第2話
【月の切り口】
紫ピンクの宵闇空に、上弦の月が浮かんでいる。
笑った口の形みてえだな、と叢雲誠司(むらくもせいじ)は思った。
加熱式煙草に口をつけて笑う月に向かって煙を吹く。
肌に当たる風は生暖かく、水分をたっぷりと含んでいる。
その生暖かい風が叢雲の汗ばんだ身体を撫でて煙をどこかへ連れて行く。
暑いから、という理由で人を殺した小説があったっけ。
このぬるく湿って重たくなった空気が人のアタマに悪さするのだろうか、と叢雲は思う。
「もっさん、鑑識終わったそうです」
「おーう」
後輩の逢沢が高架下から呼びかけてくる。叢雲は行儀よく煙草の始末をしてブルーシートのほうへ歩き出した。
その遺体は河川敷の高架下に、首から上がない状態でブロック塀にもたれかかるように座っていたのを、早朝犬の散歩させていた近所の中年夫婦が発見した。
遺体は制服を着た女性であり、制服以外の所持品はなし。が、すぐに判明するだろうとあたりをふんでいた。
警視庁捜査一課で通報を受けたのは叢雲だった。
荒川河川敷で女子高生の遺体が出た、と。
遺体は行儀よく座らされた人形のようだった。初見では首から下に外傷は見られない。衣服に乱れもない。ただ、首から上がないだけだ。それが余計に可哀想に思えた。
私情を職務に挟むのは良くないことと思う。が、憤りは犯人を追うガソリンになる、と叢雲は思っている。逢沢と並んで、遺体に手を合わす。
「もっさん、コレ、凶器はなんすかねえ。やっぱ刀とか……それか斧とか」
遺体の前にしゃがんで首を傾げる後輩の逢沢に、叢雲は素っ気なく答えた。
「検討もつかんわ」
叢雲の答えに、はあ、と逢沢は物足りなそうな返事をした。
叢雲は逢沢の横にしゃがむ。
叢雲は遺体の首の切断面を見て、妙なことに気付いた。
「オイここんとこ見てみろ」
遺体の首の断面の高さまで目を持っていく。逢沢は嫌そうに、しかし叢雲と同じようにした。
切られた断面は見事なものだった。
一刀のもとに、とはこういう事を言うのだろう。途中で刃を止めたり、引いたりした跡がない。辺りは一面血の海だ。これは死後ではなく、この場で切られたことを意味する。
叢雲は真上を見る。切り方にもよるが、首の頸動脈を切られた場合、血の噴出は二、三メートルにもなる。橋の腹にも血痕が届いているかもしれない。
昨日の正午から今日の夕方までは雨が降っていた。橋が傘がわりになって、遺体はあまり濡れていないが、犯人の足取りを追うのは困難かもしれない、と臍を嚙む。切った首は血圧で吹き飛んでないか、犯人がそこらへんに遺棄していないか、周辺を確認中だが、叢雲はなんとなく勘で出てこないと思っていた。
断面を見ていた逢沢は叢雲のほうを向く。
「綺麗に切れてますね」
「切れてるな」
「自分は日本刀だと思います。おそらく、犯人は剣の達人だろうから、刀持ってる剣の達人を調べるっ、てとこで、どうですか」
叢雲は黙って自分の人差し指を断面に近づける。1センチほどの距離を保って、切り口に沿って左から右へ指を移動させた。
指の軌跡は、微かにカーブを描いた。
「気付かないか?」
「なにがですか?」
叢雲が場所を空けたので、逢沢はしかたなく首の断面に真正面から向き合った。目線を首の断面に合わせ、叢雲と同じように指を左から右へ移動させていくうち、気付いた。
「あれ? なんか曲がって……」
よく見ると断面は真っすぐではなく、円の底を当てられたようにほんの少し、カーブを描いているのだ。
まるで今夜の笑う月に喰われたように。
「これ、凄いっすね。こういう剣術の達人とか?」
「それを調べるのが、ウチの仕事だわな。お前らが今、あれこれ考えても、ラチがあかねえよ」
後ろから年季の入ったしゃがれ声が一蹴する。
鑑識服を着た、岩を思わせるがっしりした体軀の中年の男は、現場鑑識係の鮎川だ。うんざりした顔で顔の汗をハンカチで吹いている。
「ユカさん的にはどうっすか? この切り口」
「うるせえなエリート。後で報告書読めや」
逢沢はニヤっと笑う。「日本刀ですよね?」
「うるせえっつってんだろ。今は断定しねえ。切り口なんかなあ、刃の状態と、使い方次第で波形にもギザギザにもならあ」
「はあ」
「刃物じゃねえかもしれねえから、お前の教育係は困ってんじゃねえの」
逢沢はキョトンとした。
「そうなんですか?」
叢雲は見上げてくる逢沢を無視して、鮎川に聞く。
「ユカさん、切り口に金属の成分が付着してるかどうか、どのくらいで結果、出ますか」
「さぁねー」
鮎川が言葉を濁すのは、凶器不明の可能性があるからだ。
「検視官の方はなんて言ってます?」
「他殺だろうってよ」
「んなもん見りゃわかりますよ。そうじゃなくて、どんな凶器でどうやったら、こんな切り方できるのか、例えば、首を絞めて殺した後に、絞めた部分ごと切った可能性はないですか。窒息死なのか失血死なのか……、生活反応は? あったんですか?」
「あー、うるせえ、うるせえ。それを、これから調べんの。そんなに知りてえなら、さっさとホシを挙げて、本人に聞けや」
渋面をつくる鮎川を見て、叢雲はもう答えは得られなさそうだと引き下がった。
「スンマセンした」
「サーセンっしたー」
土手の上の濡れたアスファルトの上に置かれた、銀色のセダンに叢雲と逢沢は乗り込んだ。叢雲が助手席から現場を見下ろすと、黒いスーツの男がブルーシートの中に入っていくのが見えた。本部の強行犯係だろうか。「このくそ暑いのに」叢雲は失笑する。遠目からでもわかる、生地の良さそうなスーツを着こんだその姿が、Tシャツ、ジャケットにチノパンかジーパンがスタンダードの叢雲と対照的だ。
ホストかよ、と鼻で笑って、叢雲は現場をあとにした。
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