人、夏休み中に2人、9月に入って3人…… 早川さんで6人目だ。


「多いな」

 思わず呟く。皆そんなに荒んでいるのか。

鳴鳥は唇を突き出して首を傾げる。

「ま、神喰はそんな心配ないか。ストレスとか、感じて生きてないでしょ」

 お前に言われたくない、と無表情で返すと、鳴鳥は笑って自席に帰っていった。次の授業が始まるのだ。


 巨漢を揺らして汗を拭きながら入って来た古文の教師は、入って来るや、窓際の生徒に窓を閉めさせ、エアコンをつけて温度の下ボタンを連打した。

 卯一郎の顔と肩に、冷風が勢いよく吹き付けられる。

黙って上着を羽織る。これから1時間近く、目は乾燥し、鼻と頬は冷やされ続ける。だが何の感慨もない。要するに慣れだ。ひたすらに耐えるのみである。

卯一郎は古文の教科書を開いた。

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妖怪かく語りき @an3588

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